藤木久志さん(ふじき・ひさし=立教大学名誉教授・日本中世史)28日、敗血症で死去、85歳。葬儀は10月3日午前10時30分から神奈川県鎌倉市大船2の17の15の鎌倉ファミリーホールで。喪主は妻香代子…
福井市朝宮町の丘陵に、古代の北陸では最大級の山林寺院跡があることが2日までに、日本考古学協会の埋蔵文化財保護対策委員古川登さん(58)=同市=の調査で明らかになった。遺物などから奈良時代末~平安時代前半の寺院とみられ、東側の尾根上に大小20面以上の平たん面が見つかった。白山信仰との関係もうかがえ、注目を集めそうだ。 この丘陵(標高約130メートル)は朝宮橋南側の日野川左に面し、地元集落にはかつて神社があったとの伝承が残る。古川さんが旧清水町教委職員だった2004年、近くにある中世の大型寺院・方山真光寺(かたやましんこうじ)跡に関連した調査で、丘陵東側に複数の平地があるのを確認した。字名は「大社(おおやしろ)」で、「朝宮大社遺跡」と呼ばれている。 今年4月、越前町織田文化歴史館の堀大介学芸員とともに再調査したところ、標高72メートル付近で林道の造成跡から複数の須恵器片が見つかった。8世紀末~
青森県南部町教育委員会は25日、北東北最大の戦国大名、三戸南部氏の居城だった国史跡「聖寿寺館跡」(同町小向)で、中世アイヌのシロシ(印)が施された染付皿の破片が、本州で初めて出土したと発表した。南部氏がアイヌと交渉を持ち、アイヌが聖寿寺館に住んでいた可能性が非常に高まった。本州アイヌ研究の進展に貢献するもので、南部氏の領国経営や北海道アイヌとの関係を考える上でも大きな発見だという。 見つかったのは、15世紀後半~16世紀前半に流通していた中国産の染付皿底部片(底径7.2センチ)。シロシはアイヌの所有物であることを示す印で、底部に5センチ×4.3センチの「×印」が刻まれていた。聖寿寺館に持ち込まれた染付皿を居住していた本州アイヌが入手し、シロシを施した可能性が高いという。
室町時代の中期、東西両軍が11年にわたって繰り広げた「応仁の乱」。勃発から550年の長き時を越えて、現代読書人の熱い視線を浴びている。小学校社会科教科書に載るなど誰もが知る戦乱だが、戦国時代の合戦や幕末の動乱などに比べると、今ひとつ人気がなかった。しかし、中公新書「応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱」は昨年10月の発売以来、硬派な歴史新書としては異例の12刷・13万部を売り上げるベストセラーになっている。著者の呉座(ござ)勇一さん(36)と版元の中央公論新社にヒットの理由を聞くと、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)と新聞広告など新旧メディアの特性を生かした販売戦略にコアな歴史ファンが反応、多くの一般読者の関心を集めるまでに支持を広げたことが分かった。【大村健一/デジタル報道センター】
ユネスコの記憶遺産(世界記憶遺産)に、東寺百合文書が認定された。 www.asahi.com 日本のものが認定されてうれしいという以上に、東寺百合文書を保存し、整理し、公開してきたたくさんの人々、とくに所蔵している京都府立総合資料館の人々の尽力が報われたという意味で、たいへんおめでたいできごとだ。 東寺百合文書は、京都の東寺(教王護国寺)が伝えてきた、約25000通にもわたる中世文書の一大コレクションだ。加賀藩主前田綱紀が東寺に寄進した約100箱の桐箱に保管されていたことから、この名前がついている。東寺が伝えてきた中世文書(広義の東寺文書)は、おもに東寺(狭義の東寺文書)、京都府立総合資料館(東寺百合文書)、京都大学(教王護国寺文書)の3ヶ所に分かれて所蔵されている。そのうち、量的にもっとも多い府立総合資料館蔵の東寺百合文書が、今回ユネスコの認定を受けた。 マスコミでの報道では「寺院経営の
2014(平成26)年4月23日正午から、東寺百合文WEBの第2次公開を開始しました。 今回、約36,000画像を追加して、東寺百合文書全点の画像をWEBに掲載するとともに、スマートフォン対応画面や、年表・地図などからも資料を楽しむことができるようになりました。 地図から→全国に展開する東寺の荘園やそこを舞台とした資料にたどりつけます。 年表から→年表形式で当時の動きを参照しながら個々の資料にたどりつけます。 テキスト→資料の読みを示したテキストを資料画面から表示。 スマートフォン対応画面→スマートフォン環境に即したトップ画面などを構築。 ガイド表示→「百合百話」「テキスト」が準備されている文書にはボタンで表示。
【藤井裕介】文部科学省は19日、歴史的に貴重な文書や絵画を対象としたユネスコの「世界記憶遺産」に、400年前に仙台藩主の伊達政宗がスペインなどに派遣した使節に関する「慶長遣欧使節関係資料」と、平安時代の貴族・藤原道長の日記「御堂関白記」が登録されることになったと発表した。国内からは、2011年の「山本作兵衛炭坑記録画・記録文書」に次ぐ登録となる。 韓国の光州市で18日から開かれていた国際諮問委員会が、54カ国の政府などが推薦した84件の候補から新たに登録するものを審査。その結果を受けて、ユネスコ事務局長が決定した。 「慶長遣欧使節関係資料」は、日本とスペイン両政府が共同でユネスコに推薦した。日本側の資料は、1613年に伊達政宗が派遣した、仙台藩士・支倉常長(はせくらつねなが)が持ち帰ったローマ市公民権証書、常長とローマ法王パウロ5世の肖像画の計3点。証書には常長に市民権を与えるほか、貴
文部科学省は21日、ユネスコの世界記憶遺産に、1千年以上にわたって東寺(京都市)で伝承されてきた国宝の「東寺百合文書(ひゃくごうもんじょ)」を推薦すると発表した。2015年の登録を目指す。 東寺百合文書は、仏事などの寺の活動の文書や領有した荘園の記録など、奈良時代から江戸時代にかけての約2万5千通で構成。江戸時代に加賀藩主・前田綱紀から100個の箱が寄進され、保存されてきた。 続きを読むこの記事の続きをお読みいただくには、会員登録が必要です。登録申し込みログインする(会員の方) 無料会員登録はこちら朝日新聞デジタルのサービスご紹介はこちら関連記事表情さまざま作兵衛画 福岡、記憶遺産2年で企画展次々(4/12)「知覧からの手紙」333点 鹿児島、記憶遺産申請へ(3/22)ユネスコへ3千点の資料候補 京都・舞鶴引揚記念館(2/19)
武家の信仰を集めた京都府八幡(やわた)市の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)で、豊臣秀吉の子・秀頼(1593~1615)が改修した回廊(重文)の屋根瓦に金箔(きんぱく)が施されていたことが、市教委の調査でわかった。 権威の象徴とされる金箔瓦が寺社で使われるのは珍しい。改修は、関ヶ原の戦いの6年後で、市教委は「捲土重来(けんどちょうらい)を期す秀頼の意図が読み取れる」としている。 市教委によると、八幡宮に残る古い瓦を調べたところ、かつて回廊周辺などで見つかった3点の破片に金箔が付着しているのを確認。焼成具合などから、1606年に秀頼が回廊を改修した時のものとみられる。金箔瓦は城郭で多用され、織田信長が安土城(滋賀県近江八幡市)で使ったのが最初とされる。秀吉や各大名も居城に使用。権勢を示す狙いという。秀頼が改修したのは豊臣家が力を失いつつあった時期で、9年後の1615年に徳川家康に滅ぼされ
2012年02月15日08:00 なぜ平清盛は「王家の犬」ではいけないのか カテゴリNHK zarutoro さてNHK大河ドラマ「平清盛」で皇室のことを「王家」と呼称していることについて、天皇家の権威を貶めるものだと批判が巻き起こっています。 皇室を「王家」 適切なの? NHK大河「平清盛」に疑問の声 MSN産経 http://www9.nhk.or.jp/kiyomori/cast/index.html 結論から言えば、「王家」と呼称することは不適切であり、ドラマのテーマからしても避けるべきでしょう。 まず、平清盛と父の忠盛は時の最高権力者であった上皇(院、法王)の軍隊である「北面の武士」になることで力をつけていきます。 ドラマでは清盛と忠盛の会話に「王家の犬」と言う表現が頻繁に出てきますが、「王家」では誰に仕えているのかわからない上、初見の視聴者には皇室を指すことも理解しづらい。 親
来年のNHK大河ドラマ「平清盛」の時代考証に史学者の本郷和人氏が入ると聞いて、その趣向の書籍だろうと、とりあえず買ってみた。当たりだった。書籍としての構成、特に章構成はやや緩くも思えたが、随所にエキサイティングな話題がある。歴史愛好家にはたまらない一冊と言えるだろう。 本書を読み始めて何より「あっ」っと不意を突かれたのは、「平清盛」というのは天皇制の物語なのだということだ。言われてみれば当たり前でもある。親皇として表面的に対立した平将門などのほうが天皇制を外的に意識しやすいが、天皇制の内実を捉えるという点では「平清盛」はその特徴をよく表すことになる。 おそらくだが、お茶の間的にはさほど違和感なく受け入れられてしまうだろうが、天皇家を「王家」として扱うのはNHK大河ドラマでは初めてのことになる。天皇家は王家で当たり前。皇室でも「天皇」でもないのである。そういう感覚がようやく日本国市民の常識に
印刷 織田信長の肖像画(所有者長興寺・写真協力豊田市郷土資料館)親真の没年が刻まれたとされる石造物=越前町教委提供信長のルーツ 戦国武将、織田信長のルーツとされる福井県越前町の剱(つるぎ)神社付近で、信長の十数代前の先祖といわれる「親真(ちかざね)」(生没年不詳)の没年を記した墓石の銘文が確認されたと1日、町教委が発表した。親真を平清盛のひ孫とする説について、刻まれた没年と食い違うことから、信長の先祖は平氏ではなく、剱神社の神官とする説が強まったとしている。「信長平氏説」をめぐる議論に一石を投じそうだ。 町教委によると、墓石は同神社近くの法楽寺で出土した石造物233点の一部。墓の台座とみられる破片に「喪親真阿聖霊正應三年庚刀二月十九日未尅」、側面に「孝子七月吉日」と銘文が彫られていた。「親真は正応3(1290)年2月19日に死去。孝行な子どもが5カ月後の7月に建造した」と読めるという。
我々は直接に過去を知ることはできない。 人間の行動や思考が残したさまざまな痕跡を手がかりに、過去を再構成する以外にそれを知る術を持たない。 そのようにして再構成された過去を歴史といい、再編成の手がかりとした痕跡を史料という。 もとより人が残した痕跡は〈書かれたもの〉に限らないが、古文書、古記録をはじめとする文献史料は、長きにわたって史料のなかでとくに優越した地位を占めてきた。 以前は限られた人しか見ることができなかった文献史料が、一部ではあるが歴史資料集として編纂され、刊行物として活字化されることを経て、多くの人が見ることができるようになった。 加えて近年、そうした刊行物はインターネット上で誰でも検索/参照できるようになっている。 以下では、自宅で誰でも(基本的に)無料でアクセス可能な歴史史料を紹介する。 ここで紹介する歴史資料集は、大きく2つに分けることができる。 A.ひとつは各文書・記
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