ブックマーク / d.hatena.ne.jp (864)

  • 電気的真丹後蝸牛報

  • 電気的真丹後蝸牛報

    t-hirosaka
    t-hirosaka 2012/06/28
    こんなに立派な論文があったなんて。
  • 妻争い伝説 - heuristic ways

    漱石『草枕』の中に、「余」が茶屋の婆さんから「長良(ながら)の乙女(おとめ)」に関する物語を聞かされるくだりがある。*1「昔しこの村に長良の乙女と云う、美くしい長者の娘が御座りましたそうな」「へえ」「ところがその娘に二人の男が一度に懸想(けそう)して、あなた」「なる程」「ささだ男に靡(なび)こうか、ささべ男に靡こうかと、娘はあけくれ思い煩(わずら)ったが、どちらへも靡きかねて、とうとう  あきづけばをばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも と云う歌を咏(よ)んで、淵川(ふちかわ)へ身を投げて果てました」  これに関して、三好行雄氏は巻末の注で、『万葉集』巻八の日置長枝娘子(へきのながえをとめ)の歌や、巻九の高橋虫麻呂の葦屋(あしのや)の菟原娘子(うなひをとめ)の歌などに基づいて構想された架空の少女の物語だと述べている。 日置長枝娘子(へきのながえをとめ)の歌は、『草枕』に引用さ

  • 浦島子をめぐって - heuristic ways

    『平家物語』を読む楽しみの一つに、注を参考にしながら、引用・参照・関連文献のリンクをたどっていくことが挙げられる。*1 『平家物語』巻第六、「祇園女御(ぎおんにょうご)」の段に、藤原国綱(邦綱)の先祖である山陰(やまかげの)中納言の子、助務(如無)僧都(じょむそうず)に関するエピソードがある。 かの僧都は、父山陰中納言、太宰大弐(ださいのだいに)〔大宰府の次官〕になッて、鎮西(ちんぜい)へくだられける時、二歳なりしを、継母にくんで、あからさまにいだくやうにして〔ちょっと抱くように見せかけて〕、海におとし入(いれ)、ころさんとしけるを、死ににけるまことの母存生(ぞんじょう)の時、桂のうかひ〔桂川の流域に住む、鵜を用いて魚をとる漁夫〕が、鵜(う)の餌(え)にせんとて、亀をとッてころさんとしけるを、着給へる小袖を脱ぎ、亀にかへはなされたりしが、其(その)恩を報ぜんと、此きみ落し入(いれ)ける水の

  • トンデモ教育論「親学」を推進してる人たちの話 - 俺の邪悪なメモ

  • shin422の日記

  • 鉄と蝦夷(エミシ) - heuristic ways

    荒俣宏『歌伝枕説』に、「安達(あだち)ヶ原の黒塚(くろづか)」の鬼伝説について述べたくだりがある。 福島県二松市安達ヶ原には、鬼婆伝説で有名な観世寺(かんぜじ)がある。「この敷地内に巨大な岩を積み上げた場所があり、ここに鬼婆が住んでいたと伝えられる」とのことで、今は観光名所になっているらしい。 この鬼女伝説は、室町時代にかかれた謡曲『黒塚(くろづか)』に基づくようだが、この謡曲のタネになったのは、平安時代の三十六歌仙の一人・平兼盛(かねもり)の歌だという。《みちのくの あたちの原の黒塚に 鬼こもれりと云ふはまことか》(『拾遺集』)  もともとこの歌は、「名取郡黒塚」にいた陸奥守(むつのかみ)・源重之(しげゆき)の妹をみそめた兼盛が、重之の父に書き送った歌で、「鬼」とはいわばかくれんぼの鬼、つまり「陰に隠れて出てこない女性」のことをたとえた一種の洒落だったらしい。 しかし、「これが『大和物

    t-hirosaka
    t-hirosaka 2012/04/27
    安達ヶ原に行ったとき、鬼婆ラーメンを食べそこねたのが心残り。まだやってるかなあ。
  • 漢詩の新感覚 - heuristic ways

    私は高校時代に漢文・漢詩の初歩を少し習ったきりで、最近まで特に興味もなかった。というより、分厚い漢和辞典を何度引いても意味のよくわからない漢字の連なりが、万里の長城のように私の行く手を阻んでいて、どうにもたどりつくことのできない異質の世界のように感じていたのである(今もそうかもしれないが)。 少し前に中上健次のエッセイ集『夢の力』(角川文庫)をパラパラとめくってみたら、日霊異記(りょういき)、古事記、宇津保(うつほ)物語、近松、上田秋成、芭蕉などに、当たり前のように言及していて驚いたが、日の古典に親しんでいた中上健次でさえ、「一か月、漢文を読もうと思った」、「昔の物にこもっている漢詩漢文の力、いや中国の力に出くわし、それを、解けなかった」と告白している。だが、「昔から、字を勉強するとは、漢詩、漢文を勉強することだったのである」(「空翔(か)けるアホウドリ」)。  しばらく前から『平家物

    t-hirosaka
    t-hirosaka 2012/04/23
    ブックマークがうまくいかないのでご不満。
  • 2012-04-23 - heuristic ways

    私は高校時代に漢文・漢詩の初歩を少し習ったきりで、最近まで特に興味もなかった。というより、分厚い漢和辞典を何度引いても意味のよくわからない漢字の連なりが、万里の長城のように私の行く手を阻んでいて、どうにもたどりつくことのできない異質の世界のように感じていたのである(今もそうかもしれないが)。 少し前に中上健次のエッセイ集『夢の力』(角川文庫)をパラパラとめくってみたら、日霊異記(りょういき)、古事記、宇津保(うつほ)物語、近松、上田秋成、芭蕉などに、当たり前のように言及していて驚いたが、日の古典に親しんでいた中上健次でさえ、「一か月、漢文を読もうと思った」、「昔の物にこもっている漢詩漢文の力、いや中国の力に出くわし、それを、解けなかった」と告白している。だが、「昔から、字を勉強するとは、漢詩、漢文を勉強することだったのである」(「空翔(か)けるアホウドリ」)。  しばらく前から『平家物

  • サン=シモンと「脱政治化」 - heuristic ways

    鹿島茂『怪帝ナポレオン三世』を読むと、フランス第二帝政期(1852〜70年)は、鉄道建設、金融機関やシステムの改革、都市改造、パリ万国博覧会、デパートによる商業革命など、その後の日にも影響を与えたと思われる産業主義的な社会変革の手法が実験・開発された時代だったということがわかる。 ナポレオン三世は基的にサン=シモン主義者であり、「産業皇帝」の異名をとったという。では、サン=シモン主義とは何なのか。 サン=シモンについて私が知っているのは、オーウェンやフーリエと並んで、マルクス=エンゲルスが『共産党宣言』(1848年)の「批判的=空想的社会主義および共産主義」の項で取り上げていたこと、そして、『産業者の教理問答』などの著述を発表していることぐらいだった。 オーウェンやフーリエについては、近年再評価の兆しもあるようだが、サン=シモンについてはどうなのだろうか。  『世界の名著 続8――オウ

  • 名前という政治的資源 - heuristic ways

    ナポレオン三世(シャルル=ルイ=ナポレオン・ボナパルト、1808−73)は、「偉大なるナポレオンの出来の悪いファルス」という戯画的イメージによって知られているが、鹿島茂氏は、『怪帝ナポレオン三世――第二帝政全史』で、いろいろ調べていくと、ナポレオン三世は「バカでも間抜けでもない」し、「ゴロツキ」でも、「軍事独裁のファシスト」でもない、「スフィンクスのような人物、つまりどんな定義の網もかぶせることのできない謎の皇帝、端倪(たんげい)すべからざる怪帝」として、改めて見直される人物ではないかと問題提起している。 マルクスは、『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』で、ナポレオン三世を、「叔父のかわりに甥」という二度目の茶番(ファルス)として描いているようにみえるが、実は、「マルクスが一番憎んでいたのは、ナポレオン三世のクー・デタで一掃されたティエールらのオルレアン王朝派ブルジョワジー」だったと鹿

    t-hirosaka
    t-hirosaka 2012/03/26
    うちの母もシンタロウとユウジロウの区別がついているか怪しい。
  • コギトとプロレタリア - heuristic ways

    安部ヨリミ『スフィンクスは笑う』を読みながら、私はそこに「コギト」ともいうべき一種の超越論的な眼差しがあるように感じていた。 デカルトは、われわれが「先例と習慣とによってのみ確信するに至ったことがらを、あまり固く信ずべきではない」こと、逆に言えば、われわれとは違う風習や考えを持つ人々も「われわれと同じくらいに或いはわれわれ以上に、理性を用いている」ことを発見したが(『方法序説』)、そのような他者との出会いが、自他の「先例や習慣」を疑う私、すなわち「コギト」を析出するのだと言ってよい。 『スフィンクスは笑う』の冒頭、「道子より安子へ」の手紙の中で、道子は、自分の日記を引用しながら、周囲の人々が毎日繰り返している習慣を無意味な機械的反復のように感じている「私」について告白している。 『…夜はもう遠くから明けて、私の家を取り巻く路次からは子供達の声や、それを叱る母親達の声や、赤んぼの疳高い泣き声

    t-hirosaka
    t-hirosaka 2012/03/19
    やっぱりデカルトが好き。『方法序説』は中公文庫版が好き。
  • ケガレについて - heuristic ways

    NHKの大河ドラマ『平清盛』第一回で、盗賊を討伐した平忠盛(中井貴一)らが、血と泥にまみれた姿で京の町を意気揚々と凱旋しているとき、輿に乗った公卿の藤原忠実(國村隼)一行が通りかかり、「血で汚れた姿で都を歩くな」と冷たく言い放つ場面があった。 川尻秋生氏は、『平安京遷都』で、「武士とは一種の殺し屋でありながら、武力を必要とした都の人々に、眉をひそめられながらも用いられた必要悪であったといえるだろう」と言っているが、この当時の武士は盗賊の討伐といった「汚れ仕事」の担い手として、半ば蔑視されていたということだろう。 川尻氏は、平安時代はケガレの観念が広がった時代であり、たとえば「天長七(八三〇)年に施行された『弘仁式』では、人間や家畜の死のケガレ、肉、弔問・病気見舞いのケガレなどが規定されている」という。そしてその後の『貞観式』(八七一年)では『弘仁式』より項目が増え、「ケガレの伝染について

  • 平将門をめぐって - heuristic ways

    私が平将門に興味をもつようになったのは、5年くらい前に大岡昇平の『将門記』を読んで以来のことだが、最近、将門について、二つのことが気にかかっていた。 一つは、将門が天慶二年(九三九)、坂東八カ国を制圧したとき、「巫女が神がかりし、八幡神が菅原道真を通じて将門を「新皇」とする、という託宣を下した」(網野善彦『日社会の歴史(中)』)のはなぜかという問題であり、もう一つは、高橋富雄氏が『平泉の世紀』で指摘している「平将門と藤原清衡」、「坂東と奥州」の関係はどこまで根拠があるものなのかということだった。 図書館で川尻秋生『戦争の日史4 平将門の乱』というを借りてきて読んでみると、それなりに納得の行くところがあったので、ここでポイントを整理しておきたい。  その前にまず私が驚いたのは、当時の利根川や鬼怒川は現在とは流路が異なり、「そもそも、現在からは想像しにくいかもしれないが、当時の常陸(ひた

  • 余談〜KamakuraとAmerica - heuristic ways

    中世初期の歴史を調べていて、私が興味深く思ったのは、複数の研究者たちが、たとえば「武士たちのいわば独立戦争」(郷和人)とか、源家の「明白なる宿命(マニフェスト・デスティニー)」(高橋富雄)といったように、アメリカ史の用語をアナロジカルに援用しているということだった。 私がそこに引っかかったのは、以前、渡辺京二氏の『日近世の起源』を読んだとき、渡辺氏が佐藤欣子『取引の社会』(中公新書、1974年)を参照しながら、「このアメリカ司法の当事者主義は、日中世の当事者主義的な法慣行になんと似ていることだろう」と、驚きをもって指摘していたのが記憶に残っていたからである。渡辺氏は、「鎌倉幕府法を見るかぎり、中世日には、裁判を国事とする観念はきわめて希薄」であり、「そこでは、権利も正義も各人が闘って実現すべきものであり、(中略)訴訟自体がいちじるしく当事者の決闘に類似していた」と言っている。渡

  • 平泉と鎌倉4 - heuristic ways

    少し前に私は、「源頼朝をめぐって」というエントリで、郷和人氏が、「中世の武士たちは「幕府」などという言葉を知らなかった。自分たちが幕府に属している、などと、ついぞ思ったことがなかった」、「江戸時代には幕府を指し示す「柳営(りゅうえい)」という語が生まれて使用されましたが、肝心の「幕府」が用いられたのは江戸時代後期」(『謎とき平清盛』)と指摘しているのを紹介した。 そのときは「柳営」について何も知らなかったが、高橋富雄氏の『平泉の世紀』によると、「柳営」という語は、中国の史実、具体的には、「前漢の文帝後六年(前一五八年)の周亜夫(しゅうあふ)将軍細柳営(さいりゅうのえい)故事」にちなむものであり、奥州藤原氏に「すでに柳営思想の先蹤(せんしょう)があった」というのである。 「柳営故事」とは、匈奴(きょうど)の侵入に備えて、文帝が自ら覇上営(はじょうえい)・棘門営(きょくもんえい)・細柳営とい

  • 日本中世初期の国際的背景 - heuristic ways

    中世史はわかりにくい。 郷和人氏が指摘している一一七〇年代の「平家政権と高麗の武人政権の類似」(『武士から王へ』)についてもっと知りたいと思って、いろいろ調べているが、日国内だけでもなかなか事実関係がややこしくて、どんどん深みにはまっていくわりには、どうにも「理解」が追いつかない。そんな感じで、このところ停滞している。もっと時間をかけてじっくり勉強していく必要があると感じている。 ただ、調べていくうちにふと気づいたのは、「平家政権と高麗の武人政権の類似」が特に注目に値するのはむしろ、それ以後の歴史が違っているからだということだった。 姜在彦(カン・ジェオン)氏は、『朝鮮儒教の二千年』の中で、こういうことを書いている。 (藤原一族の)摂関政治下における中央と武士団との関係は、高麗創業期における中央王権と地方豪族とのそれによく似ている。だとしたら高麗が地方割拠的な「旧臣宿将」を排除また

  • 秋葉原へ - はかもと(無縁彷徨)は引っ越しました

  • 足尾鉱毒事件と水俣病 - heuristic ways

    石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』(講談社文庫)の中に数ヵ所、足尾鉱毒事件への言及がある。 昭和三十八年、石牟礼氏は小冊子「現代の記録」を出し、「水俣はじまっていらいのチッソの長期ストライキ、その記録」を書くが、資金難のため「一冊きりで大借金をかかえる」(p 299)。その後に、「それから、足尾鉱毒事件について調べだす。谷中村農民のひとり、ひとりの最期について思いをめぐらせる」という文がある。 「あとがき」では、足尾鉱毒事件谷中村残留民の高田仙次郎のエピソード*1に触れ、「私はこの章のある「思想の科学」日民主主義の原型特集号(一九六二年九月号)を座右にひきよせ、水俣病にかかわる自己の対話のよすがとしている」と記している。「谷中村の怨念は幽暗の水俣によみがえった」と石牟礼氏は見ていたのである。 第七章「昭和四十三年」の「いのちの契約書」という節には、氏が西日新聞に書いた「まぼろしの村民権

  • メモ〜川と堤防の話 - heuristic ways

    小松裕『田中正造――二一世紀への思想人』で言及されていた富山和子『水と緑と土』のことが結構気になったので、図書館で借りてみた。まだ最初のほうを少し読んだだけだが、そこで語られている近代日の河川法制定(1896年)以降の「川と堤防」の攻防の展開は、まさに「矛」と「盾」の故事成語を地で行くような話で*1、ほとんど知的な興奮を覚えた。すなわち、どんな大豪雨時の川の流量にも耐えられるように設計された堤防と、どんな大規模な堤防をも越えてしまう川の大洪水との「矛盾」。興味深いのは、今日われわれにとってお馴染みの言葉になった「未曾有」とか「想定外」という問題が、すでにここで現われていることである。 長くなるが、いくつかに区切って引用しよう。 まず第一ラウンド。 利根川の全水系にまたがる大改修工事が着手されたのは、明治三十三年であった。このときの計画高水流量は、埼玉県栗橋地点で毎秒三七五〇立方メートルと

    t-hirosaka
    t-hirosaka 2011/12/06
    不意にトラックバックを喰らってびびったが、まだ仕事が終わっていないので、後ほど。