タグ

gameに関するtukinohaのブックマーク (157)

  • 【MAD】リトルバスターズ!【tonica】中画質?版

    しゃかしゃかへいっ(他の動画:「リトバス15秒CM風」中画質?版→sm800995 / 「リトバス15秒CM風『song for friends』編」→sm816138)

    【MAD】リトルバスターズ!【tonica】中画質?版
  • 麻枝准 インタビュー

    visual style 2008 1 vol.01 巻頭インタビュー 麻枝准 多くのユーザーから愛され、感動を呼ぶゲームを作り続けている、人気ブランド・Key。 そのKeyのシナリオや音楽を手がけ、ゲームクリエーターの筆頭のひとり、麻枝准。 今回の「Special Talk Session」では、そんな麻枝順の創作人生に迫ってみた。 「繊細なクリエイター」や「芸術家肌の寡黙な人」として麻枝准は思われていることがある。 しかし、実際に接してみると、その認識は間違っていたと気づくであろう。 彼は、クリエイターではあるが、芸術家肌というのではなく、エンターテイナーなのだ。 (写真/藤井知貴 構成/豊泉香城) ■それはじめて反響というか心地よいものをはじめて経験した 一番初めに作った創作物って、なんです? 麻枝 中学校の時にゲームブックという「なになにをするなら何ページへ」と

  • Passepied: 祝!『リトルバスターズ!』発売

    諸君。喜んで欲しい。 今日はKeyの新作『リトルバスターズ!』の発売日である。 Keyは、私にとって最も特権的なナラティヴの送り手である。 私は彼らにギャルゲーの可能性を見続ける者である。 『ONE』から一貫して、彼らの作品の前半はスラップスティックの日常で占められている。ギャルゲー的日常である。それは終焉を約束された日常だ。日常は破壊されうる。家庭の事情、天災(地震雷火事親父)、人災(強盗強姦殺人戦争)、その他諸々の外圧、そして時の流れ。日常は所与のものではない。日常とは来、そういった脆さを備えている。 その脆さをあざ笑うかのように/祝福するように、Keyの作品は必ず日常を破壊する。超越的な、不可視の力によって破壊する。だからこそ日常に意義を与えうる。 私はギャルゲーを好むが、ある時期からお気楽で愉快な日常パートを読むのが耐え難くなった。何一つ愉快でなくなった。それらの幸せ

  • 貧しき「文化の思想」 - 仮想算術の世界

    このあいだから『リトバス』について何度か触れている。だが、僕としては、どれだけ言葉を弄しても何かどうしようもない苛立ちを感じて仕方がなかった(まぁパソコンともども暑気にやられていたから……というのも否定しない)。実際、『リトバス』という作品は、麻枝准年来の「反転」の小細工だけで成り立っているところがある。確かにそこにはある種の状況介入的なものもあって面白いのだが、他方で、それをどうしようもなく安易ではないか、と思ってしまう自分もいる。だからこそ、しつこく書かざるをえなかったというのが正確だ。 その理由はあるていどはっきりしている。以前からこのブログでは、ゲームと構造主義の類縁性について触れている。簡単に言えば、ゲームというのは(もっとも抽象的に定義するならば)「変換のシステム」であり、構造もまた同じなのだ。しかし、この点については前々からひとつの問題があった。それはゲームの無意味な「変換

  • Kanon問題[2009-2010]

    なしお @nasio http://d.hatena.ne.jp/ke_ta/20091128/1259393620 これの『プレイヤーキャラクター試論』が気になるなあ。ラノベに興味ないから買っても他に見るとこないという問題があるけど。 2009-11-29 23:43:49 なしお @nasio >私たちはゲームをプレイしている際、主人公に感情移入、あるいは同一化しているのだとよく言います。しかしそれは自明なことでしょうか? これは良い問い。まあ、エロゲやギャルゲで云われている感情移入や同一化は、最早もともとの(精神分析とか心理学)と離れた個別用語になってるけど 2009-11-29 23:47:04

    Kanon問題[2009-2010]
    tukinoha
    tukinoha 2010/05/10
    ああ、そういう話だったんだ。
  • Overflow OFFICIAL WEB SITE メイザーズぬまきち 講演会のお知らせ

    日時 2010年5月30日(日) 午後2時~午後4時(開場:午後1時) (終了しました) 場所 東京大学郷キャンパス 工81講義室(工学部8号館) 主催 コンテンツゼミ(東京大学大学院情報学環教育部自治会自主ゼミ)/コンテンツ文化史学会学生部会 出演者 メイザーズぬまきち(ゲームクリエイター) 吉田正高(東北芸術工科大学准教授/コンテンツ文化史学会会長) 昼間たかし(ジャーナリスト) 司会 中山真太(東京大学文学部) 講演概要 美少女キャラクターを扱うコンテンツは、漫画・アニメ・ゲームの世界を超え、現代の文化に大きな影響を与えています。 東京大学大学院情報学環教育部の学生による自主活動を中心としたコンテンツゼミ/コンテンツ文化史学会学生部会では、 こうした状況を踏まえ、日独自の文化に成長したコンテンツ文化の未来を模索すべく、研究活動を重ねてきました。 今回の催しではR-18ゲームを軸に

    tukinoha
    tukinoha 2010/04/08
    行きたいなー。
  • 「CROSS†CHANNEL」「最果てのイマ」における物語可能性の取り扱いにおいての@tukinoha氏との応答

    「CROSS†CHANNEL」「最果てのイマ」における物語可能性の取り扱いについて(http://togetter.com/li/8693)をめぐり、「メシア的時間」という概念を示唆された@tukinoha氏と@crow_henmiとの応答。

    「CROSS†CHANNEL」「最果てのイマ」における物語可能性の取り扱いにおいての@tukinoha氏との応答
  • 「CROSS†CHANNEL」「最果てのイマ」における物語可能性の取り扱い

    @tukinoha氏の「最果てのイマ」論に応答しての「CROSS†CHANNEL」「最果てのイマ」両作品についてのテキスト論。選択肢型エロゲが保有する物語可能性空間の多様性を、ベンヤミンの「メシア的時間」概念と無理やり絡めて、田中ロミオがどのようにその多様性について向き合ったかについての私的メモ。

    「CROSS†CHANNEL」「最果てのイマ」における物語可能性の取り扱い
  • 『最果てのイマ』論(5)―異質性という絆 - tukinohaの絶対ブログ領域

    最果てのイマ 出版社/メーカー: ザウス【純米】メディア: CD-ROM購入: 4人 クリック: 172回この商品を含むブログ (42件) を見る(承前) 「私」は傷つきやすく、他者とのコミュニケーションの主体として成立しようとした瞬間に、ほころび始めてしまう。私にとっての他者もまた、つねに・すでに傷ついており、私はそれをどうすることもできない。この可傷性を我々が互いに抱えているということこそが、人間の共同性について、主体として自立した個人から出発し、個人を越える何らかの実体として構想することを断念させるのである。 可傷性が人と人の間に隔たりをもたらしている。しかし、次のように考えることもできるだろう。私たちは互いを隔てる「間」によって切り離されているのではなく、むしろ、何の関係性も持たなかったかもしれない人々が、「間」の存在によって繋がったのかもしれない、と。私たちが可傷性によって隔てら

    『最果てのイマ』論(5)―異質性という絆 - tukinohaの絶対ブログ領域
  • 『最果てのイマ』論(4)―トラウマをめぐって - tukinoha’s blog

    最果てのイマ 出版社/メーカー: ザウス【純米】メディア: CD-ROM購入: 4人 クリック: 172回この商品を含むブログ (42件) を見る(承前) デリダの言うように他者を「歓待」することが、他者を言語の通じない異邦人、狂人とみなすことから出発するのだとすれば、言語を用いて他者とコミュニケーションを行うということの実体について考え直してみる必要があるだろう。そもそも他者を唯一的・単独的な存在として扱うという「歓待」の趣旨からすれば、反復によって意味をもつ言語は、他者の唯一性を表現することができないのではないか。言語は常に「かつて誰かが使ったもの」であり、置き換えを拒むどのような経験であっても、一般的な言語としてのみ語ることができるのではないか。他者と言語についてはこのような問題が考えられるわけだが、まずはそれに対して時間的に先立つ事柄として、言語の「呼びかけ」的側面について考えてみ

    『最果てのイマ』論(4)―トラウマをめぐって - tukinoha’s blog
  • Pasteltown Network Annex  CROSS†CHANNEL ネタバレゲームインプレッション

    CROSS†CHANNEL ネタバレゲームインプレッション Original Created 2003/12/27 Last Update 2004/01/12 おねがい このページは、CROSS†CHANNEL のネタバレありのゲームインプレッションです。このため、ゲームをコンプリートした上でお読み頂ければ幸いです。よろしくお願いします。 ※直リンクから飛ばれてきた方々はトップページはこちらになります。よろしければどうぞお立ち寄りください。 はじめに 通常、私は作品設定の詳細解釈をベースとして作品を読み解いていくことが多いのですが、作については基的には設定の詳細解釈は行いません。むしろ大きな視点でざっくりと作品を捉えることにより、作品からのメッセージと作品構造の関係を読み解いていきたいと思います。これは以下の理由によります。 この作品の場合、設定の詳細解釈、あるいは矛盾のない作品解釈

  • エロゲの選択肢――決定の不可能性について 【 なすところをしらざればなり 】

    なすところをしらざればなりFOR I KNOW NOT WHAT I DO むかし別のところに書いた文章なんだけど、自己参照したいのでこっちにも移植。見たことあるぜ~という方がいらっしゃったらどうもその節はお世話になりました。またあったね!とご挨拶を。一応ベースが『てとてトライオン』の感想になってます。ごく僅かなネタバレはあるかも。 ■選択肢――決定の不可能性について 主体が誰であり何であるかは前もって決まっていると考えれば、決定というものは存在しないと言いたい。言い換えますと、決定というものがあるとすれば、決定は誰や何かを前もって不可能にするとは言わないまでも中立化するに違いありません。誰であり何であるかがわかっていて、それを知っている者が主体だとすれば、決定は、単なる法則の適用にすぎません。言い換えれば、決定があれば、決定の主体はまだ存在せず、決定の対象も存在していないのです。 『てと

  • 『最果てのイマ』論(3)―社会変革の可能性 - tukinoha’s blog

    最果てのイマ 出版社/メーカー: ザウス【純米】メディア: CD-ROM購入: 4人 クリック: 172回この商品を含むブログ (42件) を見る(承前) このシリーズは「思いついたことをその都度書く」という確固とした方針に基づいて書いているので、少し脱線して、今回は田中ロミオという作家の現代性についての話から始めてみよう。 田中ロミオの描く「イマ」とは、いったいどのような時代なのだろうか。相互扶助計画『家族計画』――何らかの形で挫折を経験した人々が集まり、再出発を果たすまでを描くこの作品では、しかし、計画そのものは失敗する。また、5つの物語を終えたとき、それぞれのヒロインが抱える問題は、半分程度しか解決していない場合もある。マフィア、売春、借金、虐待といったものに関連するエピソードは、読者に「現実は厳しい」という以上の印象を与えることはないだろう。『CROSS†CHANNEL』――この作

    『最果てのイマ』論(3)―社会変革の可能性 - tukinoha’s blog
  • 『最果てのイマ』論(2)―否定としての他者 - tukinoha’s blog

    最果てのイマ 出版社/メーカー: ザウス【純米】メディア: CD-ROM購入: 4人 クリック: 172回この商品を含むブログ (42件) を見る(承前) 『イマ』の主要なテーマが(エピローグで主人公自身が語っているように)他者の問題であることは間違いない。だが、そもそも他者とは誰のことなのだろうか。この場合、私ではない誰か、という定義では不十分である。『CROSS†CHANNEL』においても語られているように、それは共依存、抑圧、投射といった関係から区別されなくてはならない。かといって、私と精神的な繋がりを持たないのが他者、というわけでもない。太一や忍がくり返し述べているように、他者との接触だけが私の心を育ててくれる。つまり、他者を所有することはできないが、他者を享受することはできるのである。逆に言えば、私は他者に対して受動的な存在とされている。 他者とは決して所有できないがゆえに、無限

    『最果てのイマ』論(2)―否定としての他者 - tukinoha’s blog
  • 『最果てのイマ』論(1)―ためらいながら、他者を語る - tukinoha’s blog

    最果てのイマ 出版社/メーカー: ザウス【純米】メディア: CD-ROM購入: 4人 クリック: 172回この商品を含むブログ (42件) を見るブログの編集画面を開きながら、さて『最果てのイマ』について何を書こうかと考えている自分が酷く滑稽に思える。この作品を読まれた方ならわかるだろうが、ハイパーリンクが大量に埋め込まれた「はてなダイアリー」で『イマ』について書くというのは、それ自体がパロディのようなものである。私は批評をやりたいと思うが、それによって作品のオリジナルの意味に到達することは決してできない。どれだけ作品の意味を正確に捉えようと思っても、どこかにズレを抱えてしまう。これから書くことはあくまでもパロディなのだ。 しかし、それはテクストが多義的だからではない。例えばジャック・デリダの脱構築は、テクストの決定不能性を定式化したものと考えられがちであるが、デリダ自身が強調しているよう

    『最果てのイマ』論(1)―ためらいながら、他者を語る - tukinoha’s blog
  • ★★『最果てのイマ』試論(完) - 仮想算術の世界

    ここまで記してきたように、僕たちはさしあたり二種類のメタテキストを区別することができる。ひとつは神話の言葉、すなわち世界に内在する構造を発色させるマーカーのような言葉である。ここでは、ドゥルーズ『消尽したもの』の概念を借りて、前回同様それを「言語Ⅰ」と呼ぶことにしよう。この場合、言葉は現実の対象と結びついているわけではない。したがって、リアリズムの言語ではない。そのかわりに言語Ⅰは、見逃されがちな構造を発見するヒューリスティックな性質を濃密に帯びている。しかも、言語Ⅰは必ずしも狭義の「言語」に限定されるわけでもない。 たとえば、現代のアートで使われる記号は、その性質において限りなくこの「言語Ⅰ」に近づいている。デュシャンやケージは、美術や音楽の記号がこれまでアートとは見なされてこなかった対象とこそ親密な関係を築きうること、あるいは否応なく築かざるをえないことを示してきた。しかし、それは往

  • 『最果てのイマ』試論(3) - 仮想算術の世界

    夏目漱石のいくつかの小説の文体は、視点を二重化すること、つまりオブジェクトレベルの視点とメタレベルの視点を巧みに同期させることで成立する。したがって、それは三人称の超越的な視点でもないし、当事者の視点だけを純粋化するものでもない。柄谷行人はその特殊な文章を「写生文」と呼んだが、僕の造語でいけば、写生文とは《構造的感受性》を備えた文章だと言い換えることができる。そこでは、構造は徐々に、あるいは予期せぬかたちで与えられるしかない。そして、構造が一度に成立しないところでは、意味はしばしば遅れてやってくる。漱石の小説の「唐突さ」にある種の合理性があるとしたら、それはテクストの一部分に蓄えられた未完の構造、すなわち《仮想的構造》が時宜を得ないうちにいきなり発動しはじめるからに他ならない。それは写生文の性質に基づいている。詳しい分析は省くが、おそらくは『それから』や『道草』といった作品にそういうヴァー

  • 『最果てのイマ』試論(2) - 仮想算術の世界

    心に実体的な記述を与えるということは、パフォーマティヴなものをコンスタティヴに読み替えることを意味する。しかし、実際にはそれは虚構なので、毎回異なる解釈がそのつどの時代に流布することになる。心はそういうコンスタティヴな記述によってかりそめに定着させられる。ここには、一種の倒錯がある。たとえば、心は物理的事象に還元できると強硬に主張する論者(最近ではジェグォン・キムのように)は、まさにその振る舞いによって「心」に宿るパフォーマティヴなものを露わにしてしまっている。心が物理の結果にすぎないのならば、そもそも最初から心について何も語らなければいいのに、彼らはかたくなに心というものの実在を還元論的に証明しようとする。その所作には、心の科学的証明とは別の、つまりはコミュニケーション論や言語行為論で語られるべき問題が根づいている。心とは、まずはコミュニケーションの成立条件のひとつなのだ。あるいは、ひと

  • 『最果てのイマ』試論(1) - 仮想算術の世界

    ずっとやりそびれていた『最果てのイマ』(Xuse)をようやくクリア。前々回のエントリーでは傑作と書きましたが、これはなんというか、「怪作」。 …というわけで、いくつか考察サイトを回ってみると、細かいつじつまをきちんと読み解いているサイトがけっこうあって驚く。正直いって、この作品の複雑に入り組んだ構造をぜんぶ脈絡をつけて理解できたわけではなかったので、確かにいろいろ参考にはなった。とはいえ質的な問題は、つじつまがあうか否かというよりも、作品全体が語りかけてくる「何か」なのであって、もちろん細かい詮索もあっていいが、それだけでは大樹を見失うおそれがある。確かに「謎解き」の欲望をかきたてる作品だし、あるいはよく言われるように田中ロミオ氏の文体も一級品だが、そこだけ見てわかった気になるのはつまらない。 もっともこの作品の真価は、ある意味では、「大樹」以上にむしろいわば「枝葉」の部分、つまりふ

  • under green flag: 物語とシステムの狭間で――JRPGという群像

    エリオ・カストロネベスの敗北は、最後に現れた讃えられるべき真実となった:2013年インディカー・シリーズ第19戦 フォンタナMAVTV500 (10/08)ついに下された罰によって閉幕は彩られる:2013インディカー・シリーズ第17&18戦 ヒューストン・グランプリ (09/06)頽廃のエリオ・カストロネベスはシモン・パジェノーの後ろ姿を知っただろうか:2013インディカー・シリーズ第16戦 ボルティモア・グランプリ (08/29)当の被害者はきっとウィル・パワーだった:2013インディカー・シリーズ第15戦 ソノマグランプリ (08/13)選手権を担わないチャーリー・キンボールが解いた硬直:2013インディカー・シリーズ第14戦 ミッドオハイオ・インディ200 (07/18)気がつけばスコット・ディクソンは帰ってくる:2013年インディカー・シリーズ第12&13戦 インディ・トロント

    tukinoha
    tukinoha 2010/01/11
    AIシステムと物語・固有名を背負ったキャラクタの自立、それによる物語性の強化とゲーム性との間に生じる亀裂について。