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comicに関するtukinohaのブックマーク (41)

  • 『木曜日のフルット』の“鯨井風汁なし麺”を再現! - 本がないならブログをお読み

    つい先日、今更ながらタモリ流インスタントラーメンの美味しい作り方を知って作ってみたんですが、確かに激ウマで驚きました。 これまでにも、タモリさんの料理上手っぷりは豆腐丼や豚生姜焼きのレシピを作ってみて実感していたのですが、こういうジャンクなものまで美味しく作れるとは…さすがです。 どうも、毎週「タモリ倶楽部」を欠かさず見ては空耳アワーで爆笑している管理人・あんこです。 日再現する漫画料理は、『木曜日のフルット』にて主人公・鯨井先輩が作ってべていた“鯨井風汁なし麺”です! 『木曜日のフルット』とは、儲け話が好きで気楽な貧乏生活を送っているズボラ女性・鯨井先輩と(←時折、微妙に乙女心を発揮する一面あり;)、自分では完璧にノラのつもりなものの、しょっ中鯨井先輩の家に泊まったりご飯をもらったりと中途半端に飼われている状態の半ノラ・フルットの一人一匹が主人公となって繰り広げられる、ゆるくてフ

  • 『罪と罰』と画太郎先生と僕 | 清野のブログ

    敬愛してやまない、漫☆画太郎先生。 画太郎先生とは、4月に発売された拙著『東京都北区赤羽以外の話』内で、ベールに包まれた画太郎先生の私生活を勝手に描いてしまったことにより、 激怒され、絶交されてしまって以来疎遠になってしまった。 大変嘆かわしいことだが、俺の画太郎先生に対するリスペクトの念はまったく変わっていないので、単行が出る度に、ちゃんと屋で購入して、陰ながら応援させて頂いている。 そして先日、『罪と罰』の最新3巻が発売されたので速攻で買いにいった。 内容は・・・ ・・・今回も最高にヒドかった(良い意味&悪い意味で)。 「原作レイプ」とまで言わしめ、各所で物議を醸されまくっている作品。 ドフトエフスキーも、死後100年以上経って、まさかこれほどまでナメられるとは予想だにしなかったであろう。 いつまでたっても衰えないどころか、今なお進化し続ける画太郎先生のギャグのパワーには、ただた

    『罪と罰』と画太郎先生と僕 | 清野のブログ
  • "クールジャパン"はなぜ恥ずかしいのか

    第2回世界メディア芸術コンベンション「想像力の共有地(コモンズ)」が終わった。今回は京都精華大学のジャクリーヌ・ベルント教授に協力を仰ぎ、欧米、韓国、インドネシアからもマンガ・アニメーション関係の研究者を招き、限られた時間にはちょっともったいないくらいの多様な議論が提供された。 前の記事「想像力を共有するとは?」の冒頭でも述べたが、昨年の第1回世界メディア芸術コンベンションは「メディア芸術の地域性と普遍性」というテーマで、その副題には「"クールジャパン"を越えて」とあった。さらに今回の開催趣旨の冒頭にも次のように書いた。「マンガとアニメーションはいわゆる「クールジャパン」の中心的分野とされています。けれども日文化をユニークで卓越したものとして産業的な関心からプロモートする言葉は、ちっとも「クール」ではない。」と。この「世界メディア芸術コンベンション」という国際会議は、国(文化庁)の催しな

  • #フィクション T京K芸大学マンガ学科一期生による大学四年間をマンガで棒に振る - 明日からがんばるのマンガ #漫画 #全ての、マンガ・アニメを学ぶ大学生へ #卒業制作 - pixiv

    ルポマンガ。卒業制作で描いたマンガです。  ※この作品はあくまで創作であり、フィクションです。

    #フィクション T京K芸大学マンガ学科一期生による大学四年間をマンガで棒に振る - 明日からがんばるのマンガ #漫画 #全ての、マンガ・アニメを学ぶ大学生へ #卒業制作 - pixiv
  • 筒井康隆作品を、腕利き16人が寄ってたかってマンガに

    執筆陣は明智抄、いがらしみきお、伊藤伸平、折原みと、雷門獅篭、菊池直恵、鈴木みそ、大地丙太郎、高橋葉介、田亀源五郎、竹健治、とり・みき、萩原玲二、畑中純、みずしな孝之、Moo.念平の16人。筒井の短編が官能劇画、SF、4コマ、ホラーにファンタジーなど、多様なジャンルで表現されている。 「筒井漫画」は第1弾が1995年に発売され、吾ひでお、いしいひさいち、内田春菊、蛭子能収ら17名が参加した。「筒井漫画 ふたたび」発売に合わせ第1弾も重版を予定しているので、合わせて楽しみたい。 「筒井漫画 ふたたび」 執筆者・収録作品 明智抄「幸福ですか?」 いがらしみきお「北極王」 伊藤伸平「五郎八航空」 折原みと「サチコちゃん」 雷門獅篭「落語・伝票あらそい」 菊池直恵「熊の木線」 鈴木みそ「あるいは酒でいっぱいの海」 大地丙太郎「発明後のパターン」 高橋葉介「ラッパを吹く弟」 田亀源

    筒井康隆作品を、腕利き16人が寄ってたかってマンガに
    tukinoha
    tukinoha 2010/04/02
    そういえば昔は筒井氏自身が漫画を書いていたけど、もう書かないのかな。
  • 広江礼威『Black Lagoon(9)』(小学館) - shinichiroinaba's blog

    BLACK LAGOON 9 (サンデーGXコミックス) 作者: 広江礼威出版社/メーカー: 小学館発売日: 2009/10/19メディア: コミック購入: 17人 クリック: 905回この商品を含むブログ (195件) を見る 「ロベルタ逆襲編」、かなりの悪戦苦闘だったが、新章へと伏線を引きつつ、そこそこきれいに終わらせた。もうこれでこのマンガ最高の人気キャラを再登場させられなくなったわけだが、「折り返し点」としてはちょうどいいところだろう。 以下に8巻が出たときの、いまはなき『Invitation』に寄稿したまんが評を再録する。 - 国際マフィアが割拠する現代の「リバタリア」(伝説の海賊自治国)たる架空都市ロアナプラを根城に、海賊まがいの運び屋の一員となった日人元商社マンの主人公「ロック」の冒険を描いて、血と硝煙と美少女の好きなオタクの絶大な支持を得ている作も、いよいよ佳境である。

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  • 『孤独のグルメ』と現代人の生活(その2)――満たされない空腹としての孤独 - metamorphosis

    井之頭五郎とは、いったい、何者なのか? 彼は、この作品においては、まず、非常に特別な人間として登場する。どこにでもいる人間ではなく、非常に特殊な人間。それは、「若き大女優」とのパリでのロマンスの思い出があるような人物である。そうした特殊な人間が、山谷という、これまた特殊な場所を訪れることによって生じる違和感。井之頭五郎の孤独がまず位置づけられるのは、こうした特殊性においてのことである。 しかし、井之頭五郎の孤独は、徐々に一般的なものになってくる。五郎は特別な人間ではなくなり、言ってみれば、大衆の代表者のような人物になっていく。そこにおいて、問題となる孤独は、彼個人の特殊性から生み出される孤独ではなく、われわれの孤独となる。若き大女優とのラヴロマンスも、江ノ島での「さえない思い出」へと変化していくのである。 五郎の孤独を、特殊なものではなく、一般的なものとして捉えることがぜひとも必要だろう。

    『孤独のグルメ』と現代人の生活(その2)――満たされない空腹としての孤独 - metamorphosis
  • 『孤独のグルメ』と現代人の生活(その5)――生の根本的な要求としての空腹、都市の軋みとしての群衆の声 - metamorphosis

    今回は、まず、『SPA!』2008年1月15日号に載った『孤独のグルメ』の特別編から話を始めたい。 この特別編の舞台は病院である。つまり、病院べる井之頭五郎の姿が(半ばパロディ的に)描かれるわけである。これまで、この『孤独のグルメ』論で問題にしてきたことの文脈から言えば、病院という場所は、孤独な都市生活者にとって、ほとんど唯一の休息の場所だと言えるだろう。そこは、また、近代文学者にとっての安らぎの場所でもある。極言すれば、近代文学者にとっては、病気(精神的にも肉体的にも)であることが過酷な日常生活を送るための防衛措置となっているのであり、同様のことは、都市生活者にとっても、ある程度、言えることなのである。孤独な都市生活者は、出口のない迷路の中を当てもなくさまよい続けて、最終的には行き倒れて死ぬわけだが、その前に、一種の予行演習として、病院に運ばれるわけである。病気や怪我が治って退院し

    『孤独のグルメ』と現代人の生活(その5)――生の根本的な要求としての空腹、都市の軋みとしての群衆の声 - metamorphosis
  • 『ヘタリア』作者の浅さと、読者の責任と - 法華狼の日記

    個人サイトで発表されたWEBマンガから商業出版に至り、ついにアニメ化される『ヘタリア』。世界各国各地域の歴史や特徴を擬人化し、ステロタイプなキャラクター同士のやりとりで楽しませようとする作品だ。 ヘタリア *心のそこからヘタレイタリアをマンセーする* それに対して、韓国から批判が出ていることが報道され、結果としてキッズステーションでのアニメ放映は中止された。 『ヘタリア』はおおむねフィクションであることを断っており、現実から大きく誇張された内容がほとんど。国家や民族の特徴を誇張して笑いを取る手法も一般的だ。歴史上の良い側面だけ、あるいは悪い側面だけを強調した物語も多く、またそうでなければ物語は成り立たせにくい。差別的な表現があるだけで全面否定はしたくない。 一方で、韓国側の批判が表現の自由への攻撃というわけでもない。今のところ、キッズステーションでは放映中止するものの、アニメイトTVでのネ

    『ヘタリア』作者の浅さと、読者の責任と - 法華狼の日記
  • 漫画、アニメにおける、他文化からの引用について考える。 - さよならストレンジャー・ザン・パラダイス

    「COMIC PLUM」という成年漫画雑誌に掲載されていた睦先生の「プラネタリウム」という漫画に、パンク・ミュージックのサブジャンルの中でも特にマニアックな音楽であるサイコビリーのモチーフが何故か多用されていまして、イチエロ漫画好き、イチ音楽好きとしてコレは見逃せぬ! とばかりに以下のエントリを書きました。 ■睦「プラネタリウム」に見る、マニアックなセンスの表現の場としてのエロ漫画 で、ここでいただいたコメントが凄くおもしろくてですね。色々と考えさせられたので紹介をしたいと思います。 『エロ漫画からサイコビリーを見付けだすのは面白い視点に思ったのですけど 単に登場キャラが着ているTシャツにバンド名が、て…これだけなら深くもなんともないですよ。 いわゆる「俺こういうの知ってんだぜ」的な、漫画内の小物や台詞回しから趣味を覗かせるというのはただの衒学でしかないですよ。 エロ漫画でなくとも一般的に

    漫画、アニメにおける、他文化からの引用について考える。 - さよならストレンジャー・ザン・パラダイス
    tukinoha
    tukinoha 2009/01/16
    コミュニケーション、という表現が一番しっくりくるかなぁ。「あとがき」と機能的には近いのかも。
  • 『バクマン。』のネーム原作について: たけくまメモ

    おとといの『バクマン。』の感想で、ひとつ書き忘れたことがあります。それは、主人公のサイコーが、相棒で原作志望のシュージンに向かって 「シュージンの書いたネームが面白いんだったら俺が絵にする」 と、マンガ家の立場から原作者に「ネーム」を求めるセリフが出てくることです。俺は、ここに時代の流れを強く実感しました。 今でこそ、「少年ジャンプ」を始め、多くのマンガ誌の新人賞に「ネーム原作部門」が設けられていて、ある意味では定着しつつある感もあるのですけれど、俺のようなロートルの業界人からすると、じつに隔世の感があります。 俺が「マンガ原作」を一番やっていた90年代中頃くらいまでは、「原作者がネームまでやる」例は滅多になく、仮にそういう志向を持った原作者がいたとしても、マンガ家や編集者に向かって「ネームをやらせてくれ」と言い出すのは、非常に気が引けるというか、一種のタブーというべきことでした。 なぜそ

  • ウェブリブログ:サービスは終了しました。

    「ウェブリブログ」は 2023年1月31日 をもちましてサービス提供を終了いたしました。 2004年3月のサービス開始より19年近くもの間、沢山の皆さまにご愛用いただきましたことを心よりお礼申し上げます。今後とも、BIGLOBEをご愛顧賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。 BIGLOBEのサービス一覧

  • 2008-06-08

    はっきりいってマジャール語の解読してるほうがはるかに楽しいんだが、石のほうも一段落するはずなので、いちおう義理を果たしておく。 私見では件の『ユリイカ』「マンガ批評の新展開」で「表現論vs社会反映論」の図式が出来上がった背景にはこれと前後してネット上でおこなわれた『思想地図』1号掲載の伊藤論文「マンガのグローバリゼーション」(とそれを遡ること2年半前のユリイカの前マンガ批評特集)を巡る伊藤剛と紙屋高雪の論争(のようなもの)がある。 以下に時系列順にその経緯を示す。 紙屋研究所での伊藤『テヅカ・イズ・デッド』論 伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』 大塚英志・大澤信亮『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』 伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』ふたたび 伊藤による思想地図論文と紙屋への言及 『思想地図』vol.1 伊藤剛「マンガのグローバリゼーション」 「思想地図」に論文を書きました。 紙屋の返答? と

    2008-06-08
  • 2008-06-01

    知ってるひとは知っている話で、この箱の中味を書いているのは小田切博とかいうひとなのだが、その人物が寄稿したので届いた『ユリイカ』6月号「マンガ批評の新展開」をざっと読んだら一冊全体で「表現論vs社会反映論」という図式のある特集になっていて、無責任にも「うへぇ」と思った。 まずこの特集巻頭に付された泉信行、夏目房之介との鼎談「マンガにおける視点と主体をめぐって」で宮大人は2006年1月の『ユリイカ』での特集「マンガ批評の最前線」以降「マンガとマンガ表現の外部を関連付けて論じましょうという流れが強かった」といっている。だが、実際には2006年以降出版されたマンガ関連の書籍で「マンガとマンガ表現の外部を関連付けて論じましょう」というコンセプトのだと明確にいえるのは私自身の『戦争はいかに「マンガ」を変えるか―アメリカンコミックスの変貌』(NTT出版、2007年)と永山薫、昼間たかし『マンガ論争

    2008-06-01
  • 携帯コミックって読んでます?: たけくまメモ

    いきなりですが、皆さんは携帯コミックって読んでますか? 俺はどんなものか確認するために数回アクセスしてダウンロードしただけで、あんまり読んでいません。俺の周りのマンガ好きに聞いても、熱心に読んでいるという人はほとんどいない。俺と同じで、何回か試しに読んでみただけで、それっきりという人が大多数です。 学校でマンガ好きの学生に聞いてみると、さすがに携帯そのものの所有率は100パーセントなんですけど、携帯コミックを日常的に読んでいるという人にはまだ会ったことがありません。きちんと統計をとったわけではないので実態はまだわかりませんけどね。とにかく世代を問わず、マンガ好きな人は当然のように雑誌や単行で読むので、携帯で読もうという人はあんまりいないのだという印象があります。 ところが、プロの編集者の間では、どうも事情が異なるのですよ。最近は結構、プロ編集と顔を合わせると携帯コミックの話題になることが

  • 2008-03-22 - metamorphosis - 『孤独のグルメ』と現代人の生活(その10)――他者のモノローグ、近代人は二度死ぬ

    『孤独のグルメ』について書くのは今回で最後にしたい。そこで、今回は、今まで提出した観点をまとめてみることにしたい。 まず最初に提出したのは、モノローグという観点である。ここでのモノローグは、ダイアローグの不在と言い換えることができるだろう。つまり、『孤独のグルメ』においては、対話が描かれることはほとんどなく、作品は井之頭五郎の独白によって構成される。言い換えれば、そこには物語が根的に欠如しているのである。物語がそこにあるとしても、それは最小のものであり、前の話が後の話に続くということもありえないし、出来事が拡大していくということもない。五郎は、ただ単に、店に入って事をし、独白するだけである。 しかし、だからといって、五郎は、あらゆる人間関係を自分から遠ざけようとしているわけではない。むしろ、彼は、ある点において、他人と非常に重要な関係を取り結んでいる。それが、つまりは、群衆との関係であ

    2008-03-22 - metamorphosis - 『孤独のグルメ』と現代人の生活(その10)――他者のモノローグ、近代人は二度死ぬ
  • 2008-03-18 - metamorphosis - 『孤独のグルメ』と現代人の生活(その9)――目を持つ群衆、量の問題を提起する群衆

    群衆の持っている器官とは、端的に言って、目であるだろう。もちろん、群衆は聞いたりもするし、喋ったりもするだろう。ひとつのところに集まって交通を妨害することもありうるだろうし、映画のワンシーンによく見られるように、人と人とを離れ離れにさせたりすることもあるだろう。あるいは、階段のような場所では、雪崩のように崩れ落ちることによって人を圧死させたりすることもあるだろう。 しかしながら、群衆の機能として、見ることの働きは非常に大きいように思える。アニメでよく見受けられる表現として、登場人物が路上で奇妙な振る舞いをしたときに、小さな子供がその様子をじっと眺めているのを母親が制止する、というものがある。ある人間の振る舞いをじっとまなざす子供と、それを制止する母親。ここに示されているのは、群衆は、目を持っているが、あたかも目を持っていないかのように振る舞わなければならない、ということである。そこにあるの

    2008-03-18 - metamorphosis - 『孤独のグルメ』と現代人の生活(その9)――目を持つ群衆、量の問題を提起する群衆
    tukinoha
    tukinoha 2008/03/18
    群集の中で特別である、とはどういうことだろう?
  • 「勇気を出して一歩踏み出せば世界を変えられる」という少年マンガイデオロギー - HINAGIKU 『らめぇ』ARIMURA『今週か来週に武蔵小杉のラーメン二郎行きませんか?』

    6000日前のことを思い出して懐かしさに泣きそうになった月曜日 今日はちょっとした荷物を会社までもっていかないといけなかったので朝はに送ってもらいました。 頑張れば歩いて持っていくこともできなくはなかったのですが、ちょっと恥ずかしかったので送ってもらえてよかったです。助かりました。そして今週は少し仕事が落ち着い…

    「勇気を出して一歩踏み出せば世界を変えられる」という少年マンガイデオロギー - HINAGIKU 『らめぇ』ARIMURA『今週か来週に武蔵小杉のラーメン二郎行きませんか?』
  • テニスの王子様が終わった - 捨身成仁日記 炎と激情の豆知識ブログ!

    引越し遍歴パートⅡ 2018年に「上京して10年で引越しを6回した」というブログを書いた。 月日は流れ、あれから6年…さらに2回の引越しをした。ホテル暮らしも含めると3回かもしれない。 前回の記事では主に神奈川〜千葉〜東京の引越し事情を書いた。関東の浅瀬でちゃぷちゃぷ遊んでいたに過…

    テニスの王子様が終わった - 捨身成仁日記 炎と激情の豆知識ブログ!
  • 『孤独のグルメ』と現代人の生活(その6)――風景の変貌、自身の孤独に留まり他者の孤独と連帯するということ - metamorphosis

    ひとりになること、ひとりでいることとは、対象化する視点を持つということである。孤独であるということは、何かから距離を取るということである。第9話において、五郎は、自分の過去から距離を取る。そこにおいて、五郎は、単に、昔のことを思い出しているわけではない。昔自分が歩いた道を歩き直し、昔自分がべたものをべ直しているのである。第9話の最後で、五郎は、他の客たちがトンビの群れを眺めているその光景自体を、少し距離を置いて、眺めている。この距離感が彼の過去に対する距離感と重なるのである(「季節はずれの海とトンビの群れ……か。さえない思い出の脇役にピッタリかもしれん」)。 孤独であるということは、自分自身もそこに属している風景から自分自身を差し引くことである。その場にいるにも関わらず、あたかもその場にいないかのように、自分も含めた風景全体を対象化して眺めるということ。こうした内省的態度、反省的態度が

    『孤独のグルメ』と現代人の生活(その6)――風景の変貌、自身の孤独に留まり他者の孤独と連帯するということ - metamorphosis