歴史に関するt-hirosakaのブックマーク (353)

  • 『暴力の日本史』 - Arisanのノート

    暴力の日史 (ちくま文庫) 作者: 南條範夫出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 2014/05/08メディア: 文庫この商品を含むブログを見る 南條範夫という人については、月影兵庫シリーズの原作者というぐらいの認識しかなかったが、東京帝大卒のエリートで、満鉄調査部を経て戦後は経済学者として活躍、東京の都市計画などにも関わったらしい。それが途中から、時代物のベストセラー作家に転身したという、異色の経歴だ。 それを頭に入れて読むと、このが当初出版された1970年当時の時代状況とも重なって、為政者の側の、「民衆」や「抵抗」に対するニヒルな感覚が色濃く示されているような読み物になっている。その描写には、サディズム的な要素もうかがわれる。 だが、僕が読んでいて一番印象的だったのは、江戸時代の一揆の多さと激しさである。 ふつう、日歴史でもっとも一揆の多かった時代は室町時代(戦国末期にかけて)

    『暴力の日本史』 - Arisanのノート
  • 憲法解釈は政府の裁量の範囲内? - 保立道久の研究雑記

    t-hirosaka
    t-hirosaka 2015/06/12
    「いくらなんでも文明国家として困ったこと」
  • 古文書ネット くずし字史料から歴史を紐解こう

    KOMONJYO-NET since2009 くずし字で楽しむ江戸時代 古文書ネット 一次情報からひも解く歴史サイトにて御座候 証文・手形など 通行手形・女手形/三行半/無尽金 借入れ 奉公人請状/質地証文/済口証文/村絵図 『宗門人別帳』旦那とは・斎藤家、人別送り状 『五人組前書』『村明細帳』『村入用帳』 往来物 『絵入知慧の環』歳時記・花見 涼み・月見 雪見 変体仮名/『百姓往来』 孝、農具/『女大学』 :手習い・洗濯・裁縫・美容・結納・結婚式 旅行用心集 『旅行用心集』東海道Ⅰ ソリ 頭巾 履物 白澤 浮世絵、錦絵 日中動物/百器夜行/はしか絵:軽くする法 鯰絵:地震/『安政見聞誌』京橋・岡場所 余震記録/『植学啓原』リンネ二四綱・花粉 摺物 瓦版:象・虎/黒船/米・露西亜人/阿蘭陀貿易 引札暦(新暦):略暦・祝祭日・節気・日曜表 引札暦(旧暦):三鏡宝珠・八専/伊勢暦:正月 江戸時

  • 皇族かもね - 枕流亭ブログ

    以下は思いつきなので、あまり真に受けられても困るんですが。 (始皇九年四月)衛尉竭・内史肆・佐弋竭・中大夫令斉等二十人皆梟首。 (紀元前238年4月)衛尉の竭・内史の肆・佐弋の竭・中大夫令の斉ら二十人は、みなさらし首にされた。 『史記』秦始皇紀第六 秦代の嫪毐の乱のときに、連座して殺害された人々です。「衛尉」・「内史」・「佐弋」・「中大夫令」は、いずれも官名です。原泰久『キングダム』では、「竭氏」や「肆氏」といって、氏(苗字)のように扱われていますが、「竭」や「肆」は「内史騰」の「騰」などと同じで、諱(名)です。姓氏は不明といったところですが、ここを攻めてみると、秦の皇族の嬴姓(あるいは趙氏)だったのかもしれないなと思います。正史の紀で初出であるにも関わらず姓氏を省略されている場合、それが自明であって、つまりは紀に立てられている人物と同氏であることが多いんですよね。「竭」や「肆」は「

    皇族かもね - 枕流亭ブログ
    t-hirosaka
    t-hirosaka 2015/04/18
    そうすると趙高もかも。
  • 夫婦間の修羅場 - てぃーえすのメモ帳

    朱買臣字翁子、呉人也。家貧、好讀書、不治産業、常艾薪樵、賣以給、擔束薪、行且誦書。其亦負戴相隨、數止買臣毋歌嘔道中。買臣愈益疾歌、羞之、求去。買臣笑曰「我年五十當富貴、今已四十餘矣。女苦日久、待我富貴報女功。」恚怒曰「如公等、終餓死溝中耳、何能富貴?」買臣不能留、即聽去。其後、買臣獨行歌道中、負薪墓間。故與夫家倶上冢、見買臣饑寒、呼飯飲之。 (『漢書』巻六十四上、朱買臣伝) 昨日の話に出てきた朱買臣とそのの話について。 朱買臣は貧しいが学問はあり、と共に薪を売って生活していた。 だが薪売りの最中に歌を歌っているのをが恥ずかしがって止めると、夫朱買臣はますます激しく歌うようになるという畜生ぶりを発揮。 耐えられなくなったは夫に三下り半を突き付ける。 夫は「私は五十歳になったら富貴な身分になる。まだ四十歳ほどではないか。今はお前にも苦労させているが、私が富貴となってお前の功績

    夫婦間の修羅場 - てぃーえすのメモ帳
  • 大正末期の無名の娼妓の手記と近代公娼制度について

    こちらも以前読んだのだが、当時の娼妓の生活が垣間見えてとても興味深い内容になっているので当時の風俗を知りたい人にはとてもオススメ。学歴は無いが石川啄木の詩集片手に逍遥するような文学少女だったらしく、日記の端々から溢れ出る光子の知性と教養が、過酷な生活の中で、いや、だからこそ輝いていて尊厳すら感じさせる。 「東京の下層社会」では光子の稼ぎは月300円程度としているが、日記ではある月の娼館での娼妓売上ランキングが紹介されていて彼女は408円を売り上げて第五位に入っており、四位とは6円差に対して六位とは40円差なので、同館でも人気の花魁さんだったらしい。日記を読んでいても非常にクレバーな受け答えをしていて、確かに人気が出るだろうなと思わされる。 例えば、女工に比べれば娼妓は好きな着物来て、性欲にも不自由せず楽なもんだろうと偉そうに見下して言ってくる客に対しての痛烈な返し。 『妾(わたし)達を御覧

    大正末期の無名の娼妓の手記と近代公娼制度について
  • 占いバトル - てぃーえすのメモ帳

    臣為郎時、與太卜待詔為郎者同署、言曰「孝武帝時、聚會占家問之、某日可取婦乎?五行家曰可、堪輿家曰不可、建除家曰不吉、叢辰家曰大凶、暦家曰小凶、天人家曰小吉、太一家曰大吉。辯訟不決、以状聞。制曰『避諸死忌、以五行為主。』」 (『史記』巻百二十七、日者列伝、褚先生補) 『史記』にときどき顔を見せる褚先生(褚少孫)自身による体験談。 彼はこんな話を皇帝お抱え占い師たちから聞いたという。 武帝の時、この日は婚礼に良いかどうかを占うようにと各流派の占い師たちに訊ねた。 そうしたところ、「良い」という者、「ダメだ」という者、「不吉である」という者、「大凶である」という者、「小凶である」という者、「小吉である」という者、「大吉である」という者、各流派で見事にバラバラだったという。 そのことをそのまま報告したところ、詔で「どれかの流派で死に至る忌み日は避けるようにし、五行家の占いを基礎として決めるように」

    占いバトル - てぃーえすのメモ帳
  • 不韋県の由来 - てぃーえすのメモ帳

    華陽國志曰「孝武置不韋縣、徙南越相呂嘉子孫宗族居之、因名不韋、以章其先人之惡。」 (『続漢書』志第二十三、郡国志五、益州、永昌郡、注引『華陽国志』) 孫盛蜀世譜曰、初、秦徙呂不韋子弟宗族於蜀漢。漢武帝時、開西南夷、置郡縣、徙呂氏以充之、因曰不韋縣。 (『三国志』巻四十三、呂凱伝注引『蜀世譜』) 益州の奥の方、永昌郡にある「不韋県」の成り立ちと名前の由来については、二つの微妙に違う説があったようだ。 一つには、漢の武帝が南越の丞相(事実上南越のトップ。最後は漢に討たれた)である呂嘉の一族を強制移住させ、その集落に彼らの先人の悪事を明らかにするという意図から「不韋」と名付けたという説。 つまり不韋県の呂氏は直接的には南越の呂嘉一族の子孫であるが、その血縁には呂不韋がいたのだ、ということになる。 もう一つの説では、まず秦の時に失脚して死んだ呂不韋の遺された一族を蜀に強制移住させていたが、漢の武帝

    不韋県の由来 - てぃーえすのメモ帳
    t-hirosaka
    t-hirosaka 2015/02/20
    呂不韋の子孫
  • 武成王 - てぃーえすのメモ帳

    上元元年、尊太公為武成王、祭典與文宣王比、以歴代良將為十哲象坐侍。秦武安君白起・漢淮陰侯韓信・蜀丞相諸葛亮・唐尚書右僕射衞國公李靖・司空英國公李勣列於左、漢太子少傅張良・齊大司馬田穰苴・呉將軍孫武・魏西河守呉起・燕昌國君樂毅列於右、以良為配。後罷中祀、遂不祭。 (『新唐書』巻十五、礼楽志五) 唐代、太公望を孔丘先生(文宣王)の対として「武成王」と追尊し、歴代の良将を「十哲」(孔丘先生の弟子の十哲の対)として太公望に侍するものとしようと考えられたことがあったらしい*1。 その良将は白起・韓信・諸葛亮・李靖・李勣・張良・司馬穰苴・孫武・呉起・楽毅の十人と決めたのだそうだ。 諸葛亮の評価高いな・・・。 *1:長続きはしなかったようだが。

    武成王 - てぃーえすのメモ帳
  • 2015-01-28

    ちょっとお伺いしたいんですが、積極的外交っていうのはどういう外交のことをいうんですか?ODAの金を配って歩き、ついてはこの金で運営するプロジェクトについてはここに居並ぶ日の経団連メンバー各社に発注して頂戴ね、というのが積極的外交っていうんですか? だとすると、いっぺんにイスラエルとアラブ諸国を回るというのは、常識的にはまずいんじゃないですか?それともなんですか、今度の連立政権になって以降、アラブ諸国は別にイスラエルで美味しいことをいった足でそのままやってくることに不快感は示さないということになっているんですか? 昔はアラブで仕事するんだったらイスラエルでは仕事をしたことがわからないようにしないとね、ということになっていたような気がするんですよ。 今更ここに書くまでもないけれど、一昨日の通常国会開会日に和装振興議員連盟が晴れ着で集まったということに対して、巷では大顰蹙である。当たり前だろう

    2015-01-28
  • BLOGOS サービス終了のお知らせ

    平素は株式会社ライブドアのサービスを ご利用いただきありがとうございます。 提言型ニュースサイト「BLOGOS」は、 2022年5月31日をもちまして、 サービスの提供を終了いたしました。 一部のオリジナル記事につきましては、 livedoorニュース内の 「BLOGOSの記事一覧」からご覧いただけます。 長らくご利用いただき、ありがとうございました。 サービス終了に関するお問い合わせは、 下記までお願いいたします。 お問い合わせ

    BLOGOS サービス終了のお知らせ
  • 『長歌行』その3 - 枕流亭ブログ

    夏達『長歌行』の5巻と6巻が同時に刊行されてますね。 われらが女主角の李長歌も朔州・突厥・契丹と流れ流れて、唐土に立ち戻り、洛陽は流雲観編です。 流雲観は架空の道観(道教寺院)なのですが、その名はおそらく崑崙山の西王母の宮殿とされる「金丹流雲宮」から取っているものと思われます。流雲観の観主の静澹真人が西王母をイメージして造型されているとはさすがに思えませんが、女性観主を自然にみせるための舞台装置かなと思います。ちなみに唐代にも女性の道士はいたようです。作よりは時期がやや下りますが、司馬承禎と同時期に華陽の謝自然(『續仙傳』巻上)のような女真人が見えたりもしています。 ところで「薬王」孫真人こと孫思邈は、実在の人物です。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E6%80%9D%E3%83%90%E3%82%AF 西魏に生まれて唐の高宗の末年まで生き

    『長歌行』その3 - 枕流亭ブログ
    t-hirosaka
    t-hirosaka 2015/01/22
    もう六巻まで出ていたのか。
  • 言葉の〈始原〉とコスモロジー―幕末国学言語論の思想的位相― - はぐれ思想史学徒純情派

    言葉の〈始原〉とコスモロジーー幕末国学言語論の思想的位相.pdf - Google ドライブ 一.問題の所在 今の世に古学と称して、哥道立る徒。蟻の如く多かるに。其先生のたちの伝を物するに。契沖。県居。鈴屋をし。三哲などを称して。此大人の事をば。都に称するなきは。其徒みな哥作者にて。道の義を知らざる故に。哥学の方より然は思ふにぞ有りける。*1 皇国の古伝説は、天地いまだ成らざりし以前より、天つ御虚空に御坐して天地をさへに鎔造ませる。産霊大神の御口づから、天祝詞もて、皇美麻命の天降坐る時に御伝へ坐ると、其五百座の御子神たちの、裔々の八十氏々に語り継たる、或は世に弘く語り伝たるも有が中に、天祝詞なる伝は、古伝説のにて正しき由よし〔中略〕日紀古事記なる伝は、世に弘く伝はりたるを集め記されたる故に、自然に訛れる伝へも交れるを、祝詞の伝へにて正し辨ふべき〔後略〕。*2 平田篤胤(1776-18

    言葉の〈始原〉とコスモロジー―幕末国学言語論の思想的位相― - はぐれ思想史学徒純情派
    t-hirosaka
    t-hirosaka 2015/01/07
    すごい論文が惜しげもなくポーンと公開されている。
  • 少年少女合唱団 - てぃーえすのメモ帳

    初、高祖既定天下、過沛、與故人父老相樂、醉酒歡哀、作「風起」之詩、令沛中僮兒百二十人習而歌之。至孝惠時、以沛宮為原廟、皆令歌兒習吹以相和、常以百二十人為員。 文・景之間、禮官肄業而已。 至武帝定郊祀之禮、祠太一於甘泉、就乾位也、祭后土於汾陰、澤中方丘也。乃立樂府、采詩夜誦、有趙・代・秦・楚之謳。以李延年為協律都尉、多舉司馬相如等數十人造為詩賦、略論律呂、以合八音之調、作十九章之歌。以正月上辛用事甘泉圜丘、使童男女七十人倶歌、昏祠至明。夜常有神光如流星止集于祠壇、天子自竹宮而望拜、百官侍祠者數百人皆肅然動心焉。 (『漢書』巻二十二、礼楽志) 漢の宮廷における祭祀と少年少女合唱団は切っても切り離せない関係にあるらしい。 漢の高祖劉邦は故郷である沛で自作の詩を地元の幼児百二十人に歌わせた。 そして高祖死後、沛における高祖廟でこの百二十人の少年少女合唱団を使ったようである。 時代が下って武帝の時。

    少年少女合唱団 - てぃーえすのメモ帳
  • 天野譲二@『幻の未発売ゲームを追え!』発売中 on Twitter: "で、この松平定信が、吉宗という祖父への狂信者でオカルトが入っていて、前政権の田沼の善政の成果を軒並み潰し、根来衆という公安部隊を駆使して陰謀を巡らせ、メディアに偽情報垂れ流して世論を形成しつつ、外国と手を結んで私腹を肥やして民の命なぞ屁とも思わぬという、リアルすぎるキャラ設定w"

    で、この松平定信が、吉宗という祖父への狂信者でオカルトが入っていて、前政権の田沼の善政の成果を軒並み潰し、根来衆という公安部隊を駆使して陰謀を巡らせ、メディアに偽情報垂れ流して世論を形成しつつ、外国と手を結んで私腹を肥やして民の命なぞ屁とも思わぬという、リアルすぎるキャラ設定w

    天野譲二@『幻の未発売ゲームを追え!』発売中 on Twitter: "で、この松平定信が、吉宗という祖父への狂信者でオカルトが入っていて、前政権の田沼の善政の成果を軒並み潰し、根来衆という公安部隊を駆使して陰謀を巡らせ、メディアに偽情報垂れ流して世論を形成しつつ、外国と手を結んで私腹を肥やして民の命なぞ屁とも思わぬという、リアルすぎるキャラ設定w"
    t-hirosaka
    t-hirosaka 2015/01/03
    テレビの演出意図は知らないが、田沼政治の悪評が後から誇張されたのは通説なんじゃなかったかな。
  • 【まとめ】未年の記事「羊リミックス」 - てぃーえすのメモ帳

    さて、今年はひつじ年だそうなので、このブログのこれまでの羊関係の記事をいくつか引っ張り出してみた。 廃品回収かよ、とか言わずに気になったら読んでみては? 帰りたい一心で励む蘇武 http://d.hatena.ne.jp/T_S/20131206/1386256623 匈奴に抑留された蘇武と羊の妖しい関係。 その件について羊たちは沈黙を守っている。 ワイルドハーフ http://d.hatena.ne.jp/T_S/20131016/1381852551 江都王は一種のマッドサイエンティストだったのではなかろうか。 孫晧の趣味、あるいは渓谷から丞相が生まれるの巻 http://d.hatena.ne.jp/T_S/20121002/1349104783 羊が虎皮を着ているというなかなかストレートな表現。 ショーウィンドウのトランペット http://d.hatena.ne.jp/T_S/2

    【まとめ】未年の記事「羊リミックス」 - てぃーえすのメモ帳
  • 斉の桓公のように - てぃーえすのメモ帳

    興平二年冬、天子播越、敗於曹陽。(袁)術大會群下、因謂曰「今海内鼎沸、劉氏微弱。吾家四世公輔、百姓所歸、欲應天順民、於諸君何如?」衆莫敢對。 主簿閻象進曰「昔周自后稷至于文王、積徳累功、參分天下、猶服事殷。明公雖奕世克昌、孰若有周之盛?漢室雖微、未至殷紂之敝也。」 術嘿然、使召張範。範辭疾、遣弟承往應之。術問曰「昔周室陵遅、則有桓文之霸。秦失其政、漢接而用之。今孤以土地之廣、士人之衆、欲徼福於齊桓、擬迹於高祖、可乎?」承對曰「在徳不在衆。苟能用徳以同天下之欲、雖云匹夫、霸王可也。若陵僭無度、干時而動、衆之所弃、誰能興之!」術不説。 (『後漢書』列伝第六十五、袁術伝) 献帝がさすらいの皇帝となったのを知った袁術は、臣下を集めて「今や劉氏は微弱であるが、一方で私は四世に渡り宰相となり天下の民の信望を集めている。天命に応じて民の望みに従おうと思うのだがどうだろうか?」と訊いた。 つまり、天下の信

    斉の桓公のように - てぃーえすのメモ帳
    t-hirosaka
    t-hirosaka 2014/12/22
    正統性の問題。
  • 伝荊軻墓は荊軻の墓ではなかった - 枕流亭ブログ

    陝西省藍田県華胥鎮支家溝村の「荊軻墓」が、実は漢の武帝の娘の鄂邑長公主の墓であったとのことです。 http://news.xinhuanet.com/tech/2014-11/14/c_127209243.htm http://pic.people.com.cn/n/2014/1113/c1016-26012647.html http://www.sssc.cn/a/20110420/130327957343196.shtml

    伝荊軻墓は荊軻の墓ではなかった - 枕流亭ブログ
  • 樊於期=桓齮の説 - 枕流亭ブログ

    秦の樊於期を桓齮と同一人物とみる説は、楊寛『戦国史』P191に見えます。 史記趙世家記𨖗年“秦攻赤麗宜安,李牧率師與戰肥下,却之”。李牧列傳也說:“牧爲大將軍擊秦軍於宜安,大破秦軍,走秦將桓齮。”戰國策趙策四誤作“殺秦將桓齮”。此後就不見爲秦將事,所謂“走”當是大敗後畏罪逃走。戰國策燕策三和史記荊軻列傳稱有“秦將樊於期得罪於秦王,亡之燕”,“父母宗族皆爲戮沒”,“秦王購之金千斤,邑萬家”。秦始皇紀詳載屢次出戰秦將姓名,獨不見樊於期。我們認爲樊於期即是桓齮,音同通假,猶如田忌或作田期、田臣思。桓齮於秦始皇十四年敗走,燕太子丹於秦始皇十五年由秦歸國,時代也正相當。 秦将とされる樊於期の秦での閲歴は、まるで分かっていません。桓齮が紀元前233年(始皇14年)に趙の李牧に敗北してから後の事蹟も、これまた判明していません。さらに樊於期と桓齮の音は良く似ています。同一人物とみると、時代的な辻褄はし

    樊於期=桓齮の説 - 枕流亭ブログ
  • 「毐国」 - 枕流亭ブログ

    原泰久『キングダム』に嫪毐の「毐国」が登場しています。 結論からいうと、この「毐国」を国名として扱うのは、間違いなんじゃないかと思います。 『史記』始皇紀の始皇八年の条から関係部分を抜き出してみます。 「嫪毐封為長信侯。予之山陽地,令毐居之。宮室車馬衣服苑囿馳獵恣毐。事無小大皆決於毐。又以河西太原郡更為毐國」 一見したところ、「河西太原郡」を「毐國」に改めたように読めますね。 参考として、ちくま文庫の小竹文夫・小竹武夫訳『史記I』P138から同じ部分を引いておきます。 「嫪毐が封ぜられて長信侯となった。山陽の地を与えて毐をおらせた。宮室・車馬・衣服・苑囿・狩猟など毐の欲するに任せ、事は大小となくみな毐に決せられた。また汾西(山西・汾水の西方)の太原郡をあらためて毐の封地とした」 小竹兄弟は「毐國」を「毐の封地」と訳しています。これは自然な訳だと思います。もし「毐国」なる独立か半独立かは知

    「毐国」 - 枕流亭ブログ