人物とcinemaに関するurbanseaのブックマーク (149)

  • 西村潔 - Wikipedia

    東京都立立川高等学校に通い、在日米軍の横田飛行場でアルバイトをしながら映画浸りの日々を送った後、一橋大学へ入学。同級生には石原慎太郎がいた。 1956年、大学を卒業後、東宝へ入社。千葉泰樹・黒澤明・堀川弘通・成瀬巳喜男・多猪四郎・川島雄三・須川栄三・古澤憲吾・恩地日出夫らの助監督を経て、1969年、密室の人間群像を緊迫したサスペンスとして描いた黒沢年男主演のアクションスリラー『死ぬにはまだ早い』で監督に昇進。続く『白昼の襲撃』、『豹(ジャガー)は走った』(1970年)とともにその才気が注目され、東宝では異色のアクション監督の誕生と期待された。 千葉真一は西村とテレビドラマ『燃える捜査網』(1975年 - 1976年)[1]、『大非常線』(1976年)[2]、テレビ映画『東京大地震マグニチュード8.1』(1980年)と自身の主演作品でタッグを組んでおり、「(西村の)都会的でハードボイルドな

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    urbansea 2009/04/13
    93年11月17日、神奈川県葉山の海岸で溺死体で発見、捜査当局は自殺と断定。61歳 一橋大学で石原慎太郎と同級生 「夏服のイヴ」は西村潔だった。
  • 独自の脚本 キャラクターを生かす 映画「全然大丈夫」藤田容介監督インタビュー (1/3ページ) - MSN産経ニュース

    「原作と監督の哲学とが合致していないものが多い。こういうキャラクターを出せば売れる、というもくろみが見えてしまったり。だから、違和感があるんでしょうね。原作と監督の哲学が合致していない作品には、登場人物に共感も反発も生まれませんよ」と語る藤田容介監督(山田俊介撮影) 昔、小説映画化されるなんてと聞くと、ワクワクしたものだ。それがいつからだろうか。原作ものの映画と聞くと、ため息が出るようになったのは…。もう、飽きてしまった。それほどゲンサクモノが映像界にあふれている。そんななか、「オリジナルでアピールしたい」と長編映画界に監督デビューしたのが藤田容介(ふじた・ようすけ)。志高く、燃えている。(堀口葉子) 東京・赤坂。天気予報は雪。冷え切った空の下、白い息を吐きながら、こちらに駆けて来る男性がいる。 藤田容介、44歳。映画監督。長編初監督ながら、オリジナル脚で挑んだ映画「全然大丈夫」を引

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    urbansea 2009/04/09
    旧藤田秀幸 10年前と顔が変わっていない。
  • サービス終了のお知らせ

    サービス終了のお知らせ いつもYahoo! JAPANのサービスをご利用いただき誠にありがとうございます。 お客様がアクセスされたサービスは日までにサービスを終了いたしました。 今後ともYahoo! JAPANのサービスをご愛顧くださいますよう、よろしくお願いいたします。

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    urbansea 2009/03/17
    いするぎさぶろう ピンク映画を見始めた頃に、よく覗いた。10年以上前の話
  • フランシス・ローレンス - Wikipedia

    1971年3月26日[1]、オーストリアのウィーンに生まれる[2]。両親はアメリカ人である[3]。3歳の頃、カリフォルニア州ロサンゼルスへ移り住む[2]。ロヨラ・メリーマウント大学を卒業した[4]。 ブリトニー・スピアーズやレディー・ガガ、ジャスティン・ティンバーレイク、ビヨンセ、ブラック・アイド・ピーズなどのミュージック・ビデオを監督した[5]。 2005年、キアヌ・リーブス主演の『コンスタンティン』で映画監督デビューを果たす[6]。2007年、ウィル・スミス主演の『アイ・アム・レジェンド』を監督した[7]。ロバート・パティンソン、リース・ウィザースプーン、クリストフ・ヴァルツを主演に迎えた監督作品『恋人たちのパレード』は2011年に公開された[8]。 その後、『ハンガー・ゲーム2』と『ハンガー・ゲーム FINAL: レジスタンス』、『ハンガー・ゲーム FINAL: レボリューション』を

    フランシス・ローレンス - Wikipedia
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    urbansea 2009/03/15
    このひとのテレシネ素材、見たことがあるが、相当よかった。 アヴリル・ラヴィーン「Sk8er Boi」(2002)、こういうのも撮れる器用さ
  • サービス終了のお知らせ - goo映画

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    urbansea 2009/03/15
    「ストーカー」のプロデューサー 03年でフィルモグラフィーが止まっている ロマネクも「ストーカー」撮っただけ
  • 相米慎二 - Wikipedia

    相米 慎二 (そうまい しんじ、1948年1月13日 - 2001年9月9日)は、日映画監督。 岩手県盛岡市生まれ[2]、北海道育ち[2](籍地は青森県[2])。北海道釧路江南高等学校卒業[2][3]、中央大学文学部中退[2]。 経歴[編集] 1948年1月13日、盛岡市で生まれた[2][4]。父親の転勤で6歳の時に北海道標茶町に移り住んだ[2]、1958年に父親を失う[2]。その後も道内で転居が重なり、小学校5年の時に札幌市[2]、中学3年の時に釧路市に移る[2]。北海道釧路江南高等学校を卒業し、中央大学文学部に進学[2]、大学時代は日革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日支部)に所属して三里塚闘争に参加していた[5]。大学時代の友人によれば、相米は高校生時代からの正真正銘のトロツキストであった。三里塚闘争では現地闘争部を指揮したが、相米が闘争を離脱後、その後任者が強

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    urbansea 2009/03/10
    中央大学で第四インターの三里塚現闘団員 → 日活で助監 01年9月9日肺ガンで死去、53歳
  • 高木功とは 映画の人気・最新記事を集めました - はてな

  • 高木功と滝田洋二郎 - 北小路ゲバ子の恋

    滝田洋二郎が米国のアカデミー賞外国語映画賞を受賞したが、その滝田のピンク映画時代に多くの脚を書いたのが高木功である。この高木功、奇しくも「おくりびと」同様に葬儀に関わっていたようなので、それも含めて高木功についてまとめた。 高木功と滝田洋二郎 滝田洋二郎の「コミック雑誌なんかいらない」(86)もNCPの作品。これは滝田にとって初めての一般映画であり、同時にピンク映画でコンビを組み続けた脚家・高木功との唯一の一般映画となる。ピンク映画自体、滝田は86年いっぱいで足を洗い、以降「愛しのハーフ・ムーン」を経てフジテレビ出資・一色伸幸脚の「木村家の人びと」「病院へ行こう」etcを撮っていく。この過程で"「痴漢電車」シリーズの滝田"を払拭していき、やがては予算規模の大きな映画を任せられるようになる。 (当ブログ「櫻の園 / コミック雑誌なんかいらない / NCP」2008-11-06) ふたり

    高木功と滝田洋二郎 - 北小路ゲバ子の恋
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    urbansea 2009/02/25
    高木功のバイトの話、08年のエントリに「20年以上前」とある
  • ゲイリー芦屋 - Wikipedia

    幼少の頃からクラシックピアノのレッスンを受けて育つ。中学生時代はYMO、高校生時代はバート・バカラックなどに影響を受け、大学時代はビッグバンドジャズオーケストラに参加して活動すると共にジャズとクラシック双方の理論を学び、打ち込みによる作曲・編曲を始める。1990年より職業作曲家として独立。映画の劇伴やテレビ番組、CM、コンピュータゲームなど、多岐にわたるテーマ音楽の作曲家・編曲家として活動する一方で、岸野雄一との音楽ユニット「ヒゲの未亡人」にて海外ツアーを行う。イギリスの音楽家Max Tundraと共演など近年は海外音楽家との交流も盛んである。2015年、担当した映画音楽をコンパイルしたソロアルバム「ウラムの螺旋」リリース。 1997年 暗殺の街(中田秀夫監督) 1998年 冷血の罠(瀬々敬久監督) CURE(黒沢清監督) 1999年 ニンゲン合格(黒沢清監督) 2000年 カリスマ(黒

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    urbansea 2009/02/11
    冷水ひとみと同じマニュアル・オブ・エラーズ
  • 安川午朗 - Wikipedia

    東京芸術大学音楽学部作曲科中退。在学中からスタジオ・ミュージシャンとして活動し、1989年頃の石井隆との出会いから、映像作品の音楽を手掛けるようになる[1]。主に実写の日映画音楽を手がけており、石井隆のほとんどの映画作品の音楽を担当しているほか、瀬々敬久、平山秀幸の作品も多い。 長石多可男監督の推挽を得て、『超光戦士シャンゼリオン』で初の特撮番組を担当した。同番組への思い入れは強いようで、放送当時に発売された玩具のほとんどを個人的に購入したという[2]。しかし、癖のある作品だったため、音楽も一筋縄ではいかないものを要求されることになり、苦労したとのこと。そのためか、打ち上げの席で「いつかリベンジしたい」と語っており[3]、『仮面ライダー THE FIRST』でそれを果たすことになった。 2012年、映画『八日目の蝉』の音楽で第35回日アカデミー賞最優秀音楽賞を受賞した[4]。 第35

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    urbansea 2009/02/11
    90年代以降の石井隆 瀬々敬久+井土紀州のピンク
  • シネマコリア|韓国映画情報 >> 監督・スタッフ >> キム・ヒョング

    『グリーンフィッシュ』、『八月のクリスマス』の名撮影監督ユ・ヨンギル亡き後、最も注目すべき撮影監督の一人。ありとあらゆる撮影法を駆使することで知られ、作品によって全くタイプの異なる映像を作り上げる。例えば、『ビート』、『太陽はない』では、ウォン・カーウァイ作品ばりの動的な映像を、『スプリング・イン・ホームタウン』では、ロング・テーク、ロング・ショットを多用し静的な映像を生み出している。 1960年、京畿道生まれ。中学生の頃、幼い頃から機械好きだったキム・ヒョングに父親がキャノンのカメラを買い与えたのが、「カメラ」との出会いだったという。1987年に中央大学写真学科を卒業。大学の映画サークルで映画製作の面白さを知り、卒業後、映画アカデミー4期に入り、映画作りを学ぶ(1988年卒)。その後、映画界に入門し、『成功時代』、『チルスとマンス』、『ギャグマン』の撮影助手を担当。同作の撮影監督ユ・ヨン

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    urbansea 2009/02/07
    「ペパーミントキャンディ」のカメラマン このひとが米国に留学し、DOPを韓国に持ち込んだ模様(それ以前は日本同様に撮影部・照明部)
  • シネマコリア|韓国映画情報 >> 『ペパーミント・キャンディー』イ・チャンドン監督インタビュー(抜粋)

    編集部 今日は『ペパーミント・キャンディー』についていろいろとお話しを伺いたいと思っています。よろしくお願いします。 イ・チャンドン監督(以下イ監督) こちらこそよろしくお願いします。 編集部 まず最初に、この映画は、40才の主人公キム・ヨンホの人生を20才まで遡っていくという斬新な手法をとっていますが、どこからこういう発想が生まれたのですか? イ監督 当にふとしたきっかけだったんですが、ある朝ひげを剃っていたときに、鏡に映った自分が変わっていることに気がつきました。それで、愕然としたんです。そして突然、自分のことを判っていたときに戻れないものかと考えました。現実的には時間を戻すことは、とうてい叶わない望みですから、映画の中でそれを叶えたいと思ったんです。 編集部 この映画では、何を表現しようと思いましたか? イ監督 過ぎた人生の中で一番大切なものは何か? それを言葉で表現することは難し

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    urbansea 2009/02/07
    光州事件(25歳) >>この絶望感がのちの私の人生を支配すると思いました。ああいった政権が生まれて支持をされるという社会システム、人に対する不信感。純粋な自分には理解することができないほどの絶望感でした。
  • イ・チャンドン - Wikipedia

    1954年4月1日、韓国慶尚北道大邱市(現・大邱広域市)で生まれる[1]。1970年代後半から民主化運動の中心的存在として活動した。1980年に慶北大学校師範学部国語教育学科韓国文学部を卒業。その後、1981年から1987年まで教師生活を送っていた。また、1987年には小説『戦利』を発表。同作で東亜日報新春文芸賞を受賞した。 1993年に『그 섬에 가고 싶다』の脚を執筆し、映画界に進出。1997年に長編『グリーンフィッシュ』で映画監督としてデビューした。1999年の『ペパーミント・キャンディー』は国内で一部の熱狂的なファンを生んだ[4]。海外でも翌2000年の第53回カンヌ国際映画祭の監督週間部門に出品され、カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭とブラチスラバ国際映画祭では審査員特別賞を受賞した[5]。 2002年の『オアシス』は第59回ヴェネツィア国際映画祭のコンペティション部門に出品され、銀

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    urbansea 2009/02/07
    教師→小説家→映画
  • キム・ギドク - Wikipedia

    キム・ギドク (金 基德、김기덕、1960年12月20日 - 2020年12月11日) は、韓国映画監督、脚家、映画プロデューサー。 なお、『大怪獣ヨンガリ』(1967年)などで知られる映画監督のキム・ギドク(朝鮮語版)とは同姓同名の別人である。 慶尚北道奉化郡生まれ[3]。17歳から工場で働き始め、20歳で海兵隊に志願。5年間を軍隊で過ごし、周囲から軍人体質と言われるほど軍隊生活に適応していた。1990年、絵画の勉強のためにフランスへ渡った[4]。パリで観たジョナサン・デミの『羊たちの沈黙』(1991年)やレオス・カラックスの『ポンヌフの恋人』(1991年)に感銘を受け、映像表現を志すようになり[4]、帰国後、脚の執筆に没頭する。1996年、低予算映画『鰐〜ワニ〜』で映画監督としてデビューした。 2000年の『魚と寝る女』と2001年の『受取人不明』がヴェネツィア国際映画祭のコンペ

    キム・ギドク - Wikipedia
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    urbansea 2009/02/06
    17…工員 20~25…軍隊 30…画の勉強のため渡仏 36…「鰐」でデビュー 40…「魚と寝る女」 41…「悪い男」 44…「サマリア」でベルリン映画祭銀熊賞、「うつせみ」でヴェネチア映画祭銀獅子賞
  • Amazon.co.jp: 衣裳術: 北村道子: 本

    Amazon.co.jp: 衣裳術: 北村道子: 本
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    urbansea 2009/02/03
    「それから」は松田優作の指名(スタイリスト3年目) 美術の佐々木尚さんがプロダクション・アートの一部としてコスチュームが入っていると考える人で、北村道子と仕事(塚本晋也「双生児」etc) 
  • 男の異業種転職ウェブメディア-OREPICA-

    男の異業種転職メディア「OREPICA(オレピカ)」は、未経験だけど今と異なる業界に転職を考えている人向けの転職情報メディアです。 「今と違う業界に転職したい」「自分のスキルで活躍できる業界はどこか」など、新しい未来へ踏み出すきっかけとなるメディアを目指します。

    男の異業種転職ウェブメディア-OREPICA-
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    urbansea 2008/12/19
    パコの美術について 窓抜けの空は後処理でなくスタジオでの書き割り / ナカテツらしい >>(現場で持つ物)中島監督にもらった犬のフィギュア(本人の手書きコメント付き。フレーズは「それでいいのか?」)
  • 浦岡さん - do-do

    浦岡敬一さんが逝ってしまった。 覚悟していた事とはいえ、悲しい。 浦岡さんは、数多くの映画の編集を手がけ、17歳で初めてお会いして以来、多くの事を教えてくれた人だ。 浦岡さんは、祖母の関係の親戚だったのだ。 小林正樹監督『東京裁判』、今村昌平監督『復讐するは我にあり』、それから『愛のコリーダ』『儀式』をはじめとする大島渚監督の数々の作品…。 そう言えば、かつて浦岡さんに、これまでのどの作品が自分では気に入っているのか、と聞いた事があった。 その時の答えは、大島渚監督の『東京戦争戦後秘話』であった。 これまで組んだ映画音楽の作曲家で一番肌合いがあう作曲家は?という問いには、即座に武満徹という答えが返って来た。 自分も下田の出身で、武満さんの水の流れを感じさせる音楽が、自分の編集と肌合いがあうとおっしゃっていた。 もちろん大島監督の作品でも浦岡さんと武満さんは組んでいるのだが、中村登監督の『紀

    浦岡さん - do-do
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    urbansea 2008/11/27
    浦岡敬一逝去(11-24) ご親戚のエントリ >>かつて浦岡さんに、これまでのどの作品が自分では気に入っているのか、と聞いた事があった。その時の答えは、大島渚監督の『東京戦争戦後秘話』であった。
  • 映画が足りない-いつか見たヒバゴン

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    urbansea 2008/11/17
    高木功 >>高木さんは、僕が3年ほどやったバイト先の先輩でした。シナリオや小説だけでは生活できないので、高木さんもバイトをしていて、それが「葬儀用の故人追悼テープのナレーション原稿書き」だったのです。
  • ダーティ工藤とは 映画の人気・最新記事を集めました - はてな

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    urbansea 2008/11/07
    この人の名画座通いの話を昔、アップリンクで聴いたけど、めちゃくちゃ面白かった >>19歳で上京、文芸座・並木座・大塚名画座・フィルムセンターなどで邦画・洋画問わず新旧の映画を浴びるように観まくる
  • JVIG_役員_岡田

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    urbansea 2008/10/22
    日活に助監督として入社 81年にNCP 89年アルゴ