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哲学と言語に関するquasimoto_sanのブックマーク (4)

  • 一応突っ込んでおくと、「言語ゲーム」の用法が間違ってるよ。

    「哲学上の諸問題と言われるもののほとんど全ては、定義の問題に帰着する。」というのは、L.W.ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」における中心的な主張。そして『言語ゲーム』というのは、そのヴィトゲンシュタインの作った言葉であり、論である。 そこまでは正しい。 だけど、「言語ゲーム論」というのは、「論理哲学論考」を書いたあと、「これで全ての疑問は解かれた」と宣言して田舎に引っ込んだヴィトゲンシュタインが(田舎で小学校教師をやっていた)、小学生とのふれあいの中から、自分の過去の論(すなわち「論理哲学論考」における思想)の欠陥に気づいて、その欠陥を説明するために作った論なのね。その後彼は、「哲学探究」というを出して、「論理哲学論考」が見落としていた問題について説明しようとした。それが成功したという人もいれば失敗したという人もいるが、このも20世紀哲学史に残る偉大な書であることは間違いない。

    一応突っ込んでおくと、「言語ゲーム」の用法が間違ってるよ。
    quasimoto_san
    quasimoto_san 2014/03/13
    ゆゆ式でよく「言語ゲーム」が引き合いに出されるのはこういうことだったのか
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  • 記号論の再構築のために (1) - 現在思想のために

    記号論の再構築のために――問題と構図 記号論(semiotics)とは何だろうか。歴史的な事実として見れば、記号論は、20世紀の初めに期せずして(だが真実は思想史的必然性によって)記号についての学(sémiologieないしsemiotic)を異口同音に提唱した二人の人物ソシュールとパースの業績が呼び起こした大きくて広範な反響――そのうねりのすべてのなかに具現されている。しかし理論的・概念的な視点から見るなら、〈記号論〉はいま再吟味(re-examination)と更新(renewal)の主題として人びとの目のまえにある。 記号論の理論構成については、さまざまな意見がありうるだろう。とはいえ、それが文字どおり、記号に関する基礎的理論(the general philosophical study of signs and symbols)であることに、大方の異論はないだろう。もちろん細かく

    記号論の再構築のために (1) - 現在思想のために
  • theFstyle

    まず最初の問題は、表象とか現象とか呼ばれているものと現実との間には乖離がある、ということだ。 言語表象は、反実仮想を可能とする。そもそも言語の表現能力は広い。現実態だけでなく可能態をも表現することが可能だ。だから、反実仮想が可能となる。だがしかし、ここで事態は逆転する。そもそも言語で表されたもののうちで、何を現実態と見なし、何を可能態と見なせばよいのか。すなわち検証の問題が生じるのである。 ウィーンから英米へと連なる言語哲学は、この言語と現実との関係をひとまずの考察の対象としていく。 一方でフランスの言語哲学が異なるのは、言語のさらにその外部をどうにかして見出そうとする点である。もちろんこれは必ずしも、英米言語哲学と対立するわけではない。言語の外部とは現実のことだからだ。ただし、英米言語哲学は、まずは言語と現実は一致するはずだ、ということから始まるのに対して、フランス言語哲学は、むしろ

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