タグ

ブックマーク / bushoojapan.com (2)

  • 「古代の日韓交流史」NHKがクローズアップした時代の少し前になにが起きたかまとめた

    継体は皇位を簒奪していない6代なんていっているが単なる自称で、継体は皇位の簒奪者だったではないのかとも言われています。 しかし、答えはNOでしょう。 確かにはるか昔の天皇から数えて6代目ともなると、もはや皇族と言えないくらい遠いのですが、少なくとも「昔の大王の子孫」と、自他共に認識されていたことは間違いなさそうです。(DNA的につながっているかどうかではなく、あくまで認知されていた) もし継体が征服王朝の始祖だと考える場合、戦国時代のように、まずは地元でトップになっていることが必須となります。 ところが、越(福井県)での古墳の規模を見ると、継体がいたと考えられる地区とは別の地区に圧倒的に大きい前方後円墳があることが考古学から判明しています。つまり、継体は越の王ですらなかったのです。日海側で一番強い武将だから天皇になったのではなく、やはりいにしえの天皇の血を引く人物とみなされていたことが最

  • さすが破天荒No.1大名・伊達政宗 敵の城門を叩いて「一晩、泊めさせて♪」 - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

    1600年といえば、関ヶ原の合戦。年号覚えるのが苦手な人も、これだけは覚えていることだろう。結果的に家康と石田三成の対決となっているが、そもそもは家康VS会津(福島県)上杉の戦いが始まり。 東北が舞台である以上、我らがヒーロー伊達政宗さんも黙っちゃいない! とくに会津は、一度は手に入れながら、「大人の事情」(豊臣秀吉に召し上げられた)で手放してしまった因縁の地。そこで政宗は、家康側につくことにした。 わずか50騎で仙台を目指して・・・ 急に開戦が決まったため、そのとき大坂にいた政宗はわずか50騎で仙台を目指さねればならなかった。途中の福島県・中通りは上杉が支配していおり、まず通り抜けは不可能。そこで、海側の浜通りを通ることにしたのだが、ここも戦国時代から何度も戦ったライバル・相馬氏の支配地だった。 さて、どうスリ抜けるべきか。合戦は目前に迫っており、他の街道や海路などの迂回は使えない。もは

  • 1