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historyに関するshibudqnのブックマーク (184)

  • プラレールの起源が判明したお話 - パーラー フルール

    プラレールは富山商事(→トミー→タカラトミー)が1959年に発売した「プラスチック汽車レールセット」を始祖とし、1958年に更にその元となる「ハイウェーセット」が発売されたという話を踏まえてご覧ください。 既存の情報も含まれます。 ※2020/8/14 新情報発掘に伴い追記。及び文修正。 ※2020/10/12 追記。及び文修正。 事の発端は3年前の2017年、プラレールの謎のポイントレールを発見した事に遡ります。 名称不明のポイントレール。カタログにも載ってなければセット品も未確認の謎レールです。半円が組めます。 暫定的に「安全側線レール」とでも呼んでおきます。 pic.twitter.com/Jjv2xFWald— なゆほ (@Nayuho6866) 2017年11月18日 ジャンクの古いボロボロな1960年代のレールの寄せ集めに入っていたこのレール。まだ「プラレール」ブランド登場

    プラレールの起源が判明したお話 - パーラー フルール
  • ぼくは見た、国の消滅を | NHKニュース

    10歳だった。 その時ぼくは、まだ「ソビエト連邦」だったモスクワにいた。 そこで見たのは、「国」というものが劇的に変化する瞬間だった―― 外務省が公開した6000ページにのぼる外交文書。外交官たちの生々しい報告が、私をあの時代に連れ戻した。そして私は、何が起きていたのかを初めて実感した。 (政治部・渡辺信) その書き出しは、文学的だった。 『BUKSOVAT(空転する)。2年1か月のモスクワ在勤を終え帰国する日、空港の暗い待合室で搭乗を待ちながら、ふと、この単語が頭に浮かんだ。ゴルバチョフの始めたペレストロイカを、ひと言で総括するとすれば、まさに「空回りしている」というのが適当ではなかろうか』 1987年11月の「ソ連在勤を終えて」という報告書の冒頭だ。書いたのは、モスクワの日大使館の政務班長だった角崎利夫氏。これまで私が読んできた硬い外交文書とは異なる表現で、1985年に書記長に就任し

    ぼくは見た、国の消滅を | NHKニュース
  • ー40℃超のシベリアで黒パンをかじりながら、祖国へ戻る希望をひたすら抱き続けた【抑留体験】 - メシ通 | ホットペッパーグルメ

    「シベリア抑留」という歴史上の悲劇をご存じだろうか。 終戦直後、当時の満州国などの外地に残っていた日兵ら約60万人が、ソ連によって武装解除・投降を余儀なくされ、捕虜としてシベリアをはじめとするソ連各地に移送された出来事である。そこでは想像を絶する寒さや容赦のない重労働、劣悪な生活環境などにより、約10人に1人にあたる約6万人が命を落としたといわれている。 今回で第6回目を数える「極限メシ」で話をうかがったのは、極寒のシベリアで2年4カ月もの間抑留された後、生還した中島裕さん(92歳)。中島さんと戦友たちの命運を分けたものはなんだったのか。極限状態の中、いったい何をべて生き延びたのだろうか。 壮絶なエピソードに加え、ご人が抑留体験を回想しながら描きためたという絵もぜひご覧いただきたい。 話す人:中島裕(なかじま ゆたか)さん 大正15年(1926年)北海道生まれ。昭和19年(1944年

    ー40℃超のシベリアで黒パンをかじりながら、祖国へ戻る希望をひたすら抱き続けた【抑留体験】 - メシ通 | ホットペッパーグルメ
  • 東峰、三里塚…成田空港周辺を巡り、そして砂川に思いを馳せる - 日毎に敵と懶惰に戦う

    9月10日土曜日、青春18きっぷ有効期限最終日。そして手元には1回分の余り。どこに行こうか迷った末、成田に向かうことにする。行きたいところがあるのだ 横浜から6時32分に乗った快速エアポート成田は、2時間15分かけて空港第2ビル駅へ。ここから歩いてある場所に向かうつもりなのだけれど、案内版はどれも空港の空港としての案内であって、空港の外に向かう道案内は何もない。とは言え、成田であるからそこらじゅうに駅員も職員も警察官も山のようにいるわけで、道を聞けばいいではないかと思うだろうけれど、なんというか、ものすごーく聞きにくい場所なのである ひとまず地下から1階に出て、方向的には北だろう…と北に向かえば、そうか、第2ターミナルから北には、LCC向けの第3ターミナルが出来たのだった。ひとまずはそちらに向かってみよう。 第3ターミナルは第2ターミナルから600m以上。無料送迎バスもあるみたいだけれど、

    東峰、三里塚…成田空港周辺を巡り、そして砂川に思いを馳せる - 日毎に敵と懶惰に戦う
  • 【何が怖いって】本土にあった怖い話 まとめ【全部事実なこと】

    金剛つんどら @tundrache 「北号作戦が成功したのはいいが、どうすんだこの呉に積み上げられた物資……。鉄道輸送なんか壊滅してるぞ!」 伊勢「ウチは知らん」 #土にあった怖い話 2012-08-18 23:12:53

    【何が怖いって】本土にあった怖い話 まとめ【全部事実なこと】
  • 戦争が終わって100年経ってもなお残る「人間が住めない場所」

    破壊と命の奪い合いを行う戦争の影響は、戦争そのものが終わっても土地を汚染して影響を与え続けることがあります。第一次世界大戦でフランス軍とドイツ軍が熾烈な戦いを交わした戦地には今でもその負の遺産が残されたままの状態となっており、100年が経過した今でも人や動物が住むには適さない場所としてうち捨てられています。 After 100 years, World War I battlefields are poisoned and uninhabitable - We Are The Mighty https://www.wearethemighty.com/popular/world-war-i-battlefields-uninhabitable/ Red Zone - National Geographic Society http://nationalgeographic.org/news

    戦争が終わって100年経ってもなお残る「人間が住めない場所」
  • 鳥越俊太郎氏の“黒歴史”『オーマイニュース』について振り返ってみる(ふじいりょう) - 個人 - Yahoo!ニュース

    舛添要一氏の辞任によって行われる東京都知事選挙に、鳥越俊太郎氏が立候補を表明した。報道によると、野党4党の統一候補になる見通しだという。立候補表明の会見については、『THE PAGE』などが詳報を出している。 鳥越俊太郎氏が都知事選の出馬を正式表明(全文1)時代の流れを少し変えたい (THE PAGE 東京) 鳥越俊太郎氏が都知事選の出馬を正式表明(全文2)野党4党からの支持打診(THE PAGE 東京) 都知事選にも関わらず「国の流れを少し変えたい」と話しつつ、具体的な政策になると「わからない。これから詰める」という発言を連発するあたり、妙な既視感があるなぁと感じていたのだが、それは2006年に就任した『オーマイニュース』日語版創刊編集長になった時と似ているところが多々あるからだ。 まずは鳥越氏のサイトで略歴を見てみよう。 1940年3月   福岡県吉井町(現うきは市)生まれ 58年3

    鳥越俊太郎氏の“黒歴史”『オーマイニュース』について振り返ってみる(ふじいりょう) - 個人 - Yahoo!ニュース
  • 田中圭一のゲームっぽい日常 バブルの舞台裏 - OPTPiX Labs Blog

    「政府は景気が回復しているというけれど、少しも実感することができない。」 これは、小泉政権のころからず〜っと世間で言われ続けていることだ。こんな話を聞くたびに私は周囲の人に「じゃあどうなったら景気が回復したと実感する?」と聞いている。様々な答えが返ってくるけれど、総合してみると「バブルの時代が戻ってくれば」というのが一般的なようだ。なるほど、好景気とはまさにあの時代を指して言うのだろう。 しかし冷静に考えてみてほしい、「バブル」と名前がついてることから、この好景気は「弾けることが前提」であり、決して人々を幸福にするものではないのだ。 ボクはよく20代の人から「あなた方はいいですよね。バブルの時代にいい思いをしたのでしょう。」と言われることがある。 しかし、あの時代ボクは社会人になったばかりで、いい思いなんかほとんどしちゃいないのだ。バブル期にいい思いをしたのは、経営者から課長ぐらいまでの管

    田中圭一のゲームっぽい日常 バブルの舞台裏 - OPTPiX Labs Blog
  • 昭和の保育: 極東ブログ

    先日、「現代は少子化なので幼稚園も経営努力として保育にも関心を持っていることがある」という話を書いたところ、「なに言ってんのこの爺、昭和の話してんじゃないよ」みたいなコメントを頂いた。なるほど徳仁親王と同世代の私も爺という時代にはなったが、「それってどこが昭和なんだろうか」とも思った。昭和の保育っていうのは……とちょっと思って、そうだなあ、昭和の保育の話を書いてもいいなと思った。昭和という時代の保育がどうだったか、教えられないのかもしれないが、知らない人も増えてきたので、奇妙な誤解も生まれているかもしれない。 昭和の保育というが、昭和は大雑把に二つの時代に分けられると思う。あるいは、三つだろうか。戦前、戦後、もはや戦後ではない時代。昭和の戦争はメディアで映像的にもよく取り上げられるが、意外と戦争自体の時代は短い。日中「15年」戦争もあり、それも戦争期ではあるが、当時の世界情勢を見て特段に戦

    昭和の保育: 極東ブログ
  • 日経ビジネスのバックナンバー記事で振り返る、あの頃の注目企業はいま : 市況かぶ全力2階建

    決算発表が出ないことを怪しんでストップ高まで買われたエックスネット、TOBされるどころか逆に資提携解消で切られて過剰にお金が流出するお笑い劇場に

    日経ビジネスのバックナンバー記事で振り返る、あの頃の注目企業はいま : 市況かぶ全力2階建
  • 【悲報】 鎌倉武士団、モンゴルより鬼畜だった:カオスちゃんねる

    2022年08月04日22:00 【悲報】 鎌倉武士団、モンゴルより鬼畜だった 過去のおすすめ記事の再掲です 1: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2015/11/05(木) 08:01:09.83 ID:9V5u6vqf0.net 元寇の鎌倉武士団打線(最新の研究) 1(中) 壱岐対馬は最初から見殺して相手の戦法を見極めてた 2(二) 既に出兵5か月前に出兵の時期を想定し鎌倉武士団を大宰府に展開してた 3(一) 相手が人質を楯にして攻めてきても関係なく矢を射かけまくってた 4(三) 2度目は30キロの防塁を沿岸に、20キロの空堀を博多の南に、10キロの水堀を大宰府に築いていた 5(遊) 博多が略奪されてるのは目に見えてるので、敵が来る三日前に博多を略奪しつくしてた(鎌倉武士団が) 6(右) 2度目の時はモンゴルに倣って人質を楯にして攻撃してた 7(左) てつはうにあんまり動じずそのまんま

    【悲報】 鎌倉武士団、モンゴルより鬼畜だった:カオスちゃんねる
  • 【ガチの】プロ野球「黒い霧事件」とはなんだったのか【八百長】 : 日刊やきう速報

    一番最初、発端は 西鉄の外国人野手カール・ボレスが対戦相手コーチの与那嶺要に 「ウチにわざとエラーする選手がいる気がする」 とこぼしたこと。

    【ガチの】プロ野球「黒い霧事件」とはなんだったのか【八百長】 : 日刊やきう速報
  • ママにもわかる竹中組復活の衝撃

    鈴木智彦/SUZUKI TOMOHIKO @yonakiishi 今日、井野さんと西岡さんと打ち合わせでした。来、ライター同士で打ち合わせするのは好きじゃないんです。だってその場で西岡さんが言ったネタを、翌日俺が別ルートで掴んだとする。やっぱりそれは西岡さんが優先です。俺は書けなくなる。俺が出した話もそう。唾の付けあいみたいになってしまう。 鈴木智彦/SUZUKI TOMOHIKO @yonakiishi だけど西岡さんとは興味もネタ元も被らず、そんなことを意識しないで喋れる。人柄と思います。工藤會の溝下さんが書いた2冊目のタイトルは『愛嬌一締め』ですけど、書き屋も対人で話を聞き出す仕事だから、やっぱり愛嬌があったほうがいい。無愛想で話し下手な俺は、元来、取材に向いてない。

    ママにもわかる竹中組復活の衝撃
  • おじいさんは山へしばかりに −日本における森林の利用と破壊の歴史− その1 概略 - バッタもん日記

    おじいさんは山へしばかれに行きました。おじいさんはドMでした。 1.はじめに 昔話の「桃太郎」の冒頭は、「おじいさんは山へしばかりに行きました」で始まることが一般的です。では、この「しばかり」とは何を意味するのか。このネタは森林学の書籍を読むと、高い確率で出てきます。 現代の日に生きる我々の感覚としては、「芝刈り」が容易に想像できると思います。しかし、正解は「柴刈り」です。「芝」と「柴」はどう違うのか、おじいさんはいかなる目的で「柴刈り」に行ったのか。今回の記事では、森林の利用と破壊を中心として、日における環境問題の歴史を考えてみたいと思います。 とても1の記事でまとめられる分量ではないので、数回に分割して掲載します。この記事では、導入と内容の整理を兼ねて、概略を示します。科学論文の冒頭に「abstract」が掲載されているようなものとお考え下さい。 なお、後の記事でも繰り返し強調し

    おじいさんは山へしばかりに −日本における森林の利用と破壊の歴史− その1 概略 - バッタもん日記
  • 痛いニュース(ノ∀`):【沖縄戦】「ウソをつき通してきたが…」 "日本軍の命令で自決"、実は創作  渡嘉敷島集団自決で、初証言

    【沖縄戦】「ウソをつき通してきたが…」 "日軍の命令で自決"、実は創作  渡嘉敷島集団自決で、初証言 1 名前:☆ばぐた☆ ◆JSGFLSFOXQ @☆ばぐ太☆φ ★ 投稿日:2006/08/27(日) 12:00:28 ID:???0 第二次大戦末期の沖縄戦の際、渡嘉敷島で起きた住民の集団自決について、戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄さん(82)が、「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は1人もいなかった」と証言した。現在も多くの歴史教科書で「強制」とされているが、信憑性が薄いとする説が有力。琉球政府の当局者が実名で証言するのは初めてで、軍命令説が覆る決定的な材料になりそうだ。 照屋さんは、旧軍人軍属資格審査委員会委員を務めた。当時、援護法に基づく年金や弔慰金の支給対象

    痛いニュース(ノ∀`):【沖縄戦】「ウソをつき通してきたが…」 "日本軍の命令で自決"、実は創作  渡嘉敷島集団自決で、初証言
  • 1948年に東京で撮影されたあの鮮明すぎる35mmフィルムの正体がわかった!! : himag

    このブログは今年の4月に開設したばかりだったので終戦の週にこの映像を思い出し、改めて記事として紹介してみることにしたのだ。 2015年8月10日に記事を公開してからシェアやRTにより大きな反響を呼び、さらに映像の中に1948年11月公開の映画「四十三丁目の奇蹟」のポスターが貼られていることを発見した人から1948年秋の映像ではないか?という指摘が寄せられた。 その後、クルマやスクーターなどに詳しい人からも1948年説を裏付ける情報をもらったので、元記事のタイトルや内容は変更せずに文末に新しく判明した事実を追記するカタチをとった。1946年と思って書いたので終戦直後というタイトルにしたが後に1948年と年代特定されたので終戦から3年後ということになる。 私も新橋の撮影ポイントに行ってカメラ位置を検証したり音楽PVで使われていた映像の元素材を何度も見たりしていたが、いくつかの疑問があった。 【

    1948年に東京で撮影されたあの鮮明すぎる35mmフィルムの正体がわかった!! : himag
  • 終戦直後の新橋をGHQが撮影した35mmフィルムの解像度が驚異的! : himag

    2015年4月に創刊したhimagは「ライブドアブログ OF THE YEAR 2015」話題賞を受賞!8年目に入り累計記事3600、来場者426万人、631万PVのライフログに成長しました! (文末に時代特定とソース特定に関して追記あり) この映像は終戦直後の新橋や渋谷(道玄坂)、横浜などをGHQが35mmフィルムで撮影した素材なんですが、これまでイメージするあの時代の記録フィルムの解像度をはるかに超えているのでまるで最近みたいに見えます! 以前facebookで紹介したところ、その解像感に驚きのコメントが寄せられ、撮影場所の特定をする人も多く現れました。

    終戦直後の新橋をGHQが撮影した35mmフィルムの解像度が驚異的! : himag
  • 枢軸国フィンランドの敗戦から伝えたいこと - ゆとりずむ

    こんばんは、らくからちゃです。 今年は戦後70年ということもあって、各テレビ局も番組作りに気合を入れているみたいですね。個人的に気になった番組はこちら。 小栗旬、松坂桃李、福士蒼汰、有村架純、広瀬すずと、まさにいま引っ張りだこの若手俳優・女優さんたちが戦争について学んでいくという企画のようです。内容も興味深いのですが、わたしが気になったのは同サイトにあったこのグラフ。 戦争を知る世代は、全人口の一割にも満たなくなってしまったようです。私事ではございますが、わたしもここ一年近くの間に、二人の『戦争世代』の祖父を亡くしました。 戦時中、父方の祖父は、満州で偵察機に乗り空から写真を撮る任務にあたっていたそうです。戦後は、理工学部で学んだ後、大学向けの教科書会社で役員を務め、引退後はデジカメで撮った写真を自分で作ったホームページに載せてみたり、戦友会の仲間と全国を遊びまわったりと、なかなかパワフル

    枢軸国フィンランドの敗戦から伝えたいこと - ゆとりずむ
  • 中東にとっての「広島・長崎」

    中東から研究者を日に招聘すると、多くの場合「広島、長崎に行きたい」と言う。日に来たからには被爆地を見ないことには、という人は、少なくない。 「第二次大戦でアメリカに核攻撃された日、その敗戦から立ち上がった日」は、中東諸国で長く「いいイメージ」として定着してきた。イスラエルやアメリカの圧倒的な軍事力の前にねじ伏せられてきた、というアラブ諸国の思いが、戦争の被害者としての日への共感として寄せられる。「平和主義の日」、あるいは植民地支配した西欧諸国やイスラエルを支援するアメリカのようには、「アラブ諸国に悪さをしてこなかった日」といったイメージを、政府も企業も、さらにはNGOなど援助団体も、最大限に利用してきた。 しかし、そのイメージは、ある意味でアラブ側が勝手に作り上げた日に対する夢を、日側が適当に利用してきただけではないか、とも思える。彼らが抱く日像に対して日の立ち位置を

    中東にとっての「広島・長崎」
  • 1995年、最強個人メディアの誕生:朝日新聞デジタル

    モデムを9600bpsに買い替えて、ウェブの海に乗り出し、3行だけのホームページを開設したのが1995年3月末。記念すべき最初の文字列は、たしか、「大森望のホームページによく来たね」だったはず。犬のアイコンのFTPソフト、Fetchを使ってファイル転送に成功し、とうとうページが画面に表示されたときはえらく感動したのを覚えている。日最初のホームページ「KEK Entry Point」の開設から2年半後の出来事。はるかあとになって知ったのだが、このKEK(高エネルギー加速器研究機構)ページをつくった森田洋平博士は、大森の中学高校の同級生だった。世間は狭い。 それはともかく、HTMLをにわか勉強してホームページを毎日工事するかたわら、4月6日からウェブ日記を書きはじめ、そこから先は、Hyperdiaryにどっぷりハマることになる。 このころ、個人でダイヤルアップIP接続しているインターネットユ

    1995年、最強個人メディアの誕生:朝日新聞デジタル