2006年11月21日のブックマーク (6件)

  • 「平和」については全力でスルー - opeblo

    「国を愛する心を育てる道徳の時間の指導の工夫.pdf つい、先日クローズアップ現代で放送された愛国心教育の教師の方の研究レポート。読んでて結構面白かったです。 というのも、「日のイメージは平和という児童が多い」し、「国を愛する」こととは「平和」、これからの日に期待することは「世界平和のために頑張っていく」といった風に、認識調査では「平和」が結構登場するのにも関わらず、その後は「平和」が全く出てこなくて、全力でスルーされているからでした。(すいません、全力かどうか知りません。この言葉を使いたかっただけです。) その下の「国を愛する心を育てるための視点」というのも、児童の国に関する認識を元に分類したと言いつつ、「平和」がスポッと抜けてますよね。「色んな花が咲く四季がある日は素晴しい」と無理矢理教えるぐらいなら、「平和な日は素晴しい」と教えた方がまだやりやすいとも思ったりするんですが。

    「平和」については全力でスルー - opeblo
  • 権力のコントロール(「9・11から5年」の補足) - やじゅんのページ/The World according to YAJUN

    「9・11から5年」という記事で少しだけ言及した「国家への不信」について、さる方(残念ですがお名前を出していただいていません)から長文のコメントをいただきました。その返事を書いていたところ、思ったより長くなってしまったので、ここで独立の記事にすることにします。 コメントは以下の通りでした: >政府にたいして基的に不信の念をもって当たるのはある意味当たり前ですよ。 >唯一の暴力を奮うことを許された機関だし、それを構成してるのは所詮人間だからです。そして、だからこそ三権分立など、さまざまな権力暴走抑止装置があるわけです。 >しかし、ドイツのナチスのときは、民主主義下においても、その暴走を止められませんでした。私は逆に、どうして権力を握ってる人間をそんなに崇拝したり信用したりするのか、理解できません。 >中国政府のチベットなどでのおける行為、アメリカ政府のアブグレイブやグアンタナモ収

  • 寝言@時の最果て: 「権力のコントロール」へのコメント

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  • 核武装論? - やじゅんのページ/The World according to YAJUN

    ラヴェル:ピアノ協奏曲 アルゲリッチ 〜記事(2008/01/15) バッハ:マタイ受難曲 ガーディナー 〜記事(2008/01/01) ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調 フルトヴェングラー 〜記事(2007/02/19) のだめカンタービレ 二ノ宮知子 笑えるだけではない、奥の深い面白さ。目から鱗です。 〜記事(2008/01/07) ULTRA BLUE 宇多田ヒカル 〜記事(2006/08/20) バイカルチャーと日人 櫛田健児 友人が書いた。なぜ日人の英語が下手なのか、うならせる説明をしています。そのうち記事で取り上げてみたいと思います。 ヤバい経済学 S. レヴィット 中村屋のボース 中島岳志 憲法と平和を問いなおす 長谷部恭男 週末にレーシックの3ヶ月後検診に行きました。視力下がったんじゃないかなーと不安に思って行ったら、左2.0、右1.

  • 密度の濃い一元的コミュニティ内での教育訓練の必要性 - Munchener Brucke

    いじめ問題の処方箋として内藤朝雄氏が提言している、子どもを学校という閉鎖的で一元的なコミュニティから開放するという意見はしごく尤もな意見である。「しかと」という行為も、多元的なコミュニティ環境下においては実効性を失い「いじめ」としての効力を失う。 ただこの提言が広く世論に受け入れられるにはハードルがある。日では政府の政策以前の問題として、国民世論として集団社会訓練の場としての期待役割が根強い。大人たちが交通や通信の進歩により閉鎖的な地域コミュニティから開放され、会社一家主義からも開放されて多元的なコミュニティを手に入れているにもかかわらず、自分の子どもには閉鎖環境における社会集団訓練を受けさせたがっているのである。これはなぜであろう? 大人でさえも、昔の濃いコミュニティを懐かしんだり、愛社精神を見直すような言動も復活する昨今。必ずしも多元的なコミュニティが共通の理想になっていないことも注

    密度の濃い一元的コミュニティ内での教育訓練の必要性 - Munchener Brucke
    shin-ohara
    shin-ohara 2006/11/21
    >>開放されたドライな学校と、集団行動を重視する濃い学校と、選択肢を用意するのがよいのではないか:それが後々問題(たとえば就職差別等)を生まないのであればそれもあり、とは思うな。
  • 高原基彰blog: 二元的政治