はてなダイアリー「下総ミリタリースクエア」が、移転の上改称。 dragonerが草葉の陰から生暖かく軍事話やその他の雑想を垂れ流すブログ。 明日9月4日、”第36回鳥人間コンテスト2013”の模様が読売テレビ系列で放映されます。 1977年に始まった鳥人間コンテストも今年で36回目となる歴史ある大会になりましたが、その記念すべき第1回大会で、先日長編映画制作からの引退を表明した宮崎駿監督の「風立ちぬ」の登場人物が大きな役割を果たしているのをご存知でしょうか? 主人公堀越二郎の良きライバル? 「風立ちぬ」をご覧になった方は主人公、堀越二郎の東大生時代から三菱内燃機製造(現在の三菱重工業)時代まで、ずっと一緒にいた「本庄」という男性を覚えているでしょうか? 彼のモデルは本庄季郎という実在の航空機設計者で、劇中では堀越二郎と同期の良きライバルとして描かれていますが、実在の彼は堀越より1期上の先輩
はじめに ここでは書籍「有限要素法 ABAQUS Student Edition付 (DVD付) 」に付属するAbaqus 6.9 Student Editionの使い方について簡単に解説していきます。Abaqus 6.9 Student Editionは、扱える節点数が1000節点までと制限されていますが、ソフトウェアとしての機能は製品版Abaqusのフル機能を使うことができます。とてもすべての機能をこのチュートリアルで網羅することはできませんが、いろいろな現象についてAbaqusの高度な機能(あるいは基礎的な機能もですが)を用いて、どうやって解析上アプローチするかについてのヒントになればと思います。 ここでは説明上AbaqusのプリポストプロセッサであるAbaqus/CAEを用いますが、その解析的な考え方、モデリング上のノウハウなどはすべての解析ツールに共通だと思われますので、Abaq
のんびり起床して家事など済ませていれば、もうお昼。11時58分、90年前のこの日この時、関東大震災が発生。東京の被害は勿論甚大なものだったけれど、横浜の被害も酷いものだった。横浜市内だけで26,000人以上の死者が出て、横浜市の中心部は壊滅的な被害、灰燼と化し、45万人いた人口は、その後疎開者なども出て、一時30万人まで減少した 関東大震災 - Wikipedia 今年は関東大震災から90年、また、東日本大震災の発生、何時起きるかわからない首都圏直下型地震に東海地震…ということで、関東大震災に関連した企画展が、横浜で多く行われている。今日はその企画展を巡ってみます。 まず最初に、横浜市史資料室『レンズがとらえた震災復興』 http://www.city.yokohama.lg.jp/somu/org/housei/sisi/news/tenjikai130713.html 横浜市史資料室は
【第17号】(平成25年7月9日発行)目次 展示会「レンズがとらえた震災復興」/松本洋幸 横浜に暮らした占領軍高級将校たち/羽田博昭 開港百年と作詞家星野哲郎/百瀬敏夫 写真で見る昭和の横浜(7)「震災から命を助けた池」/百瀬敏夫 開架資料紹介・市史資料室たより 【第16号】(平成25年3月31日発行)目次 一九四六年の大口地区-「天皇巡幸」説明資料から-/百瀬敏夫 女子野球と横浜/羽田博昭 横浜現代史人物伝(2)写真家・前川謙三/吉田律人 平成24年度展示会アンケート・開架資料紹介・市史資料室たより 【第15号】(平成24年11月30日発行)目次 山下公園の誕生/吉田律人 資料紹介 団地自治会ニュース/羽田博昭 一九三七年の朝鮮・満州視察旅行/百瀬敏夫 新刊紹介・市史資料室たより 【第14号】(平成24年7月31日発行)目次 占領軍のいた街/羽田博昭
ユリ根の輸出 ~欧米で愛好された日本の草花~ ※印の画像はクリックで拡大します。 ヨーロッパ、アメリカに輸出される日本のユリ (1) 『百合花選』 ※ 幕末の開港後から昭和初期にかけて、ある植物が日本からヨーロッパやアメリカに向けてさかんに輸出されていました。それが、 (1) に描かれている花、ユリです。 (1) の絵は、ユリの輸出を行っていた横浜植木株式会社という園芸会社が明治27年(1894年)に出版した『百合花選』の中の1ページです。ユリの種類はたくさんあるため、園芸業者は一覧としてこうした図集を発行し、一方、欧米諸国ではこうした花が咲くことを楽しみにユリの球根(ユリ根)を輸入し、育てていたのです。戦前にこうしたユリ根の貿易があったことを知る人は、意外に少ないかもしれません。 ここでは、アジ歴の中から、ユリ根の輸出に関わる資料を紹介していきます。 博覧会と欧米における日本のユリ人気
今日の「サカタのタネ」の創業者で、近代日本の種苗業界の発展に貢献した功労者の一人・坂田武雄は、1888年12月15日、九州出身の父・伝蔵、母・邑(むら)の間に8人兄弟の長男として東京で生まれた。幼少期の武雄は動・植物や読書が好きな少年だった。 帝国大学農科大学実科へ入学し、寄宿舎で3年間の学生生活を送っていた武雄は、豊かではない実家の苦しさを見るにつけ、大学卒業後は独立した事業や商売を始めた方がいいのではと考えた。そこで卒業と同時に農商務省の海外実業練習生募集に応募、資格試験に合格した。 これを機に渡米、海外で園芸や種苗の基礎を学んでこようと考え、1909年10月、横浜からアメリカ大陸へ旅立った。満20歳の時である。 幸運だったのは、その後「生涯の恩師」と呼べるアメリカ人、ヘンリー・A・ドリアー(Henry A. Dreer)社のアイスレー(Jacob D. Eisele)社長に出会ったこ
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