タグ

昭和と歴史に関するshichiminのブックマーク (17)

  • 客は獲物だった…売春街から一転「新宿ゴールデン街」が酒場街に変わるまで(フリート 横田) @moneygendai

    戦後以来の飲み屋街をたずね、飲み歩き、古老たちの昔話を聞き集めてきた文筆家・フリート横田氏。最新刊『横丁の戦後史』(中央公論新社)が話題ですが、令和の今も、昭和のたたずまいを残す「横丁」があると言います。その歴史をひもとき、現在の姿も見つめるエッセイ。 独特な「気配」が生まれた瞬間 「あの子は19歳で家出してうちに来てね」 ふふふと静かに、温かに笑う、丸眼鏡に口ひげの紳士、外波山文明(とばやまぶんめい)さん。今回私は、新宿ゴールデン街にある外波山さんの店「クラクラ」を訪れた。 外波山さんは長年にわたって営業者たちの組合(※1)の長をつとめてきた街の長老格である。1971年に「はみだし劇場」を立ち上げ、全国各地の街中で芝居をして回るなど、野外劇を中心に活躍してきた俳優・演劇人としての顔も持っている。映画テレビへの出演も数多い。 劇場という閉じた空間から飛び出して、テント芝居や野外劇など束縛

    客は獲物だった…売春街から一転「新宿ゴールデン街」が酒場街に変わるまで(フリート 横田) @moneygendai
  • 小金井桜の花見インタビュー

    うちからチャリで10分くらいのところに玉川上水がある。ここにかつて東京で一番と評された、お花見スポットがあった。それが「名勝・小金井桜」である。今回は、この小金井桜の昔の花見を知る人のインタビューである。 その前にちょっと小金井桜を説明。 小金井桜とは江戸時代に玉川上水の堤に植えられたおよそ2、000のヤマザクラのこと。当時は歌川広重に浮世絵で描かれるなど多くの文人・歌人に愛された。明治16年には天皇も見に来たほどの見事な桜であり、大正13年には国の名勝にも指定された。昭和初期の観光ブームの時には、西武新宿線の数少ない観光スポットとして臨時駅まで誕生した。それが現在の私の最寄り駅である「花小金井駅」である。 そんな大人気だった小金井桜だが、今は排気ガスと桜の高齢化によって、すっかり廃れてしまい見る影もない。 さて、前置きはこれぐらい。これからは先日、玉川上水沿いの釣り堀で会った8

  • 企業情報:4.第2次世界大戦中のカルピス社:カルピス

    は、1938(昭和13)年4月の国家総動員法の公布から戦時統制に入り、産業界は政府の統制下におかれました。「カルピス」のように品のなかで嗜好性の強い飲料は“平和物資”とみなされ、厳しい統制を受けました。1941(昭和16)年に太平洋戦争が勃発すると、全ての原料・資材が軍の統制下におかれ、生産を中止せざるを得なくなりました。事態が深刻さを増していくなかで、「カルピス」が軍需物資として認定されました。こうして、軍の命令により、当社は原料・資材の特配を受け、軍用「カルピス」、軍用ビタ「カルピス」(「カルピス」にビタミンを加えたもの)を製造し、軍部に納入することになりました。

    shichimin
    shichimin 2014/02/03
    "軍の命令により、当社は原料・資材の特配を受け、軍用「カルピス」、軍用ビタ「カルピス」(「カルピス」にビタミンを加えたもの)を製造し、軍部に納入することになりました。"
  • 東京五輪が消した町 原宿・御徒町・田町・汐留… - 日本経済新聞

    1964年(昭和39年)開催の東京五輪は、東京を大きく変えた。国立競技場などのスポーツ施設が生まれ、首都高速道路や新幹線が整備された。一方でなくなったものもある。その代表格が町名。原宿や御徒町など歴史的な町名が消えた。川や都電の一部も姿を消した。前回の東京五輪で「変わったもの」を探してみた。原宿駅の住所は神宮前9月の平日、JR原宿駅周辺は、若者であふれていた。竹下通りの前では、カメラを構える

    東京五輪が消した町 原宿・御徒町・田町・汐留… - 日本経済新聞
  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    日記_2024.8.29 鞍馬と貴船 29日は鞍馬と貴船に行ってきました。こんな天気でバイクは無理、でも引きこもるのも嫌なので前々から行きたかった鞍馬と貴船に行くことにしました。ただ、いつ大雨が降っても全くおかしくないので天気がヤバそうなら帰ることにします。普通に日帰りできる距離ですから…

    はてなブログ | 無料ブログを作成しよう
    shichimin
    shichimin 2012/03/27
    梶村氏の文は理屈は遠ているように見えるが感情的な印象。/どんな理由であれ日本に住むのであれば日本を肯定的に捉える部分もないと。反日なのに住み続けるって意味わからん。
  • かつて日本は「いい国」だった。/9月2日に思うこと - デマこい!

    終戦の日といえば8月15日だが、正式には1945年9月2日に太平洋戦争は終わった。 いまから66年前の9月2日、東京湾に停泊していた戦艦ミズーリ号の艦上で連合国に対する降伏文書(ポツダム宣言)に日帝国政府が調印。第二次世界大戦は完全に終結した。 ◆ ◆ ◆ 私の祖母は長崎の出身で、今年で90歳になる。 最近、東京に帰るたびに彼女の娘時代の話を聞かせてもらっている。できるだけ長生きして欲しいけれど、それでも残り時間はわずかだ。彼女は激動の昭和史を生き抜いた人であり、歴史の生き証人だ。彼女がかくしゃくとしているうちに、できるだけたくさんのことを聞いておきたい。 とくに戦前の「良かった時代」のことを、私たちはきちんと記憶に留めておくべきだ。テレビ映画の現代史は、なぜかいつも敗戦後の日から始まる。そのため忘れがちだが、戦前の日は世界最強の戦闘機を作り、世界最大級の戦艦を量産できる先進国だっ

  • 昭和初期の日本の歴史的事件がわかる映像特集(1926年 : カラパイア

    1926(昭和1)年12月25日から1941年(昭和16年)の真珠湾攻撃まで、昭和初期の日の様子がよくわかる映像がYOUTUBE動画にて公開されていたので見てみることにしようそうしよう。 広告 昭和初期の日(その1) 昭和の始まり、ツェッペリン伯号来日(昭和4年)、慢性的不況、大卒の新卒9割が就職できず、頻発する労働争議、最初の普通選挙、治安維持法と社会主義者弾圧、政党内閣時代の終焉、悲惨な農村と娘の身売り 昭和初期の日(その2) 満州事変(昭和6年)と満州国、リットン調査団、満州への国策移民、モガ・モボ、上海事変(昭和7年)、非常時日、松岡洋右と国際連盟脱退(昭和8年)、肉弾三勇士、急速な軍国化

    昭和初期の日本の歴史的事件がわかる映像特集(1926年 : カラパイア
  • 第2回 勉強すべき総量とは、人々が未来に備えるために必要な総量だ:日経ビジネスオンライン

    山岡 こののスタイル、「大学の先生が中高生に近代史を授業として語る」という形がとても効果的でしたね。 加藤 ありがとうございます。 山岡 暗記ものではない歴史の面白さがあふれていますよね。自分の中学、高校の歴史の授業がもしこんなふうだったら…。 加藤 「日史を大学で教えるのは遅いんじゃないか」と、実は常々思っていたんですよね。といいますか、近現代については、地理、世界史、日史はもう、ごたまぜで学んだ方が面白いのではないかと。 歴史は「ごたまぜ」で面白く教えよう 山岡 ごたまぜに。 加藤 はい。例えば、前回もお話ししましたが、先日、新潟県の高田というところにお邪魔しまして、ここは1910(明治43)年に、蒋介石が来た場所です。彼は高田野砲第19連隊に入隊し、近年明らかになった日記に拠れば、そこでの経験は生涯にわたる影響を与えたとされています。 辛亥革命が起こる前年に日に来た蒋介石は、

    第2回 勉強すべき総量とは、人々が未来に備えるために必要な総量だ:日経ビジネスオンライン
    shichimin
    shichimin 2010/01/18
    歴史を見る目のつくりかた【年始特番・教えて下さい、加藤先生! 編】第2回
  • 発見続く旧日本軍の潜水艦:「潜水空母」や、真珠湾の「最後の1隻」 | WIRED VISION

    前の記事 iPhoneは大学教育をどう変えるか:具体例をレポート サルの鳴き声に「文法的規則」を発見 次の記事 発見続く旧日軍の潜水艦:「潜水空母」や、真珠湾の「最後の1隻」 2009年12月10日 Nathan Hodge PHOTO: NOVA/Ingo Bauernfeind、サイトトップの画像は「炎上する米海軍戦艦『アリゾナ』。Wikipediaより 真珠湾攻撃[1941年12月8日未明(日時間)攻撃開始]から70年近くが経とうとしている今、研究者たちは、停泊していた米艦隊(『Battleship Row』)に日軍が攻撃を仕掛けた際に、特殊潜航艇(甲標的)がその任務を達成できていた可能性があることを示す、新しい証拠を発見したと考えている。 潜水艇によるテスト潜水を行なっていた海洋研究者たちが、真珠湾に近い海底に、奇妙な鋼鉄の残骸を見つけた。PBS(全米公共テレビ放送網)のテレ

  • 朝日社説 森繁久弥さん―その身に戦後を映して - finalventの日記

    森繁さんの原点には、旧満州からの過酷な引き揚げ体験がある。死と隣り合わせの日々を、後に繰り返し語り、書いている。 甘粕の事実上の部下と言っていいと思う。それだから悪いというわけではないが。そしてその部分は、あまり語っていないと、彼の満州再訪の番組を見て思った。

    朝日社説 森繁久弥さん―その身に戦後を映して - finalventの日記
    shichimin
    shichimin 2009/11/13
    「甘粕大尉」この名前が出るとなんか裏昭和史っぽいものを感じる。大塚英二的世界というか。
  • ララビアータ:白洲次郎の徴兵逃れ - livedoor Blog(ブログ)

    最近、白洲次郎を取り上げたテレビドラマjavascript:void(0)の一部を見る機会があった。これがどの程度史実に合致しているものなのか分からないので、あくまでもこのテレビドラマ作品に描かれた人物に関して感想を述べるしかないが、描かれた白洲次郎が、徴兵制逃れをしているのには驚いた。当時、それは容易ではなかったのではないか? よほどのコネがあったということなのだろう。 当時に生きているわけではないわれわれが、これを外から批判することはためらわれるが、徴兵制を逃れたとしても、その後の生き方が問題であろう。よくも戦後のこのこと、国家枢要の地位につく気になれたものである! 同じように戦争に参加する意義を見いだせずに苦しみながら、徴兵に服した青年が多くいたことは、吉田満の『戦艦大和の最後』や大岡昇平や大西巨人の戦争文学を見ても明らかである。そのような葛藤をいともたやすく小狡く逃れた人々がいたと

  • 右とか左とかそういうのでなくて~『対論・異色昭和史』 鶴見 俊輔・上坂 冬子著(評者:山岡 淳一郎):日経ビジネスオンライン

    主義や立場が異なる対談者が、互いを認めながら、ここまであけっぴろげに現代史の核心に触れる「昭和」を語り合ったは少ないだろう。 対談者のひとり、鶴見俊輔氏は1922年、政治家・鶴見祐輔の長男として生まれた(祖父は後藤新平)。劣等生の不良少年時代を送るが、15歳で渡米。ハーバード大学を卒業し、日米開戦後、「交換船」で帰国。海軍軍属(ドイツ語通訳)に志願し、ジャワ島へ。戦後は、丸山眞男らと「思想の科学」を創刊。60年安保改定に反対し、「ベトナムに平和を!市民連合(べ平連)」の設立に参加。「九条の会」の呼びかけ人で、護憲の論陣を張っている。 一方の上坂冬子氏は1930年、東京に生まれた。父は特別高等警察に勤務。愛知県の高校を卒業後、トヨタ自動車に就職する。「思想の科学」への投稿がきっかけで鶴見氏との交流が始まる。59年、労働争議を題材にした『職場の群像』で第1回中央公論思想の科学賞を受賞。ノンフ

    右とか左とかそういうのでなくて~『対論・異色昭和史』 鶴見 俊輔・上坂 冬子著(評者:山岡 淳一郎):日経ビジネスオンライン
  • 不平等の中で、玉砕まで戦ったのはなぜか~『皇軍兵士の日常生活』 一ノ瀬 俊也著(評者:尹 雄大):日経ビジネスオンライン

    小津安二郎監督の「お茶漬の味」で、笠智衆演じるパチンコ店店主が、佐分利信演じる貿易会社部長と酒を飲み交わすシーンがある。佐分利は笠のかつての上官という設定である。 「あの頃はよかったですな。シンガポールは」と笠が軍隊時代の話をすると、佐分利は「ああ、そうだな。だけど戦争はごめんだね」と返す。 すると笠は「そうですな。ですが、シンガポールはよかったですな。南十字星が」と言い、ひとくさり歌を歌う。敗戦からわずか7年後の描写だ。 小津の作品には、戦友会の宴席で、元軍人たちが小皿を叩き、放歌しているようなシーンがいくつか登場する。小津も中国戦線に従軍したが、フィルムに表れたノスタルジーは、兵役を経験した一定数の男たちの共有するリアルな気分だったのかもしれない。書の著者もこういう。 〈戦後にいたってなお、人びとの心のなかに軍隊あるいは徴兵の存在を是認する、ある種のプラスのイメージが残っていたことも

    不平等の中で、玉砕まで戦ったのはなぜか~『皇軍兵士の日常生活』 一ノ瀬 俊也著(評者:尹 雄大):日経ビジネスオンライン
  • 米軍機から見た首都高のない日本橋!昭和22年の航空写真を無料公開|日経BP社 ケンプラッツ

    2008/04/10 管理人のイエイリです。 先日、「日橋に首都高が架かる瞬間!昭和38年の航空写真を無料公開」というお話を紹介しましたが その“続編”が昨日(4/9)できました。 NTTレゾナントが運営する「goo地図」上で、昭和22年(1947年)の戦後間もない東京を、 米軍機から撮影した航空写真が公開されたものです。 当時の様子を、ナ、ナ、ナ、ナ、ナント、 現在の住所で一発検索 して見られるという便利さ。 さらには、駅名や郵便番号、施設名などでも検索できますし、現在の地図も重ねて見られるので、 いろいろな用途に活用できる第一級の近代史資料といっても過言ではないでしょう。 早速、いろいろな場所を見てきました。 左から昭和22年、昭和38年、現在の日橋。戦後の首都高のないオリジナルな日橋の姿がうかがえます(以下の画像:goo地図より) 同じく東京駅周辺の姿。

  • 消えゆく建築(3) 取り壊しの日が迫る有名建築たち

    戦前の建物で2009年に取り壊される可能性が高いのは、東京女子大学体育館(1924年竣工)と大阪ビルディング(ダイビル、1925年竣工)。東女体育館はアントニン・レーモンドの設計。レーモンドの初期作品としては現存する数少ない建物で、卒業生や建築関係者を中心に数年来、保存運動が行われている。しかし大学側はキャンパス再整備に伴う取り壊しの方針を変えていない。

    消えゆく建築(3) 取り壊しの日が迫る有名建築たち
  • 消えゆく建築(2) 21世紀に入って取り壊された戦後モダニズム建築

    戦前の建物で建築的評価の高いものは、取り壊されるとなると、何かしら社会的な話題になる。しかし、戦後の建物は、いつの間にかなくなっているものが多い。日の建築界が世界と肩を並べた1960年代~70年代のモダニズム建築、あるいはメタボリズム建築(新陳代謝を意図した建築)が、建築界での評価の高さとは裏腹に、一般の人にはほとんど顧みられないまま次々と取り壊されている。

    消えゆく建築(2) 21世紀に入って取り壊された戦後モダニズム建築
  • 消えゆく建築(1) 21世紀に入って取り壊された戦前の名作群

    21世紀に入ってから取り壊された主要な建物を、竣工時期ごとに並べてみると、最も多く壊されているのは戦前の1930年代に竣工した建物だった。デザイン的にみると、様式建築から初期モダニズム建築への過渡期に当たる。モダニズムとは言っても、まだ装飾や深い陰影のあるデザインが多く、解体されるとなると一般の人からも保存を求める声が上がりやすい。しかし、その多くは保存運動の甲斐なく、老朽化や建て替えを理由に取り壊されている。

    消えゆく建築(1) 21世紀に入って取り壊された戦前の名作群
  • 1