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技術と歴史に関するwasaiのブックマーク (8)

  • コンクリートの平成史|E.Yasuda|note

    平成が終わろうとしています。 この、1989年から2019年にかけての30年ほどの間に、コンクリートには何が起きたのでしょうか。 平成が始まる100年前の1889(明治22)年、日初の近代港湾として横浜港の築港工事が開始されます。 その防波堤用の材料として、セメントという粉に石と砂と水を混ぜて作製するコンクリートという近代材料が使用され、日におけるコンクリートの歴史が幕を開けました。 (当時の言葉では摂綿篤・混凝土と書きました。) それからの殖産興業の時代、コンクリートという材料は土木・建築向けの建設材料として徐々に普及するようになります。 鉄筋との組み合わせによる鉄筋コンクリート構造は木材・石・煉瓦といった既存の材料による構造よりも強度に優れ、自由度の高い設計を可能にしました。 現存する国内最古の鉄筋コンクリート構造物は1903(明治36)年につくられた琵琶湖第一疎水路上の橋といわれ

    コンクリートの平成史|E.Yasuda|note
  • エレベーターの歴史 - 歴ログ -世界史専門ブログ-

    都市の景観を一変させたエレベーター エレベーターという装置の歴史は実は古く、古代ローマの時代に遡ります。 しかし、エレベーターが人類の歴史に大きく貢献し始めるのは20世紀に入ってから。 安全で安定したエレベーター技術の確立は、超高層ビルの建設を可能にし、ニューヨークの摩天楼の風景を作り上げました。 ただし「安全で安定した」エレベーター技術は、技術者の長年の試行錯誤によって発展してきました。 1.原始的なエレベーター 古代ローマのエレベーター 古代ローマの建築家ウィトルウィウスの著作によると、史上初のエレベーターは紀元前236年、シチリアの数学者アルキメデスの発明によるものだそうです。 アルキメデスは、「アルキメデスの原理」や「アルキメデスの熱光線」で有名な古代世界最大の発明家です。 この原始的なエレベーターは、箱型の乗り物に人が乗り込み、人力で垂直上下に繋がった麻のロープを手繰って上下移動

    エレベーターの歴史 - 歴ログ -世界史専門ブログ-
  • 30分でわかるゲームグラフィックスの変遷 - THE長文日記

    ゲンロン8では、ゲームエンジンとミドルウェアの区別がついてないらしい。読んでないが、僕が考えるゲームグラフィックスの進化の歴史をとりあえずまとめておこうと思う。まあ実際のジジイたちにはいろいろ言いたいことはあるだろうが。朝おきて研究所に行くまで時間があるからね。 □第1世代 エレメカ 「遊技機で使う表示装置」をディスプレイと呼ぶのならば、まずはエレメカに言及しておかねばなるまい。エレメカとは、エレクトロニクス+メカの略で、CRTが発明される以前のゲーム機である。 たとえばもぐら叩きなどがこれにあたる。今でもパンチングマシンくらいはあるかもしれない。 「太鼓の達人」はエレメカの発展形とも言える。 エレメカの特徴は、表示が物理的なもので行われることだ。つまり表示装置とはモーターやランプである。 机の下からモグラが飛び出す、という原始的な表示装置や、紙の巻物のような「マップ」が上下にスクロールす

    30分でわかるゲームグラフィックスの変遷 - THE長文日記
  • 2015年現在で「MIDI」が衰退の歴史をたどり完全に廃れた現状オワコンの側面と,DTM/DAWに今でも必須な現役の側面の両方をまとめ - モバイル通信とIT技術をコツコツ勉強するブログ

    音楽制作の重要な用語である「MIDI」は,一部は完全にオワコンだが,一部は今でも現役だ。 DTM・DAWにいまでも欠かせない「MIDI」といった場合,何を指しているのか? MIDIの「どの部分」がオワコンになったのだろうか? 下記にまとめてみた。 まず,「ハードウェアとしてのMIDI」や,「Web上での配布形態としてのMIDI」は当に衰退していることに注意しよう。 しかし「入力手段としてのMIDIキーボード」や,「通信データ・プロトコルとしてのMIDI」は生き残っているのだ。 そこを混同しないように。 MIDI端子・MIDIケーブル: →ほぼオワコン。USB端子・USBケーブルのほうがはるかに高速で大容量を転送できるから。 MIDIキーボード: →現役で使われている。DTM・DAWの重要な道具。鍵盤を演奏するのではなく,音階をステップ入力するためのツール。端子はUSB端子だけだったりする

    2015年現在で「MIDI」が衰退の歴史をたどり完全に廃れた現状オワコンの側面と,DTM/DAWに今でも必須な現役の側面の両方をまとめ - モバイル通信とIT技術をコツコツ勉強するブログ
  • 日本の鉄道・不燃化への挑戦

    まりあのしたい@療養中 @Writer_Tsubaki しかし、日の鉄道車両が「燃えない」ということについて偏執狂的こだわりを見せているのは、それなりに理由があるんですよね。連ツイします。 2015-06-30 23:26:07 まりあのしたい@療養中 @Writer_Tsubaki 事の発端は、終戦直後の桜木町。戦時急造品で粗悪な品質だった電車で火災が発生。木造であること、窓が(硝子をけちるために)小さかったこと、今では常識となった非常用のドアを手動で開く装置もなかったこと、色んな事が災いして、とんでもない人数が亡くなってるんです。 2015-06-30 23:27:43 まりあのしたい@療養中 @Writer_Tsubaki で、「兎に角電車で木造はダメだ。あとドアや窓から逃げられるようにしなければダメだ」と学びます。今の電車は、特急用や新幹線用を除いて、実は基的に窓が開くようにな

    日本の鉄道・不燃化への挑戦
  • 東京理科大、機械式アナログコンピュータ「微分解析機」を70年ぶりに再生 ~常設展示室で一般公開へ

    東京理科大、機械式アナログコンピュータ「微分解析機」を70年ぶりに再生 ~常設展示室で一般公開へ
  • フィルム写真の終焉直前に業界の現場ではデジタルカメラなど眼中になかった - 日日平安part2

    100年以上の歴史ある銀塩写真が崩壊した要因は、デジタルカメラの需要がフィルムカメラを上回り、銀塩写真の必要性が失せたということである。だれもがご存知のことと思う。さて、そのときの業界の現場ではなにが起きていたのだろう。 それ以前のロールフィルムの需要はどうであったか。1990年代後半は出荷数が4億を超え、1997年(平成9年)から1998年(平成10年)では、日国内で最多の約4億8283万を出荷していた。そして、デジタルカメラの普及で売り上げが激減。 全盛期の10年後である2008年(平成20年)には、10分の1近くの約5583万にまで落ち込んだ。 一部のフィルムメーカーでは倒産や写真フィルム事業からの撤退。存続のメーカーでもラインの縮小という事態に陥っている。カメラ用フィルムの製造には巨額の設備投資が必要なため、一度廃業すると再生産は極めて困難といわれている。 ちなみに、最盛

    フィルム写真の終焉直前に業界の現場ではデジタルカメラなど眼中になかった - 日日平安part2
  • 『国立産業技術史博物館』の資料2万点以上が廃棄された

    ユキカゼ @NAVY_ICHIHO 一度皆さんには国立科学博物館常設展示室に来て、科学技術史関連の展示を見てほしい。 展示物の層がどれだけ薄いかってわかるから。技術立国を標榜しておきながら、どれだけ自国が歩んできた道を大事にしていないかがわかるから。 2013-12-19 02:43:49 ユキカゼ @NAVY_ICHIHO 国立科学博物館側も手をこまねいていたわけではなく、国立産業技術史博物館構想に協力し、技術史に関する資料収集は行っていた。もちろん工場で廃棄予定だった各種機械を引き取り、それの保管も行ってきている。 2013-12-19 02:46:53

    『国立産業技術史博物館』の資料2万点以上が廃棄された
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