エントリーの編集
![loading...](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/common/loading@2x.gif)
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
余談〜KamakuraとAmerica - heuristic ways
記事へのコメント0件
- 注目コメント
- 新着コメント
このエントリーにコメントしてみましょう。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
![アプリのスクリーンショット](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/entry/app-screenshot.png)
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
余談〜KamakuraとAmerica - heuristic ways
日本中世初期の歴史を調べていて、私が興味深く思ったのは、複数の研究者たちが、たとえば「武士たちの... 日本中世初期の歴史を調べていて、私が興味深く思ったのは、複数の研究者たちが、たとえば「武士たちのいわば独立戦争」(本郷和人)とか、源家の「明白なる宿命(マニフェスト・デスティニー)」(高橋富雄)といったように、アメリカ史の用語をアナロジカルに援用しているということだった。 私がそこに引っかかったのは、以前、渡辺京二氏の『日本近世の起源』を読んだとき、渡辺氏が佐藤欣子『取引の社会』(中公新書、1974年)を参照しながら、「このアメリカ司法の当事者主義は、日本中世の当事者主義的な法慣行になんと似ていることだろう」と、驚きをもって指摘していたのが記憶に残っていたからである。渡辺氏は、「鎌倉幕府法を見るかぎり、中世日本には、裁判を国事とする観念はきわめて希薄」であり、「そこでは、権利も正義も各人が闘って実現すべきものであり、(中略)訴訟自体がいちじるしく当事者の決闘に類似していた」と言っている。渡