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【ここから全部ネタバレしかしていない】 7/29のレイトで1回目見て、8/1の品川IMAXで2回目、8/3のチネチッタliveサウンドで3回目。金→月→水。そして金(予定) いま思うのは「なぜ自宅で好きなだけ見ることができないんだ」ですが、自宅に劇場サイズのスクリーンはないからな…… 私がRTした情報はすべて前提としてあるけど、「RTした記事を読んだ私である」というだけの意味で、RTした記事を踏まえてどうこうという話はないです。ないけど「読んだ=既出の情報」として飛ばしてる、という部分はあると思う。3回見て人の感想めっちゃ見て今更「無人在来線爆弾!!!最高では!?!?!?」とかは言ってない(無人在来線爆弾は最高だけど)、みたいな。 というか「作品全体」の話ができていない。細部しかない。(なぜなら作品全体の話はもう散々読んだので……) 前半の会議シーンの人々 ・基本的に大臣A、B、みたいなモ
『シン・ゴジラ』、とにかくすごかった。特撮は言わずもがな。恐ろしくドライな日本観、国家観、人間観。背景にうっすらと描かれる原爆、原発。素晴らしいカメラワークで次々と映し出される戦後日本。責任の所在と主体性の回復。そして、作品の中で意図的に用意された空白とそれを埋めた時に現れる初代ゴジラの鏡像としてのシン・ゴジラ。鎮魂と慰霊の祈り。突っ込みたいところもいろいろあるけれど、紛うことなき傑作だと思う。 ネタバレを含めて感想を以下に記す(ネタバレしても作品の本質的な部分に関わるとは思えないけれど)。 まず、この作品はヒューマンドラマではない。ヒーロー映画でもない。オールジャパンの国威発揚映画でもない。そもそも、この作品に自らの意思を持った人間は出てこない。全ての人間が組織のコマだ。誰がその場所に座っていようが、決められるべきことは必ず決められるし、避けられないことは必ず避けられない。例えば、大河内
ルバング島のジャングルで30年の長きにわたって戦い続けた小野田寛郎は、帰国後メディアから集中砲火を浴びる。小野田は格好の標的となった。物珍しければ何にでも飛びつくのがメディアの習性だ。連中は野良犬のように鼻が利き、野良犬のようにしつこい。 野坂昭如(のさか・あきゆき)が小野田寛郎を中傷した―― (野坂昭如による“談話筆記”〈『週刊ポスト』8月16日号〉) 小野田さんはいろいろ偉そうなことをいっているけど、そして偉い面もあるけど、游撃戦にしろ、残置諜報者にしろ、その本分は何も果たしていないじゃないか。 彼は自分の頭の中に艦船の出入りとか、飛行機のなんとかというものをしっかり納めていたという。それがやがて来たるべき日本の反撃に備える自分の任務だった、というが、じゃ、それを書いてみろといったら、おそらく書けないのではないか。 横井さんの場合は、「あれは逃亡兵だ、逃げ回った人間だった」という決めつ
陸軍中野学校の勝利と敗北を体現した男 人間が怖かった 残置諜者の任務を全うした男 小野田寛郎 『F機関 アジア解放を夢みた特務機関長の手記』藤原岩市 『洞窟オジさん』加村一馬 1972年(昭和47年)1月24日、横井庄一がグアム島で発見された(画像)。帰国した横井は「恥ずかしながら帰って参りました」と語った。 それから2年後の1974年3月10日、今度はフィリピンのルバング島で小野田寛郎がフィリピン軍に投降する。戦後29年目のことであった。 実はこの二人には大きな相違があった。横井は川でエビを採っていたところを地元の猟師に発見され、住んでいた洞窟から救出された。これに対して小野田は戦争が続いているものと確信し、所期の任務を遂行していたのだ。戦後、幾度となく捜索が行われたにもかかわらず、小野田は米軍による偽装行為であると思い込んでいた。接触に成功した鈴木青年のことも小野田は全く信用していなか
とにかく、テンポがいい。洒落ているとさえ思った。特にトップシーンが秀逸だ。漂ってくるのは紅茶の香り。優雅にティータイムを楽しむ、見慣れた赤い制服。しかしカメラを引くと、砲声鳴り響く戦場のど真ん中という状況。いったい、何が起こっているんだと観客もその中に放り込まれる。説明をしないのがまたいい。描写を重ねるうちに少しずつ全容をみせていき、成る程、これはエキシビジョンマッチで大洗と知波単学園が組んだ混成チーム、相手は聖グロリアーナと――え? なんて風に、状況をひとつ明かしていくと同時にサプライズをひとつ提供し、好奇心をくすぐっていくわけだ。その上、伏線の張り方も気がきいている。たとえば、一時帰省しみほを待っていた普段着のまほ。貴重なオフショットにグッときてしまうが、そんな普段着の姉の姿が実は伏線なのだ。まほの秘めたる想い、姉妹の絆、ドラマの縦糸はそこからするすると伸びていく。そして最終決戦、みほ
いったい、何本の白旗が仕込まれているんだろう。無骨なはずの戦車がその瞬間、少し可愛らしいオブジェクトに擬態する。横転して動けなくなったり、致命的な命中弾を受けて行動不能になった戦車に上がる白旗。この判定装置によって『ガールズ&パンツァー』はスポーツの精神で行われる、あくまで「競技」(武道)なのだと視聴者に訴えかける。ひっくり返った戦車の「お腹」から白旗が上がる愉快な光景は、本作でしか見られない。楽しく、朗らかなギミックだ。主人公・西住みほが車長を務めるあんこうチーム・IV号戦車からも白旗は上がる。劇場版まで含めるとその数、なんと4度。テレビシリーズ12話、劇場版120分の間に「主人公メカ」が4度も撃破されているのだ。個人戦だったら、やられすぎと思ったかもしれない。しかし戦車道はチームで戦う競技であり、そこに妙味がある。たとえばサンダース戦(テレビシリーズ第6話)では、ナオミという作中屈指の
あーっはっはっはっは。いやー,メシウマメシウマ。 もともと東京五輪に対しては反対派だったわけですが,まあそれなりにスムースな運営がなされるだろうと想定した上で,それでもこういう問題があるからダメだ,と主張しているつもりでした。しかし,そもそもそのスムースな運営がままならないのではという話になりつつあって大草原を禁じ得ません。あちこちで見積り価格が招致時よりも大幅にオーヴァしてるとかそういう話が出てきてコンパクト五輪ってどこ行ったの感あるというか壮大な税金の無駄遣いですよねこれ。 最高に笑えるのが国立競技場です。色んなひとが「既存の建物をマイナーチェンジすれば十分使えるものになるよ」と言ってたのに,解体しちゃったんですねーwwwwwwwwwあーあ。そして解体したはいいけど新国立競技場の計画が1年経っても一向に進んでないとか何のギャグですかそれは。おまけに舛添さんが「いや都がカネ出すとかそうい
アイヌ人が単純に「先住」と言えるかどうかについては、まじでさきほど挙げた「アイヌ学入門」を読むのをお薦めします。けっこう複雑なことがわかります。ぼくは(小説の関係で)アイヌ関係の本はけっこう読んでいるのですが、これは画期的な本です。ゲンロンカフェで著者をお呼びしたいくらい。— 東浩紀 hiroki azuma (@hazuma) 2015, 4月 3アイヌ人は民族でしょう。先住かどうかは、その言葉に与えた定義によるでしょう(国連の話はしらん)。瀬川氏の本は、アイヌ人と日本人がともに縄文時代の列島人の子孫で、けっこう行ったり来たりしてたって書いてるでしょう。なにを理解に苦しむのよ。— 東浩紀 hiroki azuma (@hazuma) 2015, 4月 3瀬川拓郎『アイヌ学入門』をアイヌは先住民族じゃなかったんだ、と読むのは早計。先住民族性とは植民地主義によって生み出されたものであり、瀬川
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