2007年5月30日のブックマーク (2件)

  • ■ - 女のコファシズム−あふたーあうしゅびっつ

    俺は二人の人間に分裂して、やぐの前で闘うことにした。勝った方がやぐを貰うからな。 「擬似恋愛か、当の恋愛か、それが問題だ、やぐ、いやちがう、やぐ落ち着け落ち着くんだ。恋愛当も擬似もあるもんか、なんていったら、それは屁理屈だといわれる、運が悪ければ、あいつは恋愛したことないヤツだなどと後ろ指を差される。当の、もう少し穏当に言ってみて、一般的な恋愛においては、他者、つまり恋愛の対象とのコミュニケーションが欠くべからざる要素であり、それが「現実」のおとしどころとやらで、ひとまずその「現実性」とやらを抜きにしても、その要素が恋愛の擬似か当かの判断根拠たりうる、という結論はなるほど論理的には一つ正しそうだ。「現実」はおせっかいだ。そして「現実」の奴隷になったヤツがルサンチマンを発揮して、お前も現実を見ろ、という。だがここでそれは奴隷根性ではないか、などとついぞ放言してはならない。俺が妄想の

    ■ - 女のコファシズム−あふたーあうしゅびっつ
    tubame0604
    tubame0604 2007/05/30
    「擬似恋愛」から「擬似」をとろうという提案。魂のこもった文章。
  • 庄司は大事? - onoya's blog

    さて、藤の件である。 「責任」とか「軽率」とか、違う。もういい、それはいい。というか僕は、多くの人が諦観でなく書かれているように、これ自体はショックを受けるべき事態ではないと思っている。 そんなことよりも心配すべきは、「アイドルである人間が「アイドル」であるということに未練がないのではないか」ということだ。その場合、彼女に対する追及は意味をなさないのではないか。それは、死刑になっても構わないと思っている人間が殺人を犯したことに対して、責任を問うという虚しさであったり、あるいは愚かさを自覚した上でヲタ活動をしているヲタに「愚かだ」と言う意味のなさだったりと同様のものである。 つまり、あるルールの範疇から自覚的に逸脱する者に対して、そのルールに則った説得をするという場合のもどかしさである。例えば倫理・道徳という点では、「ある共同体内部でうまくやっていきたいなら守れよ」っていうのが基で(まあ

    庄司は大事? - onoya's blog
    tubame0604
    tubame0604 2007/05/30
    「アイドルがアイドルであることに未練をなくしてる」「僕らはただただ「取り残される」のが怖いのではないか?」 / すごく本質を突いてる気がする。