「平塚明神并別当城官寺縁起絵巻」によれば豊嶋郡の郡衙があった場所に平安時代に豊島近義が築城したと伝えられる。後三年の役の帰路に源義家、義光、義綱の兄弟がこの館に逗留し、手厚いもてなしに感謝した義家は鎧一領と十一面観音像を下賜した。後に、この鎧を城の守り本尊として埋めて塚を築いた。これを鎧塚(甲冑塚)という。また、この塚が高くなく、平たかったことから「平塚」の地名が生まれた、ともされている(しかし、実際には銀環が出土しており、塚は上古の古墳であった可能性が高い)。平塚神社は豊島氏が義家、義綱、義光の徳を慕って三人の宿泊の地に社を営み、影像を奉祀したことが起源とされており、このことから社は昔「平塚三所大明神」と呼ばれていた。甲冑の下賜は単なる伝説であるが、隣接地からは当時の奥州に通ずる道の跡が発見されており、そのため近年では「三人の宿泊自体は十分に有り得たのではないか」とも考えられている(シン