タグ

ブックマーク / hallucinyan.hatenablog.com (3)

  • 宇野常寛と脱洗脳――小さな成熟へ向かって - A Mental Hell’s Angel

    宇野常寛は東浩紀ファンを非モテ理論武装系レイプファンタジー人間として批判した。最初からレイプしたいのにそれを倫理的に偽装しているという捻れの問題化である。東からその実在性を再批判されていたが、Twitter、ブログ、オフ会などの僕の観測範囲内では、実在すると言って良い。東クラスタは私見では非モテかメンヘラ女子ハンターが多いように思われる。ちなみにザ☆ルサンチマンハンター小野というWEB漫画があるのだが、これは宇野常寛とその周辺の言説空間への批評として優れている。http://rusahan.web.fc2.com/ 宇野常寛はルサンチマンに対して「小さな成熟」を推奨する。例えば卑近な例を挙げれば、もし当は三次元の女と付き合いたいのに自分に嘘をついてエロゲをやっているのだとすれば、「素直」にそれを口にし漸進的に努力すべきだということである。これは決断主義的トークラジオAliveにて何度も主

  • 「つらぽよ宣言――けいおん!とニーチェ」 - A Mental Hell’s Angel

    つらぽよを生きるということ。 まず言っておこう。稿はけいおん!論である。そうであるのと同時にまた哲学であったりする、そのような奇妙かつ切実なテクストが稿である。東浩紀を含む批評と哲学の立場から、現実を根源的的に取り扱うことを通して、「つらぽよ」と「らぶぽよ」の二項対立が現れ、最終的に「めんへらぶぽよ」浮かび上がってくる、そのような論考になっている。 まず、「つらぽよ」とは何かを説明しよう。つらぽよとは「あげぽよ」や「さげぽよ」などの女子高生用語から派生したスラングであり、まず単純には「つらさ」を意味する。特にそれを僕は「生きづらさ」を表現する用語として使いたいと思う。しかし、つらぽよは単純なつらさとは異なる側面も持たざるを得ない。それは「つらぽよ」という語の「使用」における効用である。つらぽよという語はTwitterで検索をかけてみると実際に多くの人が使用している。なぜ僕らは「つらい」

  • けいおん!の「内面」について - A Mental Hell’s Angel

    けいおん!の内面について、まず杉田悠の非常にクリティカルな指摘をご覧になってもらいたい。 http://m.theinterviews.jp/sugita_u/1231950  杉田悠の言っていることをより詳しく説明しよう。けいおん!の内面については柄谷行人『日近代文学の起源』、大塚英志『キャラクター小説の作り方』、伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』、東浩紀『ゲーム的リアリズ ムの 誕生』を読んでもらいたい。つまり自然主義文学は透明な言語(言文一致体)と透明な風景を備えている。それは近代国民国家(ネーション=ステート)という制度のもと成立した。 そして大塚英志的には自然主義的な近代文学のリアリズムに対し、手塚治虫以後の日漫画やアニメでは、「記号的な身体」に「死にゆく私」や「成熟しようとする私」という「内面」を宿らせた 「半透明性」が存在することとなる。それは手塚治虫から始まったというのが

  • 1