劣化ウラン弾、クラスター弾、地雷等の武器規制論議で忘れ去られていること―日本流の戦争方法についての根本的な議論― 站谷幸一 日本の安全保障論議は歪みがちである。それは時代という縦軸であれば、戦前戦後に渡ってであり、思想という横軸であればリアリスト、リベラリスト、保守派、革新の皆々である。そして、その代表例が外交と防衛の混同であることは既に述べた。(参照:https://agora-web.jp/archives/861220.html) だが、外交安全保障の論議では、他にもしばしば忘れ去られている視点が存在する。それは、民主主義、国民の生命財産、価値観を保持しながら、日本の戦争方法を如何に確立するかということである。我々は戦前戦後、そして左右の思想を通じて兵器論や技術論に拘泥するあまり、戦争の全体像や戦争方法をデザインすることを忘れてしまっている。特に、これが顕著に出ているのは、劣化ウラン
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