この鉄道の建設は、20世紀初頭の英領ビルマ時代にイギリスが検討したが、地形が複雑で建設を断念した。戦時中の1942年、旧日本軍は海上輸送の危険を避け、またビルマ戦線の物資輸送ルートを確保するために建設を開始した。建設計画はイギリスが検討した5つの案(チェンマイ - トングー、ピッサヌローク・ターク - モールメン、現在のルート、カンチャナブリー - タボイ、チュンポン - メルグイ)[3]の内の1つを踏襲している。背景としては、当時ビルマとタイの間にマラッカ海峡経由の海上輸送路以外に補給に適したルートが少なく、その海上輸送路もミッドウェー海戦などで日本側が劣勢になったため、海上輸送路とは別に陸上輸送路が求められたことによる。 発案者は、当時タイに駐留していた第25軍第2鉄道監部の広池俊雄中佐で、1941年11月に参謀本部の辻政信中佐によって大本営にプランが持ち込まれた[4]。 建設は迅速さ
