以心 崇伝(いしん すうでん、永禄12年〈1569年〉- 寛永10年1月20日〈1633年2月28日〉)は、安土桃山時代から江戸時代の臨済宗の僧。字は以心、法名が崇伝で、南禅寺金地院に住したため、金地院崇伝(こんちいん すうでん)とも呼ばれる。本光国師の称は、寛永3年(1626年)に後水尾天皇の師となり授けられたもの。俗姓は一色氏。徳川家康のもとで江戸幕府の法律の立案・外交・宗教統制を一手に引き受け、江戸時代の礎を作ったとされる[1]。その権勢から「黒衣の宰相」の異名を取った。 起草した武家諸法度は老中以下諸大名の前で崇伝により布告された。徳川家光、徳川忠長の諱は崇伝により名付けられた。 生涯[編集] 永禄12年(1569年)、室町幕府幕臣の一色秀勝の次男として京都に生まれた[2]。 名門の出身で足利将軍家の側近として将来を約束されていたが、元亀4年(1573年)足利義昭が織田信長に追放さ
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