1911年1月19日、読売新聞は「南北朝対立問題−国定教科書の失態」と題した社説を掲載した。 もし両朝の対立をしも許さば、国家の既に分裂したること、灼然火を賭るよりも明かに、天下の失態之より大なる莫かるべし。何ぞ文部省側の主張の如く一時の変態として之を看過するを得んや 日本帝国に於て真に人格の判定を為すの標準は知識徳行の優劣より先づ国民的情操、即ち大義名分の明否如何に在り。今日の多く個人主義の日に発達し、ニヒリストさへ輩出する時代に於ては特に緊要重大にして欠くべからず これは当時の文部省の国定教科書『尋常小学日本歴史』において南北両朝を併存するものとして記述されてきたことに対する非難のキャンペーンである。当時学術的には南北両朝が併存している、という認識は当然のことであった。教科書は学術的成果に依拠して「南北朝」と表記したのである。この社説に反応したのは漢学者で早稲田大学講師の松平康国と牧野