山西に関するsmtz8のブックマーク (23)

  • 『黄土地上来了日本人』 - 黄土高原 紅棗がみのる村から

    こちらもご紹介が遅くなりましたが、私のは、3月30日に「東京大学東洋文化研究所附属東洋学研究情報センター」という長たらしい名前のところから刊行されました。700部作って、そのうちの500部ほどが国内外の図書館、大学、個人等に寄贈されます。私には100冊ほどいただけるようです。 先々週、そのうちの19冊を北京で受け取り、2冊を手元に残して、今は残りの17冊を配っているところです。まずは賀家湾の村長さん(彼の暗黙の了解がなければ、ここには住めなかった)、前に住んでいた部屋の大家さん(2年間タダで住ませてもらったし、お母さんを取材している)、薛老師(これから一緒に暮らすわけだし、お母さんを取材している)、賀登科老人の息子(老人には3回取材し、もっとも多くを語ってもらった)に4冊を配ったのですが、すぐに別の3人がやってきました。いわく「ウチのオヤジは字が読めるからくれ」「前書きを読んで感動して涙

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    smtz8 2012/03/22
    三光作戦の村の老人聞き取り本刊行『そこに84歳の元八路軍兵士がいるというので、久しぶりに取材に訪れました/老人の頭に深く刻まれた傷跡は、太原で残留日本兵と戦ったときに、銃剣で切りつけられたものだそうです』
  • http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/138163/1/JOR_64_2_377.pdf

  • Amazon.co.jp: 黄土の村の性暴力―大娘(ダーニャン)たちの戦争は終わらない: 米子,石田, 知行,内田: 本

    Amazon.co.jp: 黄土の村の性暴力―大娘(ダーニャン)たちの戦争は終わらない: 米子,石田, 知行,内田: 本
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    smtz8 2012/03/22
    これは本当にすごい研究。特定の地域に密着し証言と史料を付き合わせることで、かえって性暴力の普遍性と戦争の実相を鮮やかに再現。
  • 曹老人のこと - 黄土高原 紅棗がみのる村から

    ようやくにして曹老人から聞き取りをすることができました。曹老人のことはずいぶん前に書いたことがあるのですが、もうこのブログを読んでくださっている方も変わっていると思いますので、もう一度。(351回書いた過去ログは、操作ミスからきれいさっぱり消えました) 昨年の3月、当時樊家山に住んでいた私は、村の若者たちと一緒に高家塔という村まで「晋劇」を観に行きました。晋劇というのは、いわゆる山西版「京劇」で、この時期に村人たちで劇団を呼んで開催され、普通は3日間行われます。小さな屋台が出たり、他の村々に嫁いだ娘たちや出稼ぎに行った息子たちが帰ってきて、家族や友人たちで団欒を囲み、とりわけ老人たちにとっては楽しみな日々です。そしてこれが終わると、高原の段々畑に農民たちの姿が見られるようになります。 私もある人の家でお相伴に預かっていると、この村に昔日人に腕を切り落とされた老人がいる、という話を聞いたの

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    smtz8 2012/03/22
    >60数年ぶりに思いもかけず日本人に会って、永遠に消えることはないであろう左腕の痛みと、はるばる遠くから自分を訪ねてきた客人に対するこの地の“もてなし”との間で、彼の心はきっと炎と燃え上がる葛藤に苛まれ
  • 蔡家崖纪念馆

  • 薛丑子老人の話(樊家山) - 黄土高原 紅棗がみのる村から

    第一回、日人は西の方からやって来た。あのとき私は8歳で、学校に通っていた。彼らは裏の方の谷から突然やってきた。我々がちょうど日人と戦う物語を読んでいたときだった。当時村人は、最初は彼らがどこの軍隊かわからなかった。みなカーキ色の軍装を整えていた。隣村の賀家湾に着いてから大砲と機関銃を撃ちだした。これは第一回目に来たときで、村人も逃げなかったし、日人と出会っても何もされなかった。1938年のことだ。その後三交が占領され、ここにもしょっちゅうやってくるようになった。我々も民兵を組織し、日人も殺人を開始した。 1941年が一番ひどかった。三光政策で捉まえたらすぐに殺した。私の叔父は1937年に村の主任になったが、民兵の分隊長でもあった。それから従兄弟が17団の班長だった。その後私は石門焉へ行って、ひとりの金皮隊の人間と友達になった。この金皮隊は、ほんとうは共産党で、私は彼に連れられて石門

  • “朝鮮姑娘”の部屋 - 黄土高原 紅棗がみのる村から

    今回臨県経由になったのは、パスポートを更新したために番号が変わり、それを公安局に登録に行くためでした。ただし、担当者もすでに顔見知り(なんと、彼のおじいさんの葬儀の写真を撮っている)なので、手続きはわずか3分で済みました。 その後、帰国前に出しておいた写真を受け取り、それを持って三交に向かいました。バスで30分と、しごく便利なところであり、今後の活動の予定などたてたかったからです。 樊ばあちゃんは、なんだか私がとても気に入ってくれたようで、今回もあれこれ歓待してくれ、先回やや緊張した面持ちで私を見送ってくれた李じいちゃんは、竈のふいごを引いている最中で、珍しがってカメラを向ける私にポーズまでとってくれました。ふたりが写真を喜んでくれたのはいうまでもありません。 私は例の“朝鮮姑娘”の部屋が気になっていたので、再度案内してもらいました。もしかして気難しいような人だったら、事情が事情なだけに、

    “朝鮮姑娘”の部屋 - 黄土高原 紅棗がみのる村から
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    smtz8 2012/02/25
    『つい数時間前に私自身が何人かから聞いた、「日本軍が連れてきた朝鮮姑娘」のことも、「確たる証拠となる資料も文献もないから」、歴史上なかったこととして、やがて村人たちの記憶は闇に葬られるのでしょうか?』
  • オーラル・ヒストリー企画/インタビューリスト

    私たちは不安と疑惑のなかで日を送っていましたが、そこへ一旦姿を見せなくなっていた八路軍がまた現れました。「上党戦役」で閻錫山の軍隊を撃破したので、戻ってきたのでした。 私たちのいる南溝の日軍陣地の前は、河を隔てて高台になっていました。その高台と河の間を自動車道路が走っているのです。 八路軍は道路を見下ろす高台の上まで出てきました。だんだんその数が増えていって、道路は通じなくなり、南溝は孤島になってしまいました。 だが、八路軍は急に攻めてくる様子はありません。日軍さえ手を出さなければ、衝突はほとんど起こりません。 夜になると、八路軍の兵士たちは高台を下り、道路を越え、河原までいっぱい出てきました。 私は小隊長でしたから、その巡察をきびしくしていました。ある晩私は一つの分哨陣地の望楼を訪れていました。そのとき、河向こうから声が聞こえてきました。 「第3中隊のみなさん、こちらは日人民解放連

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    smtz8 2011/12/11
    『日本人民解放同盟の出現』
  • 陳在明老人の話 - 黄土高原 紅棗がみのる村から

    10日に陳在明老人の葬儀があったので行ってきました。老人を取材したのはもう3年も前になりますが、とりわけ愛煙家だったのでしょう、私があげた日タバコをとても喜んでくれたことをよく覚えています。彼の話も、正史にひとつひとつ残る事件ではありませんが、こういった無数の出来事の集合体として、そんなに遠くない昔、この村でも“戦争があった”のだということに心が痛みますが、いまはとても静かで“平和”な村です。老人の冥福を祈るとともに、取材した内容の一部をご紹介します。 陳在明老人の話 この村では陳嘉華という人が殺された。あれは、日人が最初に来たときで、彼は気が小さくて、谷のくぼみに隠れていた。日人が出て来いといったが彼は出なかった。日人は中に入って行って彼の身体にガソリンをかけて焼き殺した。多分日人は彼が八路軍に違いないと思ったのだろうが、大きな問題があって、当時は誰も彼らの言葉を聞き分けること

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    smtz8 2011/12/09
    『彼の話も、正史にひとつひとつ残る事件ではありませんが、こういった無数の出来事の集合体として、そんなに遠くない昔、この村でも“戦争があった”』
  • 沖縄タイムス | 元兵士と牛島中将の孫、沖縄戦の実相語る

    元兵士と牛島中将の孫、沖縄戦の実相語る 社会 2011年11月24日 10時42分Tweet(22分前に更新) 【京都】日中戦争や沖縄戦の最前線で陸軍兵士として戦った三重県桑名市に住む近藤一さん(92)と沖縄戦司令官、牛島満中将の孫で平和学習に取り組む東京都大田区の教師、牛島貞満さん(58)の講演会(主催・沖縄平和ネットワーク・関西の会)が23日、京都府左京区の同志社大中学・高等学校魁ホールで開かれた。戦場体験を基に下級兵士の「加害と被害」を証言した近藤さんに、牛島さんは「牛島満と沖縄戦」をテーマに考え、追い続けた沖縄戦の実相を語った。 20歳で中国山西省の部隊に入隊した近藤さんは生きている中国人捕虜を銃剣で突き刺す訓練を受け、「人間を殺すことがなんでもなくなった」という当時の状況を説明した。中国では「略奪や強姦(ごうかん)、破壊など悪いことを全てやった」と述べ、「まさに日兵は東洋の鬼だ

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    smtz8 2011/11/24
    近藤一さんは山西省と沖縄での体験を両方証言する稀有な元日本兵。彼の山西省での証言も要チェック
  • 战斗在太行山上的日本士兵觉醒联盟-长治市政协

  • 像保护大熊猫一样保护耕地

  • 老兵士の網膜に - 黄土高原 紅棗がみのる村から

    きのう臨県に行って写真を焼き、1泊して今日午前中に康老人を訪ねました。まず息子さんのレストランへ行ったのですが、老人は私が取材をした日を境にどんどん悪くなって、もう何日もはもたないだろうというのです。肺ガンだそうです。 歩いて5分の距離にある住居の方に行ってみると、4人の子どもたちも集まっていて、“心の準備”の方はすでに整っているようでした。おばあちゃんだけは先回会ったときよりずっと憔悴した表情で、それでも私の持って行った写真を見せると、とてもいいと喜んでくれました。 息子さんが写真を老人の顔の前に掲げて、「見えるかい?見えるだろう?」と何度か声をかけました。老人は軽くうなづいたようにも見えましたが、すでに意識は現世に留まってはいないようにも見えました。 私の撮った写真が、こんなふうに、かつて日軍と戦ったある老兵士の網膜に、最後の情報を届けたかもしれないと思うと、痛いほどに胸が熱くなり、

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    smtz8 2011/08/31
    『私の撮った写真が、こんなふうに、かつて日本軍と戦ったある老兵士の網膜に、最後の情報を届けたかもしれないと思うと、痛いほどに胸が熱くなり、何も言葉が出ませんでした』
  • 反日感情の強い町? - 黄土高原 紅棗がみのる村から

    三交(サンジャオ)のことは以前にも書きました。臨県の日軍駐屯部があったところです。行政区画でいうと、臨県三交鎮の中の三交と呼ばれている地域ですが、現在は5つの村の集合体で、臨県では2番目に大きな町です。人口は1万人ちょっと(?今度調べておきます)。 この町に最初に行ったのは、賀家湾に足を踏み入れるずっと前、磧口で暮らしていた頃です。なぜ三交へ行ったかというと、そこに、いわゆる日人“残留婦人”をお母さんに持つ、崔さんという人がいたからです。3兄弟が今も三交で暮らしています。 彼らのお父さんの崔さんは、三交の人ですが、強制連行されて遼寧省の撫順炭鉱で働かされていた間に終戦になりました。一方、石川県から家族上げて“満州”にやってきていたお母さんの家族は、帰り損ねて、やはり炭鉱で働くようになり、やがて、そのお母さんになる人だけが残って、他の人たちは全員引き揚げたのです。もっとも、後に知ったと

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    smtz8 2011/08/15
    ついに新たな一歩を・・・・・・私もがんばらないとな・・・・・・でもがんばりかたがわからん(なんて言ってちゃだめか)
  • Amazon.co.jp: 記憶にであう: 中国黄土高原 紅棗がみのる村から: 大野のり子 (著), 大野のり子 (写真): 本

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    smtz8 2011/07/28
    山西省の黄土高原の村,そしてかつて三光作戦が行われた村に住み、老人たちから聞き取り調査を行っている日本人女性の記録。
  • 東洋学研究情報センター

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    smtz8 2011/07/14
    応援ブクマ。1. 東洋学研究情報センター叢刊 •第13輯 黄土地上来了日本人 --中国山西省 三光政策村的記憶-- 2011 (黄色い大地に日本人がやって来た 中国山西省 三光作戦の村の記録)。日本人女性による聞き取り
  • <講演記録>中国山西省における日本軍性暴力に関する調査について | CiNii Research

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    smtz8 2011/07/13
    『黄土の村の性暴力』の著者による報告。全文ネット上で読むことが可能。
  • 抗日根拠地における戦争動員と民衆--太行抗日根拠地を事例に | CiNii Research

  • 私の戦争体験

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    smtz8 2011/06/14
    「北支には、蒋介石政府の正規軍、毛沢東の率いる八路軍(中共軍)、山西省の軍閥・閻錫山の兵が蟠踞して、日本軍と戦闘を交えていた。その中でも八路軍がいちばん強かったものだ。八路軍は常に奇襲戦法で日本軍を悩
  • アグネス・スメドレーと山西防衛戦における中国八路軍 | CiNii Research