川合 玉堂(かわい ぎょくどう、1873年〈明治6年〉11月24日 - 1957年〈昭和32年〉6月30日)は、明治・大正・昭和時代の日本で活動した日本画家。本名は 川合 芳三郎(かわい よしさぶろう)。画号は当初「玉舟(ぎょくしゅう)」[1]、間もなく「玉堂」に改め、晩年は終の棲家と同名の「偶庵(ぐあん)」を別号として用いた[1]。長男の真一は化学者で東京教育大学名誉教授。 愛知県葉栗郡外割田村(現在の一宮市木曽川町外割田[* 1])にて、1873年(明治6年)11月24日、筆墨紙商の長男として生まれる[1]。1881年(明治14年)、一家は岐阜市に移住する[1]。絵には12歳頃から親しむようになったという。1886年(明治19年)、京都の画家・青木泉橋が岐阜に来住すると[1]、夫人も翠蘋と号する美人画家で[1]、芳三郎少年は青木夫妻の知遇を得て大いに刺激を受けたという[1]。 1887