アントニオ猪木氏、ストロング小林さんの訃報に「若くベストな時に勝負が出来た事が走馬灯のように思い出されます」 元プロレスラーで俳優としても活躍したストロング小林さん(本名・小林省三)が昨年12月31日午前7時21分、東京・青梅市内の病院でのう肺のため亡くなったことが6日、分かった。81歳だった。 小林さんの訃報を受け、1974年3月19日に蔵前国技館で歴史に残る戦いを残したアントニオ猪木氏が追悼コメント発表した。 「ストロング小林選手のご冥福を心よりお祈り致します。小林選手との一戦は『昭和の巌流島』と呼ばれ、入り切れない程の多くの観衆に観て頂きました。小林選手もこの試合を人生最高の試合と言ってくれ、私も格別な思いがあります。お互い、若くベストな時に勝負が出来た事が走馬灯のように思い出されます。ストロング小林選手、ありがとう」 猪木氏と小林さんの蔵前国技館での激闘は、1954年12月22日の
まずは『SPA!』で書いたコラムから。 破壊王・橋本真也が亡くなったと最初に掴んだのは、 TBSラジオだったそうである。 この日、ボクはちょうどTBSラジオで仕事をしていたから 早い段階で情報が入ってきたんだが、 いかんせん確証が出るまでは番組でも触れられない。 そのまま出番が終わったので、 格闘技関係に強いある芸人さんに報告だけでもしておこうと 念のため電話を入れたところ、 こんな言葉が返ってきたのである。 「ああ、そういえばT(実話系格闘ライター)から 話は聞いたよ。自殺だって?」 ……なんだ、そりゃ。自殺? 一体どういうことかと思って調べてみたら、 Tは死亡説が流れるなり「橋本真也、借金苦で自殺」という タイトルのメールを過去に仕事をした出版社と知人に BCCで一斉送信したのだそうである。 言うまでもなく破壊王は自殺ではなく病死なので正直、 ボクはカチンときた。 そしてTと直接話して
90年代、新日本プロレスに参戦していた米国人プロレスラー、ボビー・イートンさんが4日に死去した。 5日(日本時間6日)、WWEなどが発表した。62歳だった。死因は未発表ながら7月下旬に転倒し、指と腰を痛めて入院していたという。06年に心臓発作で入院したイートンさんは糖尿病、高血圧など健康上の問題を抱え、13年には手術も受けるなど入退院を繰り返していた。 17歳だった76年5月にデビューしたイートンさんは80年代、ヒールユニット「ミッドナイト・エクスプレス」で人気を博した。WCWなどを経て、93年5月に新日本プロレスで初来日。トニー・ホームと組み、馳浩、武藤敬司組、長州力、飯塚高史組らと対戦。93年6月にはホーク・ウォリアー、パワー・ウォリアー(佐々木健介)組のヘルレイザーズが保持したIWGPタッグ王座にも挑戦した。95年11月、新日本とWCWによる共催ツアーにも参戦し、蝶野正洋、ヒロ斎藤組
▼パトリオットが59歳で死去、小橋建太・秋山準・タイチら追悼ツイート ▼石井vs永田・後藤vs小島・YOSHI-HASHI vs天山はどれも激闘に、本日6人タッグC/新日本 ▼高瀬みゆきが門倉を下し“波女”に、「CATCH THET WAVE」制覇/WAVE ▼東京女子でもUルール・山下実優が舞海魅をKO ▼「5★STAR GP」全国21大会で開催/スターダム ▼諏訪魔は7.11大阪から復帰へ/全日本 ▼9.10はみちのくプロレス後楽園大会史上で“初めてのこと”をする? ▼小島聡をビルモリッシー(ビッグキャス)が挑発/インパクトW タイトルニュース WWE is saddened to learn that Del Wilkes, known to WWE fans as The Patriot, has passed away at the age of 59. WWE extends
「ミスターワンダフル」の愛称で親しまれた、米国の元プロレスラーでポール・オーンドーフさん(本名ポール・パーレット・オーンドーフ・ジュニア)が12日(日本時間)に死去したと世界最大団体のWWEなどが伝えた。71歳だった。 アメフト出身のオーンドーフさんはヒロ・マツダの指導を受け1976年にプロレスデビュー。1980年には新日本プロレスで初来日し、長州力や藤波辰巳から勝利を収めアントニオ猪木ともシングルマッチで対戦した。また83年4月には蔵前国技館で前田日明のヨーロッパ凱旋帰国初戦の相手を務めた。 83年にWWF(現WWE)に移籍すると「ミスターワンダフル」のニックネームでハルク・ホーガンのライバルとして活躍した。88年にWWF退団後はWCWを経て95年に引退。2005年にWWE殿堂入りを果たしている。 オーンドーフさんの死因は明らかにされていない。ホーガンはSNSで「ポール・オーンドーフのニ
1/41 スクロールで次の写真へ アントニオ猪木(1976年06月11日) 【時事通信社】 関連記事 「燃える闘魂」再び アントニオ猪木氏インタビュー政治家・猪木は誰と闘ってきたのか?昭和のプロレス キャプションの内容は配信当時のものです
"ゴージャス" ジノ・ヘルナンデス("Gorgeous" Gino Hernandez、本名:Charles Eugene Wolfe Jr.、1957年8月14日 - 1986年2月2日[2])は、アメリカ合衆国のプロレスラー。テキサス州ハイランド・パーク出身。1972年に日本で死去したプロレスラー、ルイス・ヘルナンデスは継父にあたる[3][4]。 地元のテキサスを主戦場に、サンアントニオとダラスの2大プロモーションを股にかけて活躍。プロレス界でも屈指のハンサム・ガイでありながら、持ち前の向こうっ気の強さを活かし、不良系のヒールとして名を馳せた[5]。イタリア系とヒスパニック系のハーフであり、ハンサム・ハーフ・ブリード(The Handsome Half-Breed)の異名を持つ。そのキャラクターは、弟弟子ショーン・マイケルズのハートブレイク・キッドにも通底している[6]。 来歴[編集]
ここんとこ記憶をたどっている。たしかなものから途切れ途切れのものまで我が記憶は危うい。なにせ半世紀50年のキャリアだから(笑)。その中で、ふと思い出したのは昭和50年12月11日、日本武道館で行われた
昔鶴田の三冠にゴディが挑戦せて奪取した試合ですが最後変な返し方のDDTであっさりフォールで終わったのですがあれはアクシデントですか? 見ていて「えーーーー??」って感じでした DDTは 昔鶴田の三冠にゴディが挑戦せて奪取した試合ですが最後変な返し方のDDTであっさりフォールで終わったのですがあれはアクシデントですか? 見ていて「えーーーー??」って感じでした DDTは ゴディのフィニッシュホールドでは無かったですしフォールを取られるような感じの攻防では無かったですし 当時の全日本の試合では違和感がありました
ジャイアント・キマラさん緊急手術で生命維持装置に 過去に両足切断 元プロレスラーのジャイアント・キマラさん(67=本名ジェームス・ハリス)が現地時間の19日に米国で緊急手術を受け、生命維持装置につながれていると現地の複数のメディアが報じた。手術を受けた理由は明らかではないが、糖尿病、高血圧など健康の問題を抱えており、11年に左足、12年に右足を切断している。 ウガンダの民族系キャラクターで知られるキマラさんは、米国ではカマラなどのリングネームを名乗り、身長2メートル近い巨体を武器にWWF(現WWE)などで活躍。85年にはジャイアント・キマラのリングネームでジャパンプロレスに初来日。その後、全日本プロレスにも参戦し、ジャイアント・キマラ2号とタッグを組んだ。 続きを見る
“狂乱の問題児”キラー・ブルックスさん死去と米報道 85年には長州&谷津と対戦 “狂乱の問題児”と呼ばれた米国出身の元プロレスラー、キラー・ブルックス(本名ティモシー・ブルックス)さんが現地時間の6月30日に死去したと複数の米国メディアが報じた。73歳。ガンで闘病を続けていたという。 葉巻きをくわえ、骨を振り回しながら入場する狂乱ファイトの悪役だったブルックスさんは69年に米国でプロレスデビュー。多くのローカル王座を獲得しただけでなく、75年にはNWA世界ヘビー級王者ジャック・ブリスコに挑戦するなど活躍し、97年に引退した。 来日経験も多く、72年3月に日本プロレスのワールドリーグ戦に出場に始まり、74年10月には全日本プロレス、77年11月には国際プロレスに参戦。81年3月には全日本プロレスに戻り、85年3月に両国国技館でブルーザー・ブロディと組み、長州力、谷津嘉章組と対戦した。87年5
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く