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ブックマーク / blog.szk.cc (6)

  • 続・社会学は何をしているのか

    以前のエントリで触れたように、社会学という学問は往々にして誤解にさらされるものだ、と、当の社会学者自身が思っている。社会学が他の学問より誤解を受けているという証拠はないけれど、少なくとも研究対象になるものが、専門家以外でも触れることのできる、多くの人が経験したことのある出来事だからこそ「社会学者の見方は間違っている」と非難されることが多くなるのは確かだろう。その非難は、学術を専門としない当事者だけでなく、同じ対象を扱っている他分野の研究者からなされることもある。 たとえば昨年開催された日社会学会におけるシンポジウム「社会学への冷笑と羨望――隣接分野からのまなざし」は、そのような他分野からの視点を学会的に取り入れようという意欲的な試みで、僕自身は参加しなかったのだけれど、とても刺激的なやりとりがあったようだ。学会員向けのニュースレターによると、環境経済学の専門家から指摘されたのは、環境問題

    続・社会学は何をしているのか
    shibacow
    shibacow 2021/02/01
  • 社会学は何をしているのか

    「何をしているのか分からない」 社会学部の教員をしているとぶつかる壁のひとつに「社会学を宣伝することの難しさ」がある。社会学部の教員も学生も、「社会学部って何をするところ?」とよく聞かれるのに、それに答えられないというのだ。もっとも「じゃあ経済学部では何を勉強するか知ってる?」と聞いても「経済のことを勉強するんでしょ」という、おそらく経済学者なら間違いだと言うだろう回答しか返ってこないわけだから、「社会学は説明が難しい」というのも思い込みでしかないのだけれど。 一昔前の日の教科書では、「社会学は常識を疑う学問です」なんて書かれていた。けれどこの説明も、もう古臭いものになっている(この辺についてはこのや講義動画を参照)。最近の説明としては、日社会学会の社会学部への進学を考えている人向けのサイトで示されている「異なる価値観をもった人間たちが多数集まって形成されるこの社会を解き明かす学問」

    社会学は何をしているのか
    shibacow
    shibacow 2020/09/16
    強制はしないと言うところで齟齬がありそう。圧力と批判のあいだみたいな。
  • オンライン化で失われたもの

    もしも僕がいま、二十歳の大学生だったら、それはもう相当に怒っていたと思う。 高校までは再開して、アルバイトでは感染対策をした上で通常の業務を行うのが当然と言われ、それなのに大学は年度内ずっとオンライン。大学からの説明は不十分であるか、説明があったとしても「大学への通学は感染リスクが高いから仕方がない」「ただし学費は満額いただきます」だ。大学教員のブログを見れば「大学は感染対策を甘く見ている。今後もずっとオンラインの覚悟を持つべきだ」「大学は不当に批判されている、私たちも頑張っているのに」とくる。ついでに言うなら、学生の授業環境の改善について指針を示すのではなく、おおむね大学の対応に文句をつけ、学生にもそのような見解を共有するだけであることも多い(なお、給料とボーナスが例年通り支給されていることについては伏せられている)。 もちろん僕は教員側なので、そうした学生の主観的な思い込みには、いくつ

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    shibacow
    shibacow 2020/08/09
  • 「コロナ後の世界」は来るか?

    この数週間、世界中の人々の関心は、新たな感染症の拡大と、それに伴う種々の社会的影響に集中している。情報の同期性が強まり、同じ話題をリアルタイムに共有することが可能になった現代では、このような危機的状況での不安や懸念も即座に拡散される。先が見通せない中で、指導者の思い切った決断が必要だとか、もたもたせずに迅速に行動すべきだといった主張も見聞きされるようになった。 そうした中、ユヴァル・ノア・ハラリが日経済新聞に興味深い論考を寄稿している。その内容は、政治的な決断とリーダーシップを求める声が、国家権力による監視の強化と孤立主義を深めることを憂慮し、市民の知識をアップデートすることや国際的な連帯を強くすることを求めるものだ。つまり「コロナ後の世界」が、独裁的で権威的なものになるか、リベラルでオープンなものになるか、という選択に直面しているというのである。 https://www.nikkei.

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    shibacow
    shibacow 2020/04/17
  • 女性専用車両とカテゴリー保護のジレンマ

    鉄道会社が設ける「女性専用車両」については、こうやってネットに文章を書き始めた20年くらい前には既に定番の「着火ネタ」だったから、もう何周目だよ見飽きたよという人もいると思う。もちろん、それにも関わらず一向に状況が改善されていないように見えるのもまた確かで、体が小さく、髪を伸ばしてたりすると痴漢に遭遇することもある身としては、暴力が個人ではなくカテゴリーに向けられることの理不尽さや、自責の念、自罰感のようなものを経験することも多く、どうにかならないもんかなあとついいろいろ考えてしまう。というわけで、少し抽象度の高い社会思想のお話。 今回の議論の発端はこちらの記事にあるような、女性専用車両への男性の意図的な乗車とそれがもたらすトラブル。少なくともネット上(の一部)では議論を喚起することに成功したという点で、実行した人たちの目的は果たされているようにも思う。ただ山口先生がお書きになっているよう

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    shibacow
    shibacow 2018/02/26
  • ウェブの賑わいと「孤独なお茶の間」

    長いことブログを更新する余裕とモチベーションがなかったのだけど、少し思うところがあって再開してみようと思う。というのもこの春くらいからいくつかマーケティング絡みの仕事をして、その流れで考えたことが色々あったのと、同時期に書いていたがめでたく夏頃には刊行できそう(ステマですよ奥さん)だからだ。 大きなところで言うと、3月15日に開催された放送文化研究所のシンポジウム「ソーシャルパワーがテレビを変える」。放文研の調査データの紹介と、それをもとにしたパネリストの議論が中心の回だったのだけど、やっぱりもにょもにょとした印象はぬぐえなかった。 データそのものは面白い。実際の番組で用いられたソーシャルメディアとの連動企画に参加した人がどのくらいいたのかといった数字は、この分野に関心のある人ならまず知りたいところだろう。で、ふたを開けてみると、アクティブに参加するのはおおむね視聴率に対して1割、裾野を

    ウェブの賑わいと「孤独なお茶の間」
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