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災害と寺田寅彦に関するwhaleboneのブックマーク (3)

  • 東日本大震災 救助から復興、国の再構築へ(2011年3月末 記) at サイエンスライター 森山和道

    Tweet下記は、2011年3月末に執筆し、 岩波書店「科学」2011年5月号・科学時評欄に掲載されました。 東日大震災から4年。ウェブにアップしておきます。 —- 3月11日午後2時46分、「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」が発生した。地震の規模はマグニチュード(M)9.0。大津波をもたらし、甚大な被害を日全体に与え続けている。 直接被害を被った場所の一つ、宮古市田老には高さ10m、長さ2kmを超える「田老万里の長城」とも呼ばれる大防潮堤があった。しかし津波は10mの防潮堤を超え、町を破壊した。田老だけではない。釜石の湾口防波堤など各地で津波を想定して設置されたハードウェアが想定仕様を超える力に圧倒され、沿岸地域に集落があった地区は壊滅した。 世界有数の豊かな漁場だった海が、どす黒い濁流に姿を変えて触れたもの全てを破壊する姿は、日を戦慄させた。 死者行方不明者は3

    東日本大震災 救助から復興、国の再構築へ(2011年3月末 記) at サイエンスライター 森山和道
  • 寺田寅彦 災難雑考

    大垣(おおがき)の女学校の生徒が修学旅行で箱根(はこね)へ来て一泊した翌朝、出発の間ぎわに監督の先生が記念の写真をとるというので、おおぜいの生徒が渓流(けいりゅう)に架したつり橋の上に並んだ。すると、つり橋がぐらぐら揺れだしたのに驚いて生徒が騒ぎ立てたので、振動がますますはげしくなり、そのためにつり橋の鋼索が断たれて、橋は生徒を載せたまま渓流に墜落し、無残にもおおぜいの死傷者を出したという記事が新聞に出た。これに対する世評も区々で、監督の先生の不注意を責める人もあれば、そういう抵抗力の弱い橋を架けておいた土地の人を非難する人もあるようである。なるほどこういう事故が起こった以上は監督の先生にも土地の人にも全然責任がないとは言われないであろう。しかし、考えてみると、この先生と同じことをして無事に写真をとって帰って、生徒やその父兄たちに喜ばれた先生は何人あるかわからないし、この橋よりもっと弱い橋

  • 寺田寅彦の伝説の警句 天災は忘れた頃に来る

    このページの内容 「天災は忘れた頃に来る」という言葉を言い出したのは寺田寅彦であるといわれています。寺田寅彦は現在においても人気者であり、寺田寅彦随筆集(岩波文庫)を新たに入手すると、例えば、第一巻は2002年5月第86刷発行」となっています。また、「松哉著 寺田寅彦は忘れたころにやって来る 集英社新書 2002」のようなが出版されるのも相変わらぬ寅彦の魅力のためと思われます。 寅彦に関する文献を抜粋引用し、地震・防災の原点を探ってみます。 寺田寅彦 伝説の警句 随筆中の災害や防災 関東大震災と寅彦 明治11年(1878)誕生、昭和10年(1935)没。享年58歳。 大正12年(1923)45才の時、関東大震災に遭遇し、火災旋風などの調査に従事する。随筆集「冬彦集」を出版した年である。 学校 ・・・・・・・・・ 高知と東京の小学校、高知の中学校、熊の第五高等学校、東京帝国大学 肩書き

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