少年時代から浪花節を好み、腕自慢の素人として天狗連で15-16歳ごろには「東川春燕」の名で人気を取っていた。共立電気電線(現在のアンリツ)に就職していたが、それを辞める[3]。電気工事の職人として、東京駅の大時計取り付け作業もしたという[4][5]。地元の初代木村重松や東家小楽燕に弟子入りを志願する。が小音と断られ、どうしてもプロになるべく、冨士月子の手引きで講釈師の旭堂麟生のもとに19歳の時に通ってネタを仕込む[6]。後に「修業(芸を磨くの)は関西で、人気(を上げるの)は東京(関東)で」と(芸界で)よく言われる[7][8]ように当時関西浪曲界の巨頭であった浪曲師2代目広沢虎吉に弟子入りする。初め広沢春円[9]、広沢天勝、後に天華と名乗る。1922年[10]23歳で2代目広沢虎造を襲名。 徴兵検査で麻布第三連隊に入営したのを機会に帰京。師匠譲りの関西節から、中京節の鼈甲斎虎丸や関東節の木村