享保17年(1732)6月23日~寛政9年(1797)8月19日 本姓は藤原。名は貞幹(サダモト)、字は子冬。通称は叔蔵、号は無仏斎、亀石堂等。父は、京都仏光寺中の坊の院家久遠院権律師玄煕。11歳で得度するが、18歳で還俗。和歌は日野資枝(ヒノ・スケキ)、有職故実は高橋宗直(図南)、書は持明院宗時に、儒学を後藤芝山、柴野栗山に学ぶ。古代への関心が深く、書画や器物、古文書を求め諸国を歩く。 「尤モ古書画ヲ好ンデ、片楮半葉トイヘドモ、必ズ模写シテ遺サズ。金石遺文ヲ索捜シテ、寸金尺石、破盂欠椀ノ微トイヘドモ、古ヘヲ徴スベキモノハ皆模造シテ捨テズ」 知人には篆刻の高芙蓉(コウ・フヨウ)、韓天寿(カン・テンジュ)など、またコレクター木村蒹葭堂がいた。また、裏松光世(ウラマツ・ミツヨ)が『大内裏図考証』を執筆するときに協力し、「寛政新内裏復古の考案を秘かに助成した」(『日本古典文学大事典』)。 貞幹は