はてなグループの終了日を2020年1月31日(金)に決定しました 以下のエントリの通り、今年末を目処にはてなグループを終了予定である旨をお知らせしておりました。 2019年末を目処に、はてなグループの提供を終了する予定です - はてなグループ日記 このたび、正式に終了日を決定いたしましたので、以下の通りご確認ください。 終了日: 2020年1月31日(金) エクスポート希望申請期限:2020年1月31日(金) 終了日以降は、はてなグループの閲覧および投稿は行えません。日記のエクスポートが必要な方は以下の記事にしたがって手続きをしてください。 はてなグループに投稿された日記データのエクスポートについて - はてなグループ日記 ご利用のみなさまにはご迷惑をおかけいたしますが、どうぞよろしくお願いいたします。 2020-06-25 追記 はてなグループ日記のエクスポートデータは2020年2月28
学問がおもしろい。東浩紀、北田暁大だけじゃない、経済でも哲学でも思想でも政治でも、元気な論客たちが爪を研いで出番を待っている! そんな彼らに突撃インタビューしていく連載です。広田照幸の2週目、メディアと実態が埋まらないのはなぜ? 1959年、広島県生まれ。東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。現在、東京大学大学院教育学研究科教授。教育社会学、社会史専攻。実証にもとづいた切れ味鋭い議論が持ち味。ことに日本の家庭の教育力低下という常識を覆した『日本人のしつけは衰退したか』(講談社現代新書)は大いに話題を呼んだ。近年は、右肩上がりを前提とする新自由主義的教育改革に対して、ゼロ成長社会前提の教育システムを提示している。著書に『陸軍将校の教育社会史』(世織書房)、『教育言説の歴史社会学』(名古屋大学出版会)、『教育に何ができないか』(春秋社)、『教育 思考のフロンティア』(岩波書店)、『教育不信と
科学者の考え方と勉強の基本 - 考えるのが好きだった 今、広く行われていると思われるようなドリル的な効率重視の学習法で、今後、見込みある学者が生まれるのだろうか。私は危惧する。 それで、このようなことを言うと、必ずや、「勉強は学者を作るために行うと、この人は考えているな」と読み取る人がおられるだろう。その考え方そのものが、学校の勉強をますます歪曲させるのである。 勉強に、科学者のようなプロも素人もない。全てが同じ道を歩むものである。 さて、どんなもんだろうか。 義務教育は工員教育 -勉強を遊びの一つと思えない人たちが教える側に回るとどうなるか@heis.blog101.fc2.com へのanykeyさんによるコメント これは、学校に求められてる事が2つある事から生まれてる弊害に見えますね。 1つは普通にまともな学者を育てるという目的 もう1つは社会人として真面目に会社で仕事ができるように
23 日土曜日は、技術評論社さん主催の「エンジニアの未来サミット 0905: エンジニア・サバイバル」に、前回に引き続き登壇させて頂きました。 オフィシャルなレポートについてはこちらから。 前回については、色々と反省点が多く、私自身も自身への反省点やイベントの進行等についての異論があったのですが、イベント後にも技評さんに足を運び、どの点が良くなかったか、どういう風に進行したら良いのか、細かく詰めて議論させていただいたのが、今回に生かされているという実感がありました。 前回は事前打ち合わせ等も十分に行なえなく、行き当たりばったりで進行していた分、グダグダになった感じがありましたが、今回は一度事前にパネラー達全員で集まり、来場者の年齢層や、自分達がその悩ましき年端の頃に、どんな悩みを抱えていたのか、それを現在の状況に照らし合わせるとどうなのか等をじっくり検討し、どんな議論の展開が私達に求められ
体系的な知識や技術を身につけたいと思っています。たとえばプログラミングに関していえば、これまでたまたま興味を抱いたところをつまみ食いしていて、小手先の技術が少しは身についたものの、もうちょっとなにか深いことをやろうとしても、それだけではなかなか難しい。とはいえ、教育機関のようなところでやり直すわけにもいきませんし、かといって、なにかをただ作ったりしているうちにいつの間にか体系的な知識や技術が身につくというのも、そういうひともいるかもしれませんが、あまり考えられないことです。ではどうすればいいか……?と考えていたのですが、先日ちょっと思いついたので、とりあえずまずは実践してみたいと思いました。 というのはつまり、学習したいと考えている、なにかそれなりに大きな規模の分野について、自分で本を書くつもりで、あるいは、こういう本があったら体系的な知識を得られるだろうなあという本の目次を自分なりに書き
:サイエンスライターという仕事と展望 そもそもサイエンスライターとはだいぶん奇怪な職業であるかもしれません。まず彼らは文章を売って生活しています。文章が売れなければ生活できません。一方で彼らが売る文章とは科学に関する事柄です。それはニュースかもしれません。あるいは科学的な事実や現象、論文の解説かもしれません。いずれにしてもそれらは科学に関する事柄です。 そして彼らが生業の源としている科学とはなにか? この学問の世界では余計な仮定を排除しながら仮説を提案/あるいは探索し、そしてその次ぎには仮説を検証しテストし続けるという作業が果てしなく行われています。 ここで大きな問題があります。じつはあまり認識されていないようですが、 売れることと 科学を正確に伝えること この2つの要求は概して矛盾する関係にあるということです。例えば温暖化について私が次ぎのような文章を書いたとしましょう。 人間は自然を破
中原淳(東京大学准教授)のブログです。経営学習論、人的資源開発論。「大人の学びを科学する」をテーマに、「企業・組織における人の学習・成長・コミュニケーション」を研究しています。 最近、個人的に、グッときた言葉。 私は「メッセージ」が好きじゃありません。言葉が外に向かっていて、「自分自身」に向けられていないからです。 (谷川俊太郎) ▼ 特に、「この手の言葉」は、「教育の業界」に多いように思うのは気のせいでしょうか。敢えて自爆的に、かつ、自戒を込めて言いますけれども、「外に向けた言葉」が、決して、「内側」、つまりは自分には返らないことが多い。 自分とは切り離された「外側」に向けた「メッセージ」や「提言」は溢れている。しかし、その「メッセージ」や「提言」は、決して自己には返らない。 くどいようですが、自爆的に、かつ、自戒を込めて言いますが、自己のあり方を内省し、自己を問い直すことの機運に欠けて
混迷する教育現場で, 日々奮闘していらっしゃる 真面目な先生方への 応援の意味を込めて書いています。 子ども中心主義とか児童中心主義という立場がある。 子どもの可能性を信じ, 子どもに内在する可能性を引き出すのが教育(education)だと考え, 子どもの主体性や自主性を出来る限り尊重しようとする立場である。 この考え方は, 子どもの純真さや無垢さを純粋に愛するわが国では 広く受け入れられている。 ところが,この考え方だけでは, 授業をうまく運営できないことは, 経験ある教師なら知っている。 なぜなら,学習指導要領にせよ,教育法規にせよ, 学校制度を規定しているすべてのものが, 大人の論理で考えられているからである。 大人が定めたゴールが厳然として存在しており, 子どもたちは「自主的」「主体的」に そのゴールに到達することが求められているのである。 これは, 大人が期待する自主性・主体性
アゴラ : 算数のできない人が作った裁判員制度 - 岡田克敏というエントリーを読んで違和感を覚えたので、このエントリーに対する反論および裁判員制度の積極的な意義について考察してみようと思います。 裁判員制度は公平性を無視しているのか? 元エントリーを書かれた方が一番いいたいのは、おそらくこの部分↓ 以上述べてきたように、裁判員制度は民主主義や国民主権を実現するという空虚な理念ばかりが重視され、裁判で最も大切な公平性や精度を軽視していると考えざるを得ません。 アゴラ : 算数のできない人が作った裁判員制度 - 岡田克敏 岡田さんの言われる「公平」の意味は、元エントリーの以下の部分からわかります。 被告人にとって、いや裁判にとってもっとも大切なことは公平性だと思います。つまり同じような犯罪には同じような刑が科せられることです。判決にこのような大差がでても「当然」とする最高裁の感覚は凡人の常識で
新型インフルエンザについて三紙からコメントを求められる。 私なんかにインフルエンザについて訊いてどうするのかと思うのだが、感染地域の真ん中に住んでいる人間の「市民目線」の感想を聞きたいと思ったのかも知れない(木によって魚を求むるの類だが)。 疫学についても医学についても何も知らない人間に訊く以上、それはインフルエンザそのものについてではなく、インフルエンザ禍の「人間的意味」についてのコメントなのであろうと判断して、それについて述べる。 メディアの一昨日あたりからの論調は「それほど毒性の強いインフルエンザでもないらしいのだから、あまり騒ぎ立てずに、柔軟に対応するほうがいい」というものである。 休校やイベントの中止が続くと市民生活に影響が出るから、「自粛するのを自粛せよ」というものである。 大阪府知事は「都市機能に影響が出る」と言った。 だが、感染地区がパニックに陥っているとか、都市機能が麻痺
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