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ブックマーク / kasasora.hatenablog.com (6)

  • 山手線の中で悪魔に会った話 - 傘をひらいて、空を

    毎朝と毎週と毎月、その後の一日と一週間と一ヶ月について彼は想定する。想定には一から百の目盛りがついている。百の日、と彼は思う。完全な日曜日。彼はわずかに震え、人に変に思われない程度にほほえんだ。百、すなわち目盛りのいちばん上を使ったことはかつてなかった。彼はその日として想定しうるもっとも良い状態にあってもっとも良い反応をもらい、想定しうるかぎり最大限に適切なふるまいをした。夜の繁華街はどこもかしこもきらきら光って、道ゆく人は皆うつくしく、たのもしく見え、彼らも彼を同様のものとしてあつかっているように思われた。 山手線のホームの彼の前に並んだのは小柄な女性で、だから彼の視界はほとんど丸ごと残されていた。Merry Christmas! その文字列は電車のボンネットにあった。特別な電車。特別な季節。特別な自分。彼はその機嫌のいい文字列に自然に歩み寄り、それをつかんだ。いい気持ちがした。完全な日

    山手線の中で悪魔に会った話 - 傘をひらいて、空を
    shinchi
    shinchi 2013/12/24
  • 正しい愛 - 傘をひらいて、空を

    抜栓する夫の手つきを彼女は好きだった。だからほほえんでそれを見ていた。彼は彼女のグラスとそれから自分のグラスの前でボトルを傾けた。ありがとうと彼女は言った。夫は上機嫌で彼女も同じくらい機嫌がよかった。それは久しぶりに彼らの双方が翌日に仕事を抱えていない夜で、彼らは順繰りに仕事の話をし、相互に感想を述べた。彼らはふたりとも、思考にいささか攻撃的なところがあり、ひどく明瞭な発音の早口で、相手の頭の回転の速さを好んでいるところがあった。 ほんとの夫婦の会話ってたぶんこういうんじゃないんだろうなと彼女は、頭の裏でぼんやりと思う。ほんとうの夫婦。正しい夫婦。そんなものは存在しないと知っているけれど、同時に彼女の頭の中にはいつだってその片割れがいる。正しい。都度の言動がほんとうはどうなされるべきだったかを、だから彼女はひとつひとつ知っている。 正解は、と彼女は思う。正解はワインを開けさせないこと。弱

    正しい愛 - 傘をひらいて、空を
    shinchi
    shinchi 2013/11/19
  • その世界を保存する - 傘をひらいて、空を

    結婚退職する社員の送別会に出て、けれども部署もちがうしそんなに多くの接点があったのでもないから、一次会で手を振って別れて、親しくしている同僚ふたりと、別の場所に移動した。夜で、金曜日で、洞窟めいた細長い店の、いちばん奥のテーブルのぐるりに座って、女ばかりで、私はなんだか、嵐の終わりを待っている原始人になったみたいな気持ちする、と思う。 後輩がフルートグラスを軽く掲げ、いやあ正直ほっとしました、と言った。先輩が自分のグラスを手に取ろうとしてやめ、手の置き場に困ったように動かしたあげく、膝の上に置いた。磯西さんとなんか、あったの、と訊くと、後輩は大きい声でいかにも愉快そうに笑い、マキノさんはのんきでいいなあと、そんなことを言う。後輩は入社四年目で、そのあいだ三度ばかり、辞める社員とふたりで話す必要が生じたのだけれども、いちばん小さい会議室でおこなわれた話の半分以上が業務内容から離れていて、では

    その世界を保存する - 傘をひらいて、空を
    shinchi
    shinchi 2013/05/28
  • 憎しみを捨てる - 傘をひらいて、空を

    うちの男の子がねと彼女は言う。彼女には三歳の男の子がいるけれど、その子のことはそう呼ばない。武生がね、と言う。うちの女の子、というときも同じだ。彼女に娘はいない。うちの男の子がね、同期が結婚しちゃってつらいみたいで、ああその同期の女の子を好きだったわけ、だいぶがんばって、でも学生時代からの彼氏に勝てなかったみたい、それで、殴る夢を見るというの。 彼女の話はよく跳躍するので私は好きだ。少しわかりにくいけれど、速度の感覚がある。わかりやすさなんかたいしたものではない。わかりやすさのために話を聞くのではない。快さのために聞くのだ。 その好きな人を殴る夢を見る部下って、よく相談に来るの。私がそう訊くと彼女は首をかしげる。ほかの子はいろいろ相談してくるけどあの子はしないな、でも今回は、なんていうのかしら、まだ仕事に支障は出てないんだけど、たぶん持ち帰ってどうにかしてるんじゃないかと思うんだけど、半分

    憎しみを捨てる - 傘をひらいて、空を
    shinchi
    shinchi 2011/11/29
  • 自分を探せない - 傘をひらいて、空を

    はあ?もう一回説明してくんない?は?それ気で言ってんの?違う?違うって何が? 部下を問い詰めるときの渡辺さんの物言いにはある種の人間に共通する特徴があった。まず蔑みの感情をこめたメッセージを発する。「はあ?」というのがその代表だ。私の席からは見えないけれども、表情もきっとそれに類するものになっている。それから相手に何かを言わせる。その後、それに含まれる誤りを相手自身に指摘させる。さらにその理由を尋ねる。再度「はあ?」が繰りかえされる。「私がバカだからです」とでも言わせたいのかと思う。 それは少なくとも問題の改善のための会話のようには聞こえない。作業中に耳に入るからひどく気になって、でも私は渡辺さんにそれを言えない。渡辺さんは私の会社の人ではない。三ヶ月前にチームを率いて来て、業務用のシステムを構築している。渡辺さん、と誰かが言う。 渡辺さんこれべてください。娘が台湾に行ってねえ、学校で

    自分を探せない - 傘をひらいて、空を
    shinchi
    shinchi 2011/10/19
  • 僕は忙しくない - 傘をひらいて、空を

    久しぶりに彼が参加するというので楽しみにしていた。その会合は仕事がらみで成立した集まりではあるけれど、参加者の年齢が近くて直接的な利害関係が薄いので、行って話すとなんとなく元気になる。 彼はずいぶんと多忙な職場にいて、子どもが生まれて一年くらいで、それだから、まだ来られないかと思っていた。彼は頭の回転が速く私の毛嫌いするたぐいの偏見を持たず言葉遣いが快く、時おり抑制された毒気を含み、話していてたのしい。 今日はカナツさんが来るって聞いたから来ましたと言うと彼は衒いなくほほえみ、どうもありがとうとこたえた。もてるねえと誰かが言い彼は苦笑してマキノさんは僕と話すのが好きなだけですよと説明する。色恋沙汰じゃなくってももてるって言う用法が広がればいいのになと私は思う。 ひとしきり互いの近況を話して、カナツさん忙しいですねえと私は言った。彼は視線を落としてから、持ち時間はあまり多くないですね、とこた

    僕は忙しくない - 傘をひらいて、空を
    shinchi
    shinchi 2011/07/27
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