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日本に関するsink_kanpfのブックマーク (2)

  • 1945年秋、幻の南九州決戦 「一億総特攻あり得た」:朝日新聞デジタル

    1945年11月1日、米軍は南九州への上陸を計画し、日軍も応戦の準備をしていた――。実際には8月に降伏し、土決戦は現実とならずにすんだが、各地の遺構は「一億総特攻」も辞さない当時の戦いのかたちを物語る。史実を語り継ごうという動きもある。 「新兵ばかり、無知の勇」 おだやかな海に緑の小島が浮かぶ。鹿児島県志布志市の港から約4キロ。枇榔(びろう)島には、その名の由来となったビロウ樹など亜熱帯性の植物が茂る。 太平洋戦争末期、米軍は志布志湾、吹上浜(鹿児島県)、宮崎海岸(宮崎県)の3カ所から上陸する「オリンピック作戦」を計画。日土決戦を覚悟し、志布志湾は主戦場に、枇榔島は最前線になると考えられたという。 宮崎県えびの市出身の中原精一さん(87)=東京都=は45年7月に召集され、島に配属された。 当時の「肉弾訓練」を振り返った。 爆弾に見立てた木箱を抱え、草むらで息を潜める。上官の合図で

    1945年秋、幻の南九州決戦 「一億総特攻あり得た」:朝日新聞デジタル
  • 戦没者230万人:兵士を「駒」扱い 愚劣な軍事指導者たち 半藤一利さんインタビュー | 毎日新聞

    はんどう・かずとし 1930年、東京生まれ。東京大文学部卒。「文芸春秋」編集長などを経て作家に。「昭和史」で毎日出版文化賞特別賞。近著は「日露戦争史」1〜3巻 「戦没者230万人」という数字を、私たちはどのように読み解けばいいのだろうか。昭和史の著作が多い「歴史探偵」こと作家の半藤一利さん(84)に聞いた。【聞き手・高橋昌紀/デジタル報道センター】 ◇ 戦前の日は近代国家の体をなしていなかった。「戦没者230万人」という数字はそのことを端的に示していると思います。国民を戦地に送り込むならば、国家は責任を負わなければなりません。いつ、どこで、どのように戦没したのか。確実に把握していなければならない。ところが、「戦没者230万人」という大枠のみが残り、具体的なデータは部分的にしか残っていません。厚生省(当時)は戦後、戦域別で戦没者数を算出しましたが、そこまで。死因までは分類できていない。23

    戦没者230万人:兵士を「駒」扱い 愚劣な軍事指導者たち 半藤一利さんインタビュー | 毎日新聞
    sink_kanpf
    sink_kanpf 2015/07/28
    「権利を行使しなかったため、何か問題があったのでしょうか。」<現在より遥かに危機だった冷戦期でも特に問題は無かったしなあ。朝鮮戦争時に米軍からの派遣要請に公式に応えられなくて政治屋さんが困ったくらい?
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