ブックマーク / onoya.hatenablog.com (24)

  • アイドルの固有名詞 - onoya's blog

    アイドルの実存的問題として。 ハロプロのメンバーは基的に名をそのまま使っていると認識している。田中れいなとかアヤカとか、多少の例外はあるにしても、芸名を使っているメンバーはいないと認識しているが、これは正しかったろうか。もともと一般人がアイドルになる過程を見せるハロプロが、芸名を使えないのは致し方のないことであるが、これって結構辛いことなんだろうと思う。 固有名詞としての人名は、通常その存在に貼り付いている。例えば僕が「斧屋」という人名だったとして、それは僕という存在と違和感なくくっついて、それ(「斧屋」)が使われているときには「自分」が指示されているということを自然に即座に受け入れられる。 ところが、アイドルでもあるところの人名は、「存在」として語られるだけでなくて「作品」(虚構)としても語られてしまう。メディアを介し、また様々な商品としてアイドルが遍在していくにつれ、名前と身体が乖

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    tubame0604
    tubame0604 2008/01/29
    アイドルの愛称とブロガーのHN、自分の身体から名前がはがされている感覚。
  • 踊り子に触れない倫理 - onoya's blog

    12:00 埜亞×メリユ×森馨 人形展「残酷な姫君の宴」 ヴァニラ画廊の妖しい人形展に行く。 以前「マリアの心臓」で見た人形たちが「かわいい」ものではなかったのに比べ、かわいくエロい人形たち。 一点集中の力として、前回乳首を挙げたが、訴える力では当然「眼」も強い。僕にとっての「人形愛」は、乳首と眼だとさしあたって言えると思う。 森馨の全裸少女の人形に僕は期待して行ったが、人形そのものがあるかと思っていたら写真だけだった。棺桶のようなケースに収まっている少女が、いくつもの鏡に反射している写真。少女は眼をつぶっている。だからそれを見るものは少なくとも他者の咎めをそこに感じることなく、一方的な視線を遣ることができる。そこにおいてどうしても少女の乳首にアクセントが置かれているような気になる。根源的な生命性を僕は感じる。うーん、ちょっとかっこつけすぎか、確かにエロくはあるんだろうと思う。もちろんそこ

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    tubame0604 2007/11/05
    あえて距離をとる美学。「萌え」と「推し」の大雑把な二分法は非常にわかりやすかった。
  • 代替可能性に関して(2) - onoya's blog

    代替可能性に関して(http://d.hatena.ne.jp/onoya/20061225/1167012084)も参照のこと。 愛をめぐる二つの形式がある。 『「干渉しないことこそが最高の愛」と「愛とは究極の束縛」という二項』。 言語哲学に突っ込みそうな話だが、型にはめずに対象を認識するとは、常に固有名詞として対象を認識するということだと思うが、それって可能なのかという議論は検討する価値があるか。 まずは「僕の愛(斧屋さんへ私信)」(http://d.hatena.ne.jp/tan_po_po/20071101/1193885337)を引用します。 『まず「愛とは究極の束縛」とは、相手の意思に拘らずこちらの身勝手な愛で束縛するという捉えではなく、『この人に愛されたい』とその相手に思わせる(優しさとか強さとか思いやりとかの)姿勢を示すという捉えです。 (中略) で次に『こんなカゴの中に

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    tubame0604
    tubame0604 2007/11/04
    求める愛と手放す愛と執着心と無関心と天使と悪魔。結局、「真実の愛とは何か」の野島伸司問題に帰着するんだよなあ。機会があったら何か書こう。
  • 「しゅごキャラ!」を読む少女 - onoya's blog

    「キャラ化するニッポン」 (講談社現代新書)は読む気がしない。 その代わり、この前「しゅごキャラ!」をネットカフェで4巻まで読み切る。 しゅごキャラはジョジョで言えばスタンドみたいなもので、普通の人には見えない。 なりたい自分が守護霊みたいな感じで具現化したもの。少女マンガらしく、しゅごキャラの存在と思春期の内面性が絡んで描かれる。そこに見えるように思われる矛盾。 「クールで強くてかっこいい イケてると言われていても ほんとはそんなでもないし フツーに女の子だもん」という側面、つまり素直なありのままの自分。 だけども、「なりたいあたし」が具現化したしゅごキャラと「キャラなり」するのは明らかに変身行為。 このマンガでは(現実でもそうなのだが)、自分の状態を3つに分類できる。まずは「周りからそう思われているところの自分」(=クールで強くてかっこいい)。そして、「自分がこうだと思っているところの

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    tubame0604
    tubame0604 2007/10/12
    少女の願望の最終形は、「理想の自分」が「自然な状態の自分」になること・・なのかな。
  • ヲタで卒論 ~解釈と操作のヲタ視線~ - Berryz空間?℃-ute時間

    舞波物語さん(http://strawberryz.seesaa.net/article/55225993.html)からインスピレーション。 『とりあえず言えるのは「放課後のエッセンス」は「時間」がテーマになっているらしいこと。』 『ベリーズが空間なのかはともかく、℃-uteは時間を突き詰めてきた。』 あーそうか。 Berryz工房―空間 × ℃-ute―時間 って、いけますか。 さらに僕はBerryz工房―空間―恋 × ℃-ute―時間―愛 という風に持っていきたい。 これは印象から来る多分にこじつけの面を免れないけれども、Berryz工房が空間、℃-uteが時間というのは自分ではしっくり来る。「放課後のエッセンス」が「時間」がテーマであるのに対し、Berryz工房はツアータイトルで「Berryz宮殿」と言っているくらいなのだから、やはり空間がテーマになるのでは?(観に行った人のコメン

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    tubame0604
    tubame0604 2007/09/16
    Berryzファンですが、そのイメージ論には全面賛成。あとで何か書くかも。
  • ℃-ute=娘。論 - onoya's blog

    あらためて当然の議論を確認しておく。℃-ute=娘。論についてである。 モーニング娘。と℃-uteの共通点は大きく3つ。 ①落選組の寄せ集めによる結成であるということ 娘。はオーディション落選組、℃-uteはBerryz工房に選ばれなかったキッズ、という、選ばれた当初はそのグループである必然性、根拠を欠いた存在として揺らいでいた両グループ。ファンの後押し、そして成長という物語によってグループのアイデンティティが獲得されていく、という過程をとる。℃-ute結成、インディーズ、村上脱退、メジャーデビューそしてツアーをずっと見守ってきた初期ヲタにとって、℃-uteというグループはもはや代替不可能。 ②楽曲の世界観 このテーマだけでもとうとうと語ることが出来るが、娘。と℃-uteの多くの楽曲の歌詞は、(時に恋を描くと見せかけて)普遍的な愛へ持っていく、という構造が顕著である(℃-uteにおいてはJ

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    tubame0604 2007/09/15
    すごくしっくりきた。こういうの読むと、BerryzはHelloの中では傍流だなと思う。
  • おいも屋本舗に行って来た。 - onoya's blog

    いつか行こうと思っていたおいも屋舗に行って来た。http://www.oimoya.jp/ U-15専門店である。ホームページに店内の様子があるので、それそのまんまといった雰囲気。 ちなみに、ハロプロ関係では、熊井の写真集が辛うじて売っているのみ。 店内は、U-15の写真と写真集とDVDがこれでもかと置いてある。 ハロヲタとして耐性が出来ている身でも結構な破壊力。「視聴覚室」で、DVDを座って見れるようになっているので、しばらく見る。 さて、慎重に、だけどとりとめもなく語りたい。 まずは、当然の感覚としてやって来る、「いくらなんでもまずいだろう」の印象。十歳にも満たないような子供が水着姿で全身を泡まみれにして洗っている図。Tバック姿、あるいはレオタードでの開脚。しかし、僕は頭ごなしにU-15を非難する気にはなれない。それはハロプロにだってゆるやかにつながる話だから。 [抜けるということ]

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    tubame0604
    tubame0604 2007/09/11
    下のid:baka551さんのコメント読んで、「U-15で抜ける」ことに代替不可能性を求めてる人もいるだなと思った。私が求めてるのは「思春期性」という代替不可能性ですが。
  • 梨華ちゃんの靴下って臭いの? - onoya's blog

    8/28のガッタス公開練習のことを今さら書く。 印象に残っているのは、梨華ちゃんが休憩しているときにソックスを履き替えているところを見てしまったこと。 面倒を引き起こす問いを問うてしまった――「梨華ちゃんの下は臭いのか?」 考えてみれば、アイドルが人前で着ているものを無防備に脱ぐ、ということはめったにお目にかかれない。とても不思議だ。アイドルを現象として捉えるなら、着ている物を含めてアイドルと呼ぶのだから、ガッタスと言えど、衣装の一部と言っていいソックスを脱ぐ行為はアイドルという現象に亀裂をもたらす。アイドルの一部としてのソックスはあくまでアイドルなのだから、他のパーツと不可分のものとして、特に対象化されないままアイドルとしてあるのだが、それが脱がれた瞬間に、突如問いが湧き出してきてしまう。ソックスがただのソックスとして立ち現れて初めて、僕は、そのソックスが臭いかどうかという問いを手にす

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    tubame0604
    tubame0604 2007/09/09
    不可知であるがゆえの可能性の重要性。だからこそ、ファンには必要以上に知ることを自制する倫理が、アイドルにはそれを知られないようにする警戒心が必要なんだ。
  • アイドル論とフェミニズム - onoya's blog

    モーニング娘。学会で問題となったことの一つは、アイドルを応援するということにおける搾取である。つまり、我々はアイドルを応援している限り、アイドルを消費するという暴力から逃れられないのではないか、アイドル産業そのものがそうした構造を不可避的にとっているのではないかという問題である。これは我々にとってはどうしようもない問題である。アイドルを応援する限りそうなのだ、ということになれば、開き直って、じゃあ精一杯応援しようじゃないか、などとお茶を濁したくなる。 僕はあまり関係がないのではないか、という気もするのだが、男のヲタ→女のアイドル、という構図がある限り、この問題はフェミニズムとの対峙を避けられない。僕は「萌え」に限って言えば、「萌え」は性欲とは独立しているという立場だから、男女に関わるジェンダー論に巻き込まれるのはおかしいのではないかと思うし、学会でいまむー氏が冗談で言ったように、我々がチン

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    tubame0604
    tubame0604 2007/08/19
    対フェミニズムではなく、ジェンダーの問題(男女の性の非対称性)な気がします。
  • 単推しとDDはどちらが倫理的か? - onoya's blog

    これを問う可能性について僕はすっかり抜け落ちていたようだ。 僕のこれまでの考えはこうだ。単推しであるということは、アイドルを固有名詞として愛するということ。アイドルの権威を保ち、アイドルアイドルでいつづけることを支える。一方DDは、いろんなアイドルを応援することで、アイドルの代替可能性を露わにしてしまう。アイドルの権威は弱まり、アイドルを短命に、結果としては滅ぼす方向になる。 …果たしてそうか?その見方は正しいか? 例えば学会でたしかいまむー氏が指摘したように、グラビアアイドルに関して言えば、マイナーで少数のヲタしかついていない時代に応援していたヲタは、そのアイドルが有名になったら、同じ事務所のデビューしたてのアイドルに乗り換える。マイナーであるときのみ応援して、大きくなったら乗り換える。これはハローにおいても見られることだ。娘。→ベリ→℃-ute→エッグ(真野)みたいな。 昨日映画「キ

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    tubame0604 2007/08/17
    「愛」とは究極の束縛である。その暗黒面とどう折り合いをつけるか。永遠の課題。
  • アイドルに幸あれ! - onoya's blog

    飯田圭織の結婚アイドルは、アイドルであることが幸せであるような存在のことを言うのである。 だから、アイドル結婚しない。結婚するのは、ただの人間である。 飯田の結婚には祝福ムードが漂う。飯田はアイドルではなくて、人間である、ということだ。 こういうのが、理想的なあり方ではないか、と思ってしまう。 アイドルであることをある程度の年齢で卒業し、熱狂的なヲタが離れて、ほとぼりが冷めたところで結婚。ハッピーエンド、というわけだ。前にも書いたが、僕らが嫌ってアイドルを見捨てるんじゃなくて、アイドルがヲタに嫌わせて(ヲタの心を離れさせて)アイドルを脱する、ということ。例えば、矢口の「結婚宣言」だって、基的にはもう「ファン」「ヲタ」を必要としていないということである。 となると、我々ヲタは、好きなアイドルと「いい別れ方」がなかなかできない、ということでもある。アイドルアイドルであるまま、我々がア

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    tubame0604 2007/07/14
    年下推しは「近々確実に到来する『別れ』が嫌だから」という側面も大きい。
  • 映画「キサラギ」 - onoya's blog

    見てきました。多少のネタバレをすると思うので、これから見る人は読まないほうが無難ですが、ただ、とにかく、アイドルヲタしてるんだったら絶対に見るべき映画だ。 売れないグラビアアイドル如月ミキが自殺して1年、彼女のファンサイトの常連である5人の男が追悼会に集まる。家元(小栗旬)、オダ・ユージ(ユースケ・サンタマリア)、スネーク(小出恵介)ら5人は、思い出話で大いに盛り上がるはずだったが、「彼女は殺された」という言葉を引き金に、事態は思わぬ展開を見せ始め……。 http://moviessearch.yahoo.co.jp/detail/tydt/id327204/ まずは2月という月と「ミキ」という名で、否応なく僕は加護と藤を思い浮かべてしまう。一般の人よりは感情移入の度合いを強めてしまう。映画の終盤までアイドルの顔は我々観客にはわからず、ぼやけたままでストーリーは進む。生写真を手袋をして扱

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    tubame0604
    tubame0604 2007/06/30
    人間、人生というものの決定不可能性。これがスタンス差の遠因。
  • ℃-ute舞台メモ - onoya's blog

    「寝る子はキュート」23日公演で思ったこと。 ・前半でのアイドルとファンの隠喩 甘いものは一日2杯まで、って、いかにもアイドル的なルールだ。 一方、ひたすら「まずいんじゃないのー」を繰り返す長谷川については、いまやアイドルを殺してしまった「負の記憶」を背負ったヲタとして見えてくる。またパパというゲームの後で「パパってよばれるのがこわい」と言うバカ浩も、ヲタらしいと感じる。 ・梅田が名前を忘れること 夜になり、来夏(舞美)がいないところで梅田が中島に「規則正しい生活もいいけど…」「夜更かしして普段話さないようなことを話したい」と言う。このあと寝てしまった岡井を運ぶために管理人を呼ぶ梅田は、なぜか管理人の名を忘れている。さらにその後駐在の名も知らない梅田は「なえむらなえむら…」と名を唱えながら2階に上がっていくのだが。ここで「名前を知らない」ということが、ストーリーの全体からすれば特に必要では

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    tubame0604 2007/06/27
    僕らは世渡りのうまくなってしまった来夏を好きになれるだろうか。
  • 「感情労働者」は「アイドル」である - onoya's blog

    なぜ「感情労働」は「マクドナルド化」によって対処されるのか(http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070611#p1)は非常に興味深かった。 それとは多少話がずれるかもしれないが。サービス業の中でもある種の仕事は、サービスを売っていない。人間を売っている。最近そう感じる。僕らは過剰に「人間」であることを求められている気がする。笑顔、思いやり、顧客一人一人に親身に。その顧客が特別扱いされているという意識を持てばロイヤリティーが上がる。つまりは、その顧客が他の誰かと代替可能ではないオンリーワンだと感じられるようにサービスせよ、ということだ。ん、それって、目指すところはアイドル―ヲタの理想的な関係と同じではないですか。アイドルが「自分だけのアイドル」という感覚をヲタに持ってもらうことと同様に、サービス業は「自分のことをよく分かってる・特別扱いしてもらっている」と思わせる

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    tubame0604
    tubame0604 2007/06/14
    「アイドル」という名のサービス業。オンリーワン志向主義と薄れゆく身体性。
  • 庄司は大事? - onoya's blog

    さて、藤の件である。 「責任」とか「軽率」とか、違う。もういい、それはいい。というか僕は、多くの人が諦観でなく書かれているように、これ自体はショックを受けるべき事態ではないと思っている。 そんなことよりも心配すべきは、「アイドルである人間が「アイドル」であるということに未練がないのではないか」ということだ。その場合、彼女に対する追及は意味をなさないのではないか。それは、死刑になっても構わないと思っている人間が殺人を犯したことに対して、責任を問うという虚しさであったり、あるいは愚かさを自覚した上でヲタ活動をしているヲタに「愚かだ」と言う意味のなさだったりと同様のものである。 つまり、あるルールの範疇から自覚的に逸脱する者に対して、そのルールに則った説得をするという場合のもどかしさである。例えば倫理・道徳という点では、「ある共同体内部でうまくやっていきたいなら守れよ」っていうのが基で(まあ

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    tubame0604
    tubame0604 2007/05/30
    「アイドルがアイドルであることに未練をなくしてる」「僕らはただただ「取り残される」のが怖いのではないか?」 / すごく本質を突いてる気がする。
  • 嗣永桃子写真集『momo』 - onoya's blog

    Berryz工房の見方を僕はほとんど知らない。 けれども、嗣永桃子のすばらしさは昨年知った。http://d.hatena.ne.jp/onoya/20061112/1163356165 ももちが写真集を出すという。 ワニブックスでの紹介文よりも、公式HPのほうが、若干気合が入っている。 『2007年3月3日に結成3周年を迎え、4月には初の単独・さいたまスーパーアリーナコンサートを成功させたBerryz工房。 その中でも、ももちの愛称で人気の嗣永桃子が初のソロ写真集をリリース。今作は彼女らしい、乙女チックなキャラクターが炸裂! シチュエーション、衣装ともに、桃子の夢の世界を再現。お嬢様風の装いでお花に囲まれたり、プールで元気にはしゃぐ様子や、プリンセス・モモとしてピンクの世界に入ってしまったり……? いろんな表情がのぞける一冊に仕上がりました。また高校生らしい、健康的で愛らしい笑顔にファン

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    tubame0604
    tubame0604 2007/05/27
    水着写真があるかどうかではなく、それを売りにはしないぞ、という姿勢が重要である。
  • 矢島舞美 VS しほの涼? - onoya's blog

    週刊チャンピオンの表紙が「ジュニアアイドルの先駆者」とも言われるしほの涼だった。 なるほど、高校生という新たな記号を手にしたのですね。 しほの涼…1991年9月7日生まれ × 矢島舞美…1992年2月7日生まれ 家に帰って矢島写真集の画像を見たら、どうしてもこの同学年の2人を比べる構図が自分の頭の中で出来上がってしまった。 しかしながら、こんな風に同じ土俵に乗っていると思わざるをえないところにそもそも問題を感じるわけだ。 かたや中学生時代に表紙から見せパンしてる写真集を何冊も出しているしほの涼と、水着やら露出の多い衣装をおそらく意図的に避けてきたのではないかと思われる℃-uteの矢島舞美である。その矢島がスク水を着るなりしてジュニアアイドル風の写真を撮られているということ。どうなのかと思う。で、そのどうなのかを猛烈な勢いで吹き飛ばしそうなかわいさなのがまた問題だ。これは冗談であったりなかっ

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    tubame0604
    tubame0604 2007/04/27
    ハローのアイデンティティだとかブランドというものが、水着写真集によって、少なくとも一時期、揺らいだと言うことはできよう。 / たしかに。僕もその類だ。
  • あらぬ方向 - onoya's blog

    初めて知りました。 『ピュアロマンス ヲタ芸アイドルユニットデビュー』 http://news.ameba.jp/2007/03/3979.php http://nrpro.co.jp/pureromance/ あらぬ方向だなあと思う。「ヲタ芸は実存的営みである」、などと卒論で書いた身としては残念でならない。 一体、ヲタ芸と萌え要素のどこに関連性があるというのだ? …けれども、ヲタ芸は誰のものでもないのだから勝手にすればいい。 娘。紺の最後のハピサマで打つOADの心地よさよ。 一方。 『U-15に自主規制進む中、9歳のTバックアイドル誕生』 http://news.ameba.jp/2007/04/4263.php来はピュアや清純さの象徴だったはずなのだが…。」とあるが。 ここで、「来」を語ることにどれだけの意味があるかよくわからないけれども、僕はどうしても「消費の仕方・させ方が間

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    tubame0604
    tubame0604 2007/04/17
    「他の奴だってそんなのいくらでもできるじゃないか」という代替可能性。アイドルをそのアイドルたらしめているものは何かという問題。 / 同意。私はそれを「世界観」と呼んでいます。
  • 2007-04-05

    加護の件で、アイドルに対して倫理を求める論調がどっか得体の知れないところから湧き出ているので、それについて考えておきたい。まずは、そもそもアイドルという存在が危ういことを確認しなければならない。 ①アイドルになりたくてなったかどうかということ。 例えばモーニング娘。の成り立ちが、ロックボーカリストオーディションであったことからも分かるように、そもそもモーニング娘。はアイドルではなくて歌手を目指す女の子を集めたものだ。彼女達はメディアと時代に操られるようにアイドルに仕立て上げられた。決してアイドルになりたくてなったわけではない。 自分で選んだ判断に対して責任を負うというのは理解できる話だ。しかし、アイドルという道を主体的に選んだわけでもない彼女(ここでは矢口を念頭に置くが)に対して、どこまで責任を問えるのかってのは、もうちっと繊細に語ってもいいんじゃないかと思う。もちろん何年もアイドルを職業

    2007-04-05
    tubame0604
    tubame0604 2007/04/11
    アイドルの「少女性」を愛で、「女性性」を排除することで到達できる「萌え」の世界。自分が安易なエロ志向を嫌うのもこんな理由からなのかも。
  • 愛㌦ - onoya's blog

    「あっ!とおどろく放送局」で、THEポッシボー「主GOHANの唄」PVを見た。最後にご飯をべるポーズで終わる。ふーんむ。 「ともいき」もそうなんだけど、このメッセージの不必要な濃密さってのが好きなのです。伝わらないのに情報過多。「THEポッシボー」っていう英文法無視のネーミングもよい。もちろんさまざまに解釈可能だ。 ところで、そんなチープ感漂うアイドルのみならず、この土日はBerryz工房のバスツアーがあり、先週は℃-uteのライブ後の握手会があり、来週は娘。、美勇伝、のんちゃんのシークレットフェスタがある。一度も行けてないがカジュアルディナーショーだとかファンの集いだとかもある。要は、少数のヲタのみがアイドルと接近できるイベントの増加ということである。これが是なのか非なのかという問題。例えばBerryz工房のヲタがバスツアーに落選したのを期にヲタをやめるという話を聞くと、いかがなも

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    tubame0604 2007/03/10
    少数のヲタのみがアイドルと接近できるイベントの増加の是非。 / アイドルの振り撒く愛の分配バランスの崩壊、ヲタ同士の間に生じる「格差」問題。