辰巳 柳太郎(たつみ りゅうたろう、1905年〈明治38年〉4月20日 - 1989年〈平成元年〉7月29日)は、日本の俳優。兵庫県赤穂郡坂越村(現・赤穂市)生まれ。本名は新倉武一。 島田正吾と共に、新国劇の屋台骨を支えた1人。 少年時代に養子に出されるも、養家を13件も転々としながら関西甲種商業学校(現・関西大学第一中学校・高等学校)[1]を経て、商業学校(現・大阪市立天王寺商業高等学校)を中退。 1919年、小林一三が国民劇創設のため作った「男子養成会」の創設メンバー(男子専科生第一期生)として宝塚入り。 1926年に旅回りの一座に入り、長野県で初舞台を経験。半年後、小林一三主宰、坪内士行文芸部長の「宝塚国民座」に入団して東伍作の名で舞台に立つ。 その後、澤田正二郎の魅力に惹かれ、1927年、道頓堀の浪花座で公演中の澤田を楽屋に訪ねて弟子入りを直談判し、新国劇への入団を許される[注釈