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2009年7月18日のブックマーク (9件)

  • 蹂躙の中の自由 - 地を這う難破船

    はてなブックマーク - nanae_llのブックマーク / 2009年7月14日 nanae_ll 性  「合意がないからSM」…えーと、世の中には「SはサービスのS、Mは満足のM」という言葉もありまして(何)/まあ軽口はともかく、サディズムを「嗜虐趣味」、マゾヒズムを「被虐趣味」とするならば、(メタブへ続く) 2009/07/14 nanae_ll 性  (続き)両者の合意に基づくSMプレイはありうると思いますし、程度問題ですが一概に否定されるものでもないと思います/というか、DVの類とプレイを区別するために「合意」が必要だと思ってるんですが、私は。 2009/07/14 nanae_ll メタブ  NaokiTakahashi様 すみません、私は生身基準の話しか出来ないので;/ただ、「生身の問題」であれば、合意のないSMって単なる暴力ですよね?/y_arim様 自覚はあるので、表現論

    蹂躙の中の自由 - 地を這う難破船
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    rrmmjjff 2009/07/18
  • 万人がノイジーであるということ - 地を這う難破船

    ⇒「表現の自由を脅すもの」書評 - 地下生活者の手遊び ⇒Non-Fiction(Remix Version) | ヘイトスピーチと言論の自由 tikani_nemuru_Mさんやうちゃさんに対する反論ということではなく、私なりの補足的な見解として。 ハーバーマスの公共圏論に対するテンプレートな批判として、言論強者の論理、というものがありました。ハーバーマスにおいて言論とは公共圏の問題だったから。言論が公共圏の問題なら、配慮とは、公共圏の言論に耐えない他者を想定することです。ジョナサン・ローチが批判したのは、そのことでした。今回問題視されたことに限らず、性犯罪被害者、被差別者の言動が「公共圏の言論に耐えない」として却下される光景を私は幾度も見てきました。 ヘイトスピーチにも言論の自由はあるか、という問いは微妙にトラップで、つまり欧米においてヘイトスピーチと定義されるそれは言論ではないので。

    万人がノイジーであるということ - 地を這う難破船
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    rrmmjjff 2009/07/18
  • 自由の核心にあるもの - 地を這う難破船

    些か応答が遅れて申し訳ありません。更新の時間が取れませんでした。 ⇒ロクでもないけどこれしかない - 地下生活者の手遊び ■ まず第一に、国がマンガの美術館を作るということは何ら不自然ではない。すでにある国立の美術館に並んでいる芸術作品と同じくらいの気合で、我々はマンガを描いている。国立のマンガ美術館、やれるものならやってください、でも無理でしょう? というのが僕の考えだ。 アート全体にも言えることだが、マンガの中には政府や政治家にとって都合の悪いもの、眉をひそめるようなものがたくさんある。そういうものがほとんどだ、と言ってもいいくらいだ。国や政府が保護したり育成したりバックアップできる代物ではない。 例えば非常にエロチックなもの、あるいはくだらないもの、「くだらない」とくくられるもの、そんなマンガがすべて、国の建設した建物の、劣化を防ぐために空調が完備された部屋の棚にズラーッと並べられ

    自由の核心にあるもの - 地を這う難破船
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    rrmmjjff 2009/07/18
  • ジェンダー素描 「クィア」の難問(アポリア)

    神名龍子 しばらく前に、書店で『Queer JAPAN』(クィア・ジャパン、勁草書房)という(雑誌?)を見かけて買って来ました。基的には名前の通り、「クィア」に関するという事なのでしょう。ごく一部を除いては特に熱心に読むつもりもなく(失礼)、気が向いたときだけ前後にこだわらずに部分々々を拾い読みして、ようやく過半を読み終えたというところですが、読めば読むほど、この「クィア」という概念に対してある種の違和感が湧いてきました。 この稿は、私自身が「自分の内に生じた、この違和感は一体何だろう?」ということを考えるために書いています。 「クィア」というのは既に【EON/W】の「用語概説」でも取り上げていますが、そこでは 元は「おかま」「変態」「奇妙な」等の意味合いの蔑称。近年、この否定的なレッテルを逆手にとり、その「変態」性を肯定する前向きな姿勢で用いるとされる。日では同性愛者、バイセク

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    rrmmjjff 2009/07/18
    (セクシュアリティとジェンダーという2つ)
  • クィア学会に行ってきました。 - キリンが逆立ちしたピアス(ブログ版)

    11月9日に開催されたクィア学会の分科会に行ってきた。*1クィア学会ということで、論題も多種多様。法や歴史、哲学的な考察もあれば、実証研究や運動論もあった。その中で、私が度肝を抜かれたのがローラン・エリック「日における性人類学のフィールドワークでの”性的参与” ―男性同性愛学的な研究の例」である。 エリックさんは、日の男性同性愛者を対象に、インタビュー調査を行っている。その際、インフォーマント(調査対象者)を、来は性的な相手を募集する場で探したという。エリックさんは、その行為を、場のルールを無視した、領域侵害だと考えている。その前提の下で、インフォーマントから、性的行為*2の誘いを受けたとき、調査者はどう対応すべきかについての方法論を考察している。また、フランスで同様の調査を行ったときには、インフォーマントから性的行為の誘いを受けることはほとんどなかったという。さらに、日で別の目的

    クィア学会に行ってきました。 - キリンが逆立ちしたピアス(ブログ版)
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    rrmmjjff 2009/07/18
  • ケリー・H・ロビンソン「ジェンダーをクィアする:初期の児童教育におけるヘテロノーマティヴィティ(異性愛規範性)」(2005) - に し へ ゆ く 〜Orientation to Occident

    以下は、 Kerry H. Robinson, “Queerying gender: Heteronormativity in early childhood education”, Australian Journal of Early Childhood, 30(2), (2005) のノート。 レインボープライド愛媛が呼びかけている、 愛媛県主催人権フェスティバル「ふれあいフェスティバル2008」(9月7日)への性的少数者のメッセージ(8月27日締切) に、僕も何か書いてみたいなと思考中。 自分のことというより、間接的にでも、小学生、中学生、高校生のゲイの暮らしやすさにつながるようなことを言いたいなと思う。 しかし、誰に対して、なにを、どう言えば、どんなふうに伝えることができるだろう、僕みたいに表現力の乏しい人間には、けっこう難しい。 そういえば先週末は、8月1日〜3日に開催された第

    ケリー・H・ロビンソン「ジェンダーをクィアする:初期の児童教育におけるヘテロノーマティヴィティ(異性愛規範性)」(2005) - に し へ ゆ く 〜Orientation to Occident
  • それでも性的マイノリティとして児童性愛者を見る必要はあると思う - 変身物語

    「小児性愛の何を問題にしたいのか」(モジモジ君の日記。みたいな。)id:demianさんの記事などをうけて、id:mojimojiさんはこの文章で小児性愛について書かれている。そのなかには様々な論点があり、個人的にはほかにも疑問を感じる点があるのだが、ここでは児童性愛者の性的マイノリティ性についてだけ絞って論じたい。さて、モジモジさんは、まず「成人対象の異性愛」という規範からの逸脱としては、同性愛など他の性的マイノリティと小児性愛は迫害の歴史をおなじくするという。しかし、その理由だけから、小児性愛を他の性的マイノリティと同様に扱うわけにはいかないという。その理由は、同性愛などは行為としてなんら問題になることはないのにたいし、小児性愛は児童が性的主体足りうるかという問題点がかかわるからなのだという。確かに、性的マイノリティの権利の問題というものが、性的マイノリティの当事者がその欲望にしたがっ

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    rrmmjjff 2009/07/18
  • macska dot org » Blog Archive » 鈴木謙介氏論文「ジェンダーフリー・バッシングは疑似問題である」と「弱者男性」論への疑問 - コメント欄 -charlie のコメント 2006/07/20 - 06:54:59

    Filed under backlash, economics Posted on 2006/07/19 水曜日 - 08:35:14 by admin Responses are currently closed, but you can trackback from your own site. http://macska.org/article/147/trackback/ 56 Responses - “鈴木謙介氏論文「ジェンダーフリー・バッシングは疑似問題である」と「弱者男性」論への疑問” 斉藤 Says: 2006/07/19 - 18:25:53 - すばらしい力作(あ、いつもか・・)でした。これ、今年の日語圏フェミニスト論文大賞ものです! おっしゃるように、フェミニズムがバッシングの対象となるのは、ネオリベ社会になり、「誰が弱者であり、どの程度の手当てが必要とされるのか」

    macska dot org » Blog Archive » 鈴木謙介氏論文「ジェンダーフリー・バッシングは疑似問題である」と「弱者男性」論への疑問 - コメント欄 -charlie のコメント 2006/07/20 - 06:54:59
  • 「ジェンダーフリーではないフェミニズムには反対」論の自意識過剰と不寛容 - *minx* [macska dot org in exile]

    以下は最近家ブログで続けている「弱者男性」論への対応シリーズの番外編。id:kmizusawa さんの「順番が違う」という記事への反論というか「違和感」を書いた Masao さんという方の「当に抑圧されているのは誰か ?「フェミニズム」と「ジェンダーフリー」は別物なの?」という記事に軽くコメント。 実際に抑圧されているのは「男」でも「女」でも「ゲイ」でもなく、「社会から求められるジェンダー規範に乗れない/乗りたくない人たち」ですよ。社会規範に乗れている人たちは、どんなジェンダーを持っていようと、抑圧なんかされていないんですよ。対立しているのは「男VS女」ではなく、「規範適応者VS非(不)規範適応者」ですよ。ここまでは、以前別館でも書いたとおり。 なぜ「それではなく、これ」という話になるのか。「性別を理由とした抑圧」「性的指向を理由とした抑圧」「ジェンダー規範による抑圧」のうち、どれか1

    「ジェンダーフリーではないフェミニズムには反対」論の自意識過剰と不寛容 - *minx* [macska dot org in exile]