![ハロルド・ローゼンバーグ(1959→1965)『新しいものの伝統』 東野芳明・中屋健一訳、紀伊国屋書店 - Amazon](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/9facef1f6f7b50b4361b051d5c24637a36642fdf/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fm.media-amazon.com%2Fimages%2FI%2F51RMS4b4NJL._SL500_.jpg)
「エンドレスエイト」について細かく説明する必要はないだろうが、要するに「ループもの」の作品として同じエピソードを(演出を変えながら)毎週繰り返し放送しているわけである。作画オタクは作画監督ごとの個性について、演出オタクは「今週の絵コンテは〜だった」という話題について盛り上がる一方、(管見の限りでは)大半の視聴者は「同じことの繰り返しだ」として退屈を感じている、というのが現状である。 ただ、crow_henmi氏が既に書いているように、極めて純粋な「ループもの」であるためにかえって大多数の「ループもの」とは区別される奇妙な作品となっている、という逆説的な事態については、まだ十分な考察がなされているとは言えないだろう。そこでこの記事ではジル・ドゥルーズ『差異と反復』を手がかりに、「反復すること」と「ループすること」の間にある微妙な違い、そしてそれぞれの成立要件について見ていきたい。それによって
今期の「涼宮ハルヒの憂鬱」においては、原作では1話で済んだ「エンドレスエイト」をループ構造の作品として延々繰り返しているのだが、これはいわゆる「ループもの」の作品とかなり違う文脈で描かれている珍しい例なので、少し論じてみたい。 一般にループものと呼ばれる作品が、実際に同じシークエンスをループすることは余りない。むしろ「ループしている」という状況を、さまざまなベクトルから描きつつ一本のシリアルなストーリーラインに落とし込むか、ループという状況によって多数化された物語の上にメタフィクション構造を積み上げ、そのメタ部分をメインラインとして、やはりシリアルなストーリーラインが組まれることが多い。 たとえば、前者の代表的な作品である「うる星やつら2/ビューティフル・ドリーマー」(正確にはその前半部)においては、登場人物たちそれぞれがループの奇妙さに気付き、それを打破しようとしてさらに混乱していくとい
1 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2009/07/22(水) 19:31:36.74 ID:sYBXoPIq0 少佐「エンドレスエイト?バトーお前知ってるか?」 バトー「いいや、俺も知らねーな。さては新手のテログループか何かかい?」 トグサ「いいや、こいつはテロ組織じゃない。アニメのタイトルだ」 少佐「アニメ?」 荒巻「そうだ。京都アニメーションで製作された『涼宮ハルヒの憂鬱』… そのアニメの中で放映された話の一つがエンドレスエイトだ」 バトー「おいおい、課長までアニメを見てるとは!九課もヤバイんじゃねーの?」 トグサ「もしそいつが社会を揺るがす事件だとしたら…?」 少佐「事件?どういうことだ、トグサ?」 荒巻「エンドレスエイト事件…それが今回の我々の仕事だ」 2 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2009/07/22(水) 19:32:17.2
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