まちを歩くと、なにかとめにつく「HG創英角ポップ体」。ポスターや看板などあらゆる場所でみかける。 たまに、シリアスな注意書きの看板に、にぎやかでたのしげな雰囲気のポップ体がつかわれたりして、おもしろ写真としてネットで話題になったりする。 そんな「HG創英角ポップ体」をつくったひとはどんなひとなんだろう?
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 先週ツイートしたので楽天マフィアを調べてたんですが、界隈の著名人がどんどん出てくる中でやっぱり外せないのが創業メンバーであり「楽天を作った男」である本城愼之介さん。以前ここでもちょっと取り上げた氏。大学院生の時に就職活動で興銀を志望しており、「興銀卒業生」訪問で三木谷さんと出会い、一緒に楽天を作ることに。今では日本を代表するベンチャーとなった楽天の創業ストーリーはコーポレートサイトにも載っているので、一度見てみるといいかもしれません。 さて、その本城さんが院生時代に就職活動日記をWeb上で書いていて、それがいまでも存在してたので読んでみました。そこには三木谷さんとの出会い、そしてベンチャーの魅力に取り付かれ、充実した毎日を送る様子が描かれおり、まるでその場にいるような感覚になり、
『タイポグラフィ学会誌04』所収 片塩二朗「弘道軒清朝活字の製造法とその盛衰」の冒頭に、若き日の片塩氏が猪塚良太郎氏の仕事場を訪ね、清朝活字について教えられるという挿話がある。「25年前に廃業」とあるし、素直に読めば、1970年頃の思い出話と読める。論文の書き出しからエッセイというのも不思議だが、その下にある註では、猪塚良太郎氏について「詳細不詳」となっている。「数度にわたって訪問した」相手を「詳細不詳」というのもこれまた不思議なことだ。 この「エッセイ」で、片塩氏は何を言おうというのか。どうやら弘道軒の活字が、戦後も「役所」(外務省か宮内庁)で使われ、そのことは一般には知られていない、清朝活字にはそのような謎があるというらしい。 にわかに信じがたい話だが、この話の裏はとれるのか。まず、猪塚良太郎という人について調べてみた。 Googleで検索してみると、 大日本スクリーンのサイトの「描き
こんにちは、たなかあきらです。 今回はヴィンランド・サガに書かれたウェールズ小王国群について、どんな小国群だったのか?なぜ小国群だったのか?うんちくを語ります。 漫画に描かれた小王国群のウェールズ ほぼ統一されかかったウェールズの歴史 ◎初めてウェールズをほぼ統一したロドリ大王 ◎次にウェールズを統一したヒウェル良王(善王) ◎ヴァイキングに手を焼き戦わなかった王 ◎モルガンクーグのグラティアヌス将軍、ブリケイニオグのアッサー 小王国群ウェールズもついに全域統一 その後はプリンスオブウェールズがウェールズ全域をほぼ支配 ウェールズは統一されにくい理由 最後にありがとうございます 漫画に描かれた小王国群のウェールズ 最近僕は漫画のヴィンランド・サガにハマっているんだ。 ヴィンランド・サガ!僕も好きです~ワタル課長はどんな点が好きですか? 僕がヴィンランド・サガを好きになった理由は、 ・中世ヨ
この画像はネット上に出回っているもので、第二次大戦前の世界地図だとされている。日本とタイ以外の地域はすべて欧米の植民地であり、日本が植民地化されるのも時間の問題だった。だから、日本は反撃に出るしかなかった──。この画像には、しばしばそんな解説が添えられる。 しかし残念ながら、この画像はデマだ。 端的に言って、世界地図がこのような勢力図になった時代はない[1][2]。 日本が開戦に踏み切った理由は、経済的な側面を考えたほうが理解しやすい。戦前の日本は金属や燃料などの戦略物資のほとんどをアメリカから購入しており、常識的にはアメリカとの戦争は考えられなかった。ところが、盟友ナチス・ドイツがヨーロッパでのアウタルキー(自給自足経済)を確立しつつあることに触発され、自らもアウタルキーを目指した。これがアメリカによる経済制裁を誘発し、日本はますます自給自足を目指さなければならないという循環に陥り、戦争
入れ墨から見た同祖論 今からおよそ1万2000年前に、一夜にして太平洋に沈んだと言われているのがムー文明である。その時、東の大陸・南北アメリカに渡った人々の末裔がインカ族、マヤ族、ホピ族である。一方、西を目指して逃げ延びた人々は、琉球諸島や日本本土、それに台湾や東南アジアへ渡り、その地の先住民となった。 埴原和郎氏が1991年に提唱した日本人の起源に関する「二重構造説」では、次のように述べている。 「日本人は現日本人と渡来人との混血によって生じたものである。前者は数万年前に日本列島に渡来した後期旧石器時代人から生まれた縄文人で、後者は弥生時代以降に大陸から新たに渡来した集団である。両者の接触によって、九州や本州では両者の混血が進んだが、北海道と沖縄では縄文人の系統が比較的純粋な形で残り、アイヌと沖縄の人々になった」 私は、埴原氏が東南アジア系の縄文人と述べている人々こそが、ムー大陸から移住
Hiroshima Peace Memorial Hiroshima, Japan 5:45 P.M. JST PRESIDENT OBAMA: Seventy-one years ago, on a bright, cloudless morning, death fell from the sky and the world was changed. A flash of light and a wall of fire destroyed a city and demonstrated that mankind possessed the means to destroy itself. Why do we come to this place, to Hiroshima? We come to ponder a terrible force unleashed in a no
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黎明期のゲーム業界には、まるで神話のようなエピソードがいくつも転がっている。その一つが、『大戦略』誕生にまつわる秘話である。 一人の無名の青年がある日、とあるソフトハウスにシミュレーション・ウォーゲームを持ち込んできた。その斬新な内容に驚いたソフトハウスがすぐに契約を結ぶと、瞬く間にそのゲームは大ヒットシリーズになり、そのソフトハウスには巨万の富がもたらされた。また、そのゲームは後に数々のフォロワーを生み落とした。『ファイアーエムブレム』などの我々のよく知る名作ゲームは、このゲームの子供たちにほかならない。 その青年が手にしていたゲームは『大戦略』。 (C)2016 SystemSoft Alpha Corporation 20世紀の後半、パソコンや家庭用ゲーム機で作り出された数多くのタイトルによって、コンピューター・ウォーゲームは一大ジャンルが築かれるに至った。しかし、日本でのコンピュー
鳥山明の名作漫画『Dr.スランプ』に、則巻千兵衛博士のライバルとしてアラレたちに立ちはだかるDr.マシリトなるキャラがいたのを皆さんは、覚えているだろうか。 このキャラのモデルになった人物こそが、今回インタビューする白泉社代表取締役社長・鳥嶋和彦氏にほかならない。 彼の編集者人生は数々の伝説に彩られている。新人賞にかすりもしなかった新人漫画家・鳥山明を一から育て上げ、何百枚にも及ぶボツ原稿を出したあげくに、『Dr.スランプ』や『ドラゴンボール』などの名作をタッグで世に送り出したこと。鳥山明のみならず多くの漫画家にネタにされてきた、その“悪魔のような”強烈なキャラクター。そして90年代後半、週刊少年マガジンにジャンプが追い越された「暗黒期」に編集長として呼び戻され辣腕をふるい、『ONE PIECE』や『NARUTO』、『テニスの王子様』などの作品を次々に世に送り出し、再びジャンプを王者の座に
昔から人々が願を掛けてきた「呪符(おふだ)」の展覧会が新潟県立歴史博物館で4月23日から6月5日まで開催される。 展示は同博物館研究員がこれまで行ってきた、古代の遺跡から出土する呪符木簡や現代のおふだに関する研究成果に基づいているという。展覧会には貴重な“出土品”や“民俗資料”としてのおふだが多数展示されている。そして、祈りやまじない、信仰が、古代から現代まで形を変えながら連綿と続いてきたという展示品の歴史が学べるのが特徴とのこと。 問い合わせた担当者によると、「例えば、『蘇民将来』というおふだは、家内に災いや伝染病などが入り込まないよう門口に掲示されたもので、なかにはその後、本来の意味が変わって、招福や五穀豊穣の願いが込められた事例もあるんです」とのこと。 おんたけさんのお札「急々如律令蚕守」(個人蔵) 「蘇民将来符」(南魚沼市浦佐・千手院) また関連イベントも多く、歴史学・考古学・民俗
「デザイナーをしているけれど、きちんとしたアートの授業を受けたことがない」と、心のどこかでいつも気になっている方のために、美術史を学ぶためのとっかかりを作る会を設けることにしてみました。 講師は、デザイナーで東京造形大学非常勤講師、『フラットデザインの基本ルール』『デザインの教室 手を動かして学ぶデザイントレーニング』などの著書がある、佐藤好彦氏。 http://yoshihiko.com/
大岡昇平の小説などでも知られる、フィリピンでの日米決戦。日本軍はフィリピンで何をしたのか。そして両国の友好の道筋と、今後の課題とは。アメリカ・フィリピン・日本の3カ国にわたる国家・社会関係史の専門家、一橋大学社会学部教授の中野聡氏が解説する。TBSラジオ荻上チキSession-22 2016年01月27日放送「天皇・皇后両陛下がフィリピン公式訪問。戦時中、日本軍は何をしたのか?」より抄録。(構成/住本麻子) ■ 荻上チキ・Session22とは TBSラジオほか各局で平日22時〜生放送の番組。様々な形でのリスナーの皆さんとコラボレーションしながら、ポジティブな提案につなげる「ポジ出し」の精神を大事に、テーマやニュースに合わせて「探究モード」、「バトルモード」、「わいわいモード」などなど柔軟に形式を変化させながら、番組を作って行きます。あなたもぜひこのセッションに参加してください。番組ホーム
妊婦の死亡率を劇的に下げた「院内感染予防の父」の信じられない末路 All About 2月3日(水)22時45分 写真を拡大 分娩時の死亡率が20%の時代もありました 「センメルヴェイス」と言っても、聞いたことがない人が多いかもしれません。 「センメルヴェイス・イグナーツ」(1818-1865)はハンガリー人の医師。消毒法及び院内感染の先駆者として、「院内感染予防の父」とも呼ばれています。しかし、センメルヴェイスが評価されたのは死んだあと。生存している間、センメルヴェイスの方法論はまったく相手にされませんでした。「手洗い」の大切さを訴え、現在の消毒法、院内感染予防の基礎を作りあげたセンメルヴェイスの功績から紹介しましょう。 ■分娩時の死亡率が20%でも問題なかった!? 19世紀の半ば、分娩時の死亡率が20%もあっても、「モンダイないよね」とされていました。20%というと5人に1人の妊婦は死
日本人の両親のもとに生まれた、あるいは日本で生まれ育った人は、ごく自然に自分を「日本人」だと考えます。しかし、歴史を遡っていくと、私たちはいくつかの異なった民族に分かれます。 そしてそれぞれの民族集団は、何万年もの間に、北から南から、そして西から東から、順次やってきては根を下ろしました。つまり先にやってきていた民族に戦いをしかけ、征服し、あるいは婚姻し、この日本という土地に根付いていきました。こうしたことが数万年の間に数え切れないほど繰り返された結果が今の日本人です。 つまり、私たちの言う「日本人」とは、いくつかの異なる系譜をもった民族集団が、複雑にからみあい混じりあっており、決して「日本人」というひとつの系譜にはまとめられない。同様に、日本文化といわれるものも、渡来してきた民族集団がそれぞれ持ち込んだものが混じり合い、あるいは日本の風土に合わせて変化してきたものなのです。 なぜ、私がこの
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