創刊当時より、ほぼ日刊イトイ新聞にいろんなかたちで関わってくださった岩田聡さんが、7月11日、永眠されました。岩田さんがご登場くださったたくさんのコンテンツを、いま、読みたい方も多いかと思いますので、代表的なものをまとめました。ご冥福をおいのりいたします。
![岩田聡さんのコンテンツ。 - ほぼ日刊イトイ新聞](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/f9fd67abe7dd9618fa48596611ee545430453d0b/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fwww.1101.com%2Fiwata20150711%2Fimages%2Ffb_image.png)
7月13日、任天堂は、岩田聡社長が11日に胆管腫瘍のため死去したと発表した。5月撮影(2015年 ロイター/Toru Hanai) [東京 13日 ロイター] - 任天堂<7974.T>は13日、岩田聡社長が11日午前4時47分、胆管腫瘍のため京都市内の病院で死去したと発表した。55歳だった。任天堂によると、数日前から体調を崩して入院し、容態が急に悪化して亡くなったという。 昨年6月に胆管腫瘍の切除手術を受けて一時療養していたが、8月の盆明けに業務を再開し、10月には4カ月ぶりに公の場に姿を見せるなど復帰をアピールしていた。昨年6月に欠席した株主総会も、今年6月26日には出席して議長を務め、続投が決まったばかりだった。 岩田氏の死去によって、任天堂は、宮本茂専務と竹田玄洋専務の2人が代表取締役となる。後任社長は未定としている。 岩田氏は2000年に当時社長だった故山内溥氏に招かれて任天堂に
11日亡くなった任天堂社長の岩田聡さんは、老若男女を問わず幅広い層にゲームの楽しさを届け続けた。2画面の携帯型ゲーム機「ニンテンドーDS」や、体感型のゲーム機「Wii」などを世に送り出し、独創性にこだわり続けた。 「娯楽は他と違うからこそ、価値がある」。2002年に42歳で社長に就いた岩田さんは、そんな思いで任天堂らしいゲームの開発を続けた。ライバル社が高精細の映像表示などを売りにするゲーム機を出すなか、独自性に力を入れた。04年発売の「DS」は1億5千万台を超えるヒットを記録した。06年発売の「Wii」もリモコンを振って遊ぶ斬新さが受け、世界で1億台超が売れた。 東京工業大在学中にゲームソフト会社「ハル研究所」でアルバイトし、そのまま就職した。「星のカービィ」など人気作を送り出し、業界で「天才プログラマー」として知られた。その実力を任天堂社長だった故山内溥氏に評価され、同社に入社した。
任天堂の岩田聡(いわた・さとる)社長が55歳で死去したことを受けて、コピーライターの糸井重里さんは7月13日、「うん。(あの世で)また会おうや」と、独特の言い回しでその若すぎる死を悼んだ。自身のブログ「ほぼ日刊イトイ新聞」に、次のように書いた。 どんな別れのときにでも、 「また会おう」と言えばいいのだと思う。 ともだちだから、また、会う。 それはちっともおかしくない。 うん。また会おうや。 ずいぶんと遠くまで旅に行くんだって。 もっとずっと先の予定だったのにね。 いちばん似あう服を着て、 「急のことですみません」と、 ことばには出さないけれど、そう言ってた。 (ほぼ日刊イトイ新聞 - 今日のダーリン )
「岩田社長、ありがとう」――。7月11日に亡くなった、任天堂の岩田聡社長を追悼する声が、Twitterに多数投稿されている。
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