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偶有性に関するshigeo2のブックマーク (2)

  • 茂木健一郎 クオリア日記: 自分自身からの脱藩

    世の中には、他人に対して、「お前はこうだから」と決めつける論がある。また、そのような決めつけを商売をしている人たちがいる。 科学的な皆無である血液型人間学もそうである。あるいは、学歴で人を決めつけるという風潮もそうである。あるいは、日人は日の風土、日の社会の中に生まれ、育って来たのだから、変わることなどできないという論もそうである。外国語や音楽の修得には、早期教育が不可欠であるという論もそうである。男女の脳差を強調し、固定化する風潮も然りである。 人をカテゴリー分けして、安心する。それは、「現状」を追認し、安定させるには資する。しかし、人間の脳の可塑性、「変化し得る」能力に注目し、引き出す上では阻害要因となる。 実際には、人間は、変わることができる。確かに、生きる上でさまざまな制約や、持って生まれた資 質はある。しかし、だからといって、人生がすべて決まってしまうわけではない。幼い時に

    shigeo2
    shigeo2 2010/07/18
    「自分自身から脱藩して初めて、人は偶有性のさわやかな風に身をさらすことができる。自分自身から脱藩してこそ初めて、私たちは潜在能力を遺憾なく発揮して成長することができるのである。」
  • 茂木健一郎 クオリア日記: 坂本龍馬の人生の時々刻々を想像することで、ひんやりとした偶有性の風に自我をさらさなければならない。

    脱藩するということは、すなわち、これまで自分を守ってきてくれた有形無形の組織、システムから離れて、人生の偶有性に身をさらすということである。 そこには、「成功」の保証など、どこにもない。最後は必ずハッピーエンドになるという必然もないのである。むしろ、あるのは、一寸先は暗闇であるという見通しの悪さ。そして、胸の中にうずく不安。今までいたぬくぬくと温かい場所から一転して、ひんやりとした風が直接自分に吹き付けるという環境の変化がある。 もともと、私たちの人生に、絶対的な安全、確実など存在しない。「脱藩」することで、私たちは特別な冒険に出るのではない。むしろ、人生の最初から何も変わることがない、不変の条件に回帰するというだけのことなのである。 坂龍馬が満26歳で和霊神社に参拝し、水杯で武運長久を祈り、そして脱藩していった。「吉野の山に桜を見に行く」と言い残し、脱藩の道を歩いていった。脱藩を前にし

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    shigeo2 2010/07/18
    「あるのは、一寸先は暗闇であるという見通しの悪さ。そして、胸の中にうずく不安。今までいたぬくぬくと温かい場所から一転して、ひんやりとした風が直接自分に吹き付けるという環境の変化がある。」
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