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  • 戦国大和の覇者・筒井氏~大和武士の一族(1) - 大和徒然草子

    当ブログでは鎌倉時代から江戸時代までの大和武士たちの活躍や動向を、当時の畿内史と関連付けながら21回にわたって「大和武士の興亡」として奈良の戦国史を詳しく紹介しました。 今回は奈良の戦国史について切り口を変え、戦国の大和で活躍した大和武士の一族たちに焦点を当てて、ご紹介していきます。 最初にご紹介する大和武士の一族は、戦国末期に大和国の覇権を握って近世大名へと躍進することになる筒井氏です。 筒井氏の出自 筒井氏歴代 順覚(南北朝~室町初期) 成身院光宣と順弘、順永(河上五ヶ関を巡る抗争と応仁の乱) 順尊、順賢(筒井氏の没落と大和復帰) 順興(筒井氏の戦国大名化) 順昭(大和を武力統一した最初の覇者) 順慶(近世大名化した最後の官符衆徒棟梁) 定次(筒井宗家最後の当主) 正次、正信(徳川氏旗・筒井家) 筒井氏ゆかりの旧跡 筒井城 椿尾上城 郡山城 筒井順慶墓所 筒井氏関連年表 南北朝~戦国

    戦国大和の覇者・筒井氏~大和武士の一族(1) - 大和徒然草子
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    xnorico 2024/06/12
    激動の戦国時代に、かなり特殊な事情があった大和国を生き抜いた筒井氏、今も地名として残っているので親しみがあります。この記事は大作ですね❣また折に触れて、読み返してみたいと思います✨
  • 古墳に囲まれた中世山城・貝吹山城~越智谷散歩(2) - 大和徒然草子

    中世の大和国では、奈良の興福寺が事実上の守護として君臨し、在地の国人領主である武士は興福寺・春日大社の衆徒、国民として組織されてその傘下にありました。 しかし、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての戦乱で、国人たちは寺社領を蚕して勢力を蓄え、興福寺の制御から外れて独自の動きを取るようになります。 南北朝時代以降、大和で特に大きな力を持つようになった国人が、筒井氏、古市氏、箸尾氏、十市氏そして越智氏でした。 越智氏は大和源氏の一流を称して高市郡越智(現高取町)を拠に、吉野南朝の主力となって勢力を伸ばし、15世紀末の戦国時代初め頃までは大和における幕府(北朝)方主力として勃興した筒井氏をしばしば圧倒した国人です。 そんな越智氏の拠・越智谷に残る越智氏ゆかりの旧跡を、前回は越智氏の足跡とともにご紹介しました。 今回ご紹介するスポットは、越智氏の築いた中世山城、貝吹山城です。 15~16世紀に

    古墳に囲まれた中世山城・貝吹山城~越智谷散歩(2) - 大和徒然草子
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    xnorico 2024/05/03
    古墳の数の多さと、奈良県の中世史の複雑さが、城郭の保存を難しくしている可能性はありますね💧ただこの辺りは、現在の道路の様子からいっても、交通の要所だったといえると思います(*'▽')
  • 南都攻防の重要拠点・今市城を歩く~上街道散歩(9) - 大和徒然草子

    飛鳥時代に奈良盆地を南北に結ぶ官道として整備された道のうち、最も東に通され現在の奈良市と桜井市を結んだ上ツ道は、中世以降も上街道として大和の主要な南北幹線道として機能し、沿線には多くの宿場や市そして城郭が築かれたため、名所や旧跡が集まるエリアです。 当ブログでは上街道沿いの旧跡をこれまで8回ご紹介してきましたが、前回まで櫟以南の天理市内エリアを中心に散策してきました。 ※前回の記事はこちらです。 今回からは天理市から少し北に移動し、奈良市南郊のJR帯解駅周辺をしばらくご紹介していこうと考えています。 帯解周辺の散策スポットと言えば、安産祈願で有名な帯解寺が真っ先に挙げられるかと思いますが、中世大和を中心に紹介している当ブログとしては、帯解近辺で是非ともご紹介したいスポットが、中世城郭の今市城です。 今市城は、知名度は決して高いとは言えませんが、中世大和の南都・奈良をめぐる争いで常に勝敗の

    南都攻防の重要拠点・今市城を歩く~上街道散歩(9) - 大和徒然草子
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    xnorico 2024/03/28
    帯解寺から東側はウォークで訪れたことがあるのですが、今市城跡は知りませんでした💦奈良県は古代の遺産が多過ぎて、なかなか中世の遺跡まで辿り着けないように思いますが、それではやはりもったいないですね💧
  • 美しい天空の城塞環濠集落・竹之内環濠を歩く~上街道散歩(8) - 大和徒然草子

    奈良県は中世以来の環濠集落が多く残っていることで有名ですが、その多くは平野部の低地に集落の四方を濠と土塁で囲んで形成されています。 しかし奈良県天理市にある萱生環濠集落と竹之内環濠集落は、山麓の高台に形成された県内でも珍しい環濠集落。 前回は、集落周辺の古墳を巧みに活用した萱生環濠集落をご紹介しました。 今回は萱生環濠から北に1kmほどの場所にある竹之内環濠を巡ります。 竹之内環濠の場所はこちら。 竹之内環濠は、標高100m、麓の国道169号線付近からの比高も30mという高地に立地する、奈良県内で最も高い場所にある環濠集落です。 竹之内環濠周辺図(国土地理院HPより作成) 濠の一部や環濠集落に特徴的な路地や土塁跡など、中世環濠集落の姿を残す町並みが残っており、戦国期には城郭としても機能した集落は、大和戦国史のターニングポイントとなる合戦の舞台ともなりました。 環濠散策をより楽しめる集落の歴

    美しい天空の城塞環濠集落・竹之内環濠を歩く~上街道散歩(8) - 大和徒然草子
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    xnorico 2024/03/16
    ここの菜の花畑はとてもキレイですね✨山辺の道というと、古墳のイメージが強いんですが、中世の足跡を探しながら歩くのも楽しそうです(*'▽')
  • 北和の有力国人・鷹山氏と奈良県最北の城・高山城~きたやまと散歩(1) - 大和徒然草子

    奈良県生駒市北部は、1980年代後半から学研都市として学術研究施設の建設や宅地開発が盛んな地域で、近年は近鉄けいはんな線の延伸で交通アクセスの利便性が大幅に上昇したことから、都会の高い利便性と自然豊かな田舎の暮らしを両立できる「トカイナカ」として注目されているエリアです。 1957(昭和32)年に生駒町(現生駒市)へ編入されるまでは北倭村だった地域で、江戸時代までは現在生駒市中心街のある生駒町地域が平群郡だったのに対して、富雄川沿いの生駒市北部は奈良市西部や大和郡山市と同じ添下郡に属し、同じ生駒市でも全く異なる歴史定背景や地域性を持っています。 この生駒市北部に、北和の有力国人・鷹山氏が築いた中世城郭・高山城があります。 鷹山氏は生駒市北部を中心に勢力を伸ばした国人領主で、河内、山城との国境地帯に領地を有した関係から、他の大和国人とは一線を画す活動を見せ、近年畿内の戦国史研究が盛んになる中

    北和の有力国人・鷹山氏と奈良県最北の城・高山城~きたやまと散歩(1) - 大和徒然草子
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    xnorico 2024/02/19
    鷹山氏の歴史も、戦国時代を生きたこともあり凄まじいですね💦東大寺再建を成し遂げた公慶が、鷹山氏出身であったことは初めて知りました✨
  • 記紀神話から丹生川上神社、戦艦大和まで多くの「ゆかり」を持つ古社・大和神社(前編)~上街道散歩(5) - 大和徒然草子

    大和政権発祥の地とも考えられている奈良盆地南東部(現在の桜井市、天理市エリア)は、古代からの歴史を持つ神社や旧跡が、数多くあります。 奈良県天理市に鎮座する大和神社(おおやまとじんじゃ)も、同地域の石上神宮(現天理市)や大神神社(現桜井市)と同じく、創建以来長い歴史を持つ一社。 社殿は近代以降建て替えられたものが多いのですが、古代から近代まで長い歴史の中で積み重ねられた様々な由緒や所縁を持つスポットであふれる当社は、山の辺の道や上街道の散策でぜひお立ち寄りいただきたい神社です。 参拝された際により深くスポットを味わっていただける由緒や歴史を詳しくご紹介していきます。 伊勢神宮に次ぐ社領を有した大和神社 境内 一の鳥居 二の鳥居 殿 境内社 増御子神社 高龗神社(たかおおかみじんじゃ) 丹生川上神社との関係 朝日神社・事代神社・厳島神社 社務所(旧北之坊跡地) 祖霊社と戦艦大和記念塔 戦艦

    記紀神話から丹生川上神社、戦艦大和まで多くの「ゆかり」を持つ古社・大和神社(前編)~上街道散歩(5) - 大和徒然草子
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    xnorico 2024/02/07
    長~い参道を持つ大和神社、社殿は建替えられて比較的新しいですが、長い歴史を持つ、魅力ある神社ですね(*'▽')✨
  • 伝説と文化財にあふれる山の辺の道の古刹・長岳寺~上街道散歩(4) - 大和徒然草子

    当ブログでは天理市内を中心に、上街道沿いの町並みや旧跡をこれまでいくつか紹介してきました。 今回ご紹介する長岳寺は、上街道沿いというよりは「山の辺の道」沿いと言った方が適当かもしれませんね。 奈良県天理市は石上神宮や黒塚古墳、崇神天皇陵といった古代から続く神社や旧跡が数多く残る歴史ある地域ですが、県内の他の旧跡密集地帯とは違って、大規模寺院の空白地域になっています。 というのも、現在の天理市域は明治に起きた廃仏毀釈の動きが奈良県内でも激しかった地域の一つで、江戸時代まで残っていた古刹の多くが神宮寺だったこともあり、内山永久寺をはじめとした歴史ある寺院の殆どが廃寺となってしまったからです。 多くの古刹が姿を消していく中、長岳寺はその荒波を乗り越え、今では四季折々の花と紅葉の名所として、山の辺の道を散策する方々を中心に多くの参拝者が訪れる名刹となりました。 貴重な文化財や興味深い伝説に彩られた

    伝説と文化財にあふれる山の辺の道の古刹・長岳寺~上街道散歩(4) - 大和徒然草子
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    xnorico 2024/01/27
    長岳寺も、兵火や廃仏毀釈を乗り越えてきた古刹なんですね。放生池越しに見える本堂の姿は、どの季節も美しいと思います(*'▽')✨
  • 行基、忍性 二人の菩薩が眠る寺・竹林寺~生駒谷散歩(2) - 大和徒然草子

    奈良県生駒市の近鉄生駒駅より南側、近鉄生駒線の沿線はかつて生駒谷十七郷と呼ばれた中世以来の郷村が集中するエリアで、新興住宅街が目立つ生駒市内にあって、古くからの街道と集落や旧跡が残っています。 前回記事では生駒谷十七郷の氏神として、生駒市壱分町に鎮座する往馬大社をご紹介しました。 往馬大社から600mほど南にある竹林寺は、奈良時代の僧・行基と鎌倉時代の律僧・忍性が葬られた地として知られます。 大衆の中に分け入り、困窮する人々を救済する社会事業を先駆的に進めた行基と忍性、二人の高僧が葬られた竹林寺の歴史は南都仏教の盛衰と共にありました。 その歴史と現在の様子をご紹介します。 竹林寺とは 竹林寺境内 参考文献 竹林寺とは 竹林寺は律宗寺院で、第二阪奈道路の壱分ICの南西、生駒山東麓の丘陵地にあります。 竹林寺周辺図(国土地理院HPより作成) 暗越奈良街道や清滝街道からも近く、古代から交通アクセ

    行基、忍性 二人の菩薩が眠る寺・竹林寺~生駒谷散歩(2) - 大和徒然草子
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    xnorico 2024/01/23
    行基と忍性、二人の菩薩が眠る竹林寺は、とても静かな心休まる空間ですね✨参道の雰囲気もいいお寺だと思います(*'▽')
  • 江戸時代の大和と大和国人の末裔たち~大和武士の興亡(21) - 大和徒然草子

    1585(天正13)年の筒井氏伊賀転封と豊臣秀長の大和入国により、大和では中世的な国人支配の残滓が一掃され、中央武家政権による一元的支配が行き渡る近世が格的に始まります。 1600(慶長5)年の関ヶ原の戦い、そして1614~1615(慶長19~20)年の大坂の陣と相次いだ戦国末期の大戦で、多くの大和国人が敗者の側に付いて姿を消し、勝者の側に付いた者も、その多くが郷土である大和に留まることはできませんでした。 戦国時代が終わり、大和国人の末裔たちはどうなっていったのでしょうか。 大坂の陣後の大和 大和へ入った他国衆 天領の支配 大和を離れた国人の子孫たち 茶道の家となった古市氏 造り酒屋で身を立てた島氏 参考文献 大坂の陣後の大和 大坂夏の陣後、戦国時代は終結し、元号も慶長から元和に改元されて格的な近世社会が開かれました。 下図は、大坂の陣終結直後の大和の情勢図になります。 豊臣氏滅亡直

    江戸時代の大和と大和国人の末裔たち~大和武士の興亡(21) - 大和徒然草子
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    xnorico 2023/12/30
    やっぱり、中世の大和国の事情は、他国と比べると特殊ですよね💦理解するのは難しい時代を、簡潔にまとめてくださってありがとうございます(*'▽')✨
  • 大和武士の黄昏。豊臣政権下の大和国衆と筒井氏の伊賀転封~大和武士の興亡(19) - 大和徒然草子

    戦国時代末期、松永久秀と熾烈な抗争を続けた筒井順慶は、織田信長、羽柴秀吉と畿内に君臨する天下人に臣従。 筒井氏は天下人の武力と権威を背景として大和の支配を進めたことで、中世以来の興福寺衆徒から近世大名へと転身しました。 一方、中世に筒井氏と大和の覇を競った越智氏、十市氏、古市氏は筒井氏被官として家名の存続を維持するのが精いっぱいという状況に零落し、箸尾氏や宇陀の秋山氏も筒井氏傘下の与力大名とならざるを得ませんでした。 筒井氏に反抗的な国人たちは、服従するか、粛清されるかの二者択一を迫られ、1559(永禄2)年の松永久秀による大和侵攻以来、反筒井の代表的国人であった柳生宗厳は元関白で信長と親しい近衛前久に接近することで、領地を維持していました。 その一方、元々筒井氏の被官であった松倉重信(松倉右近)、中坊秀佑や筒井方国人であった島左近らは粛清された南方衆の闕所に新たに封じられ、有力者として台

    大和武士の黄昏。豊臣政権下の大和国衆と筒井氏の伊賀転封~大和武士の興亡(19) - 大和徒然草子
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    xnorico 2023/12/20
    実質的には、筒井順慶の死で大和国人による支配は終了…ということですね。大和国は興福寺が強かったので、戦国時代は理解しにくいと思っていましたが、この記事でよくわかりました(*'▽')✨
  • 古代ロマンと江戸の面影が残る伊勢本街道の宿場町、榛原・萩原宿~おすすめ散歩スポット - 大和徒然草子

    奈良県内には古代からの街道沿いに発展した宿場町が数多くあります。 今回紹介する宇陀市中心街の萩原宿もそういった町のひとつです。 場所はこちら。 大和高原南部に位置し、宇陀市の中心市街となっている場所です。 大阪と伊勢を結んだ伊勢街道沿いには、往時を偲ばせる町並みが今も残り、散歩にぴったりの町でした。 街道の交差点・萩原 新町界隈 墨坂神社 榛原空襲戦跡 札の辻 上町~墨坂伝承地 東町~金平稲荷神社 椋下神社~庚申堂の辻 参考文献 街道の交差点・萩原 さて、萩原宿は町村合併で宇陀市となった旧榛原町の中心市街でした。 榛原という地名がこの地に名付けられたのは明治になってからで、1889(明治22)年に町村制が施行されたとき、萩原村、福地村など12村が合併して村名を榛原村(はいばらむら)としたことが始まりです。 「榛原」の名は、『日書紀』に記された神武天皇が天地の神霊を祭ったとされる上小野榛

    古代ロマンと江戸の面影が残る伊勢本街道の宿場町、榛原・萩原宿~おすすめ散歩スポット - 大和徒然草子
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    xnorico 2023/11/20
    榛原が、昔から交通の要所だった様子がよくわかりました✨春日移しの神社巡りとかしてみたら楽しそうだなと、ふと感じました(*'▽')
  • 戦国大和の覇者・筒井順昭~大和武士の興亡(14) - 大和徒然草子

    畠山総州家の守護代から身を興し、河内大和を支配して畿内屈指の実力者に成長した木沢長政は、将軍・足利義晴擁立を目論み細川晴元に反逆しましたが畿内で孤立。1542(天文11)年3月、政敵・三好長慶に太平寺の戦いで敗れ、敢え無い最期を遂げました。 長政死後、同年12月には、細川晴元と細川京兆家当主を争って敗れた細川高国の養子で喜連城(現大阪市平野区)主だった細川氏綱(高国の従兄弟・細川尹賢の子)が旧高国派の勢力を糾合して挙兵。摂津、和泉、山城では細川氏の家臣団が晴元派と氏綱派に分かれ、再び細川京兆家当主の座を巡って争いが勃発するのです。 如願寺(境内は喜連城の主郭想定地) 一方、大和では木沢長政による支配がその死によって一瞬で瓦解し、長政と同盟を結んでじわじわと勢力を広げていた筒井順昭と、長政の侵攻に対抗して領土を広げていた十市遠忠が当時の大和国人衆の中では一歩抜きんでた状態となっていました。

    戦国大和の覇者・筒井順昭~大和武士の興亡(14) - 大和徒然草子
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    xnorico 2023/09/13
    筒井順昭、順慶と、親子そろって短命だったのですね💧もしも、2人とも長生きしていたら、大和国の戦国史は違うものになっていたかもしれませんね。
  • 大和国人一揆・赤沢朝経の猛威~大和武士の興亡(8) - 大和徒然草子

    応仁の乱以前から長らく続いた細川氏ー畠山尾州家ー筒井氏という同盟関係は、1493(明応2)年に勃発した明応の政変で細川政元が尾州家の畠山政長を切り捨て、総州家の義豊と連携したために完全に崩壊しました。 東軍勝利で終わった応仁の乱の結果とは裏腹に、河内、大和で旧東軍勢を駆逐した総州家と大和の越智家栄、古市澄胤は、明応の政変によって幕府との連携を深め、全盛期を迎えます。 しかし、その後河内では総州家内部の家臣同士の争いが起こり、大和では越智氏と古市氏の関係が次第に険悪化。 こうした総州家の綻びを見逃さず、1497(明応6)年に明応の政変で没落後に紀伊で反撃の機会をうかがっていた政長遺児の畠山尚順(尾州家)がついに挙兵し、河内へと進撃を開始します。 尚順の挙兵に呼応して、大和でも筒井氏が挙兵すると、叔父・成身院順盛の補佐を受けた若き当主・筒井順賢は、不和で連携の取れない越智家栄、古市澄胤らを打ち

    大和国人一揆・赤沢朝経の猛威~大和武士の興亡(8) - 大和徒然草子
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    xnorico 2023/07/30
    激動の戦国時代、織田信長を越えるくらいの暴虐の限りを尽くした武将がいたのですね💦
  • 歴史・地域情報の紹介ブログ記事作成でおすすめ便利サイト - 大和徒然草子

    奈良県内を中心に地域の歴史や現在の情報を中心に発信してきた当ブログですが、お陰様で2023年7月9日で4周年を迎えました。 当ブログの記事は、実際に現地を足を運んで取材して書くことも多いですが、資料や絵図などを調べたり、集めたりすることも大変多いです。 今回は、筆者が記事作成するうえで利用している、おすすめの調べものや引用に便利なサイトをご紹介します。 国立国会図書館デジタルコレクション 国土地理院HP・地理院地図 奈良県立図書情報館・まほろばデジタルライブラリー 奈良盆地歴史地理データベース・小字データベース さいごに 国立国会図書館デジタルコレクション 国立国会図書館で保存・収取しているデジタル化された資料を検索・閲覧できるサービスです。 もはやこのサイトなしには記事が書けないというくらい利用させてもらっているサイト。 ネット上の情報には多種多様な情報があふれていますが、出所が不明だっ

    歴史・地域情報の紹介ブログ記事作成でおすすめ便利サイト - 大和徒然草子
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    xnorico 2023/07/09
    ブログ開設4周年おめでとうございます(*'▽')便利サイト教えていただきありがとうございます❣これからも、奥の深い記事を楽しみにしています♬
  • 古市城~風流を愛した国人・古市氏の夢の跡を歩く - 大和徒然草子

    奈良市中心部から南へ3キロ足らずの場所にある古市は、15世紀の応仁の乱前後に最盛期を迎えた大乗院方衆徒・古市氏の拠地です。 その居城であった古市城は中世城郭としては大規模で、応仁の乱の前後で古市氏当主となった古市胤仙とその子である胤栄・澄胤兄弟が当代きっての茶人・文化人だったことから、京都の公家や文化人らを招いて茶会、連歌会が開かれるなど、文化サロンともなった城郭です。 今は、奈良市南郊の田園に囲まれた静かな集落になっている古市城周辺ですが、その歴史と現在の様子を紹介します。 古市氏と古市城 古市城跡 城山 高山 上ノ段(主郭部)~古城(二の郭) 古市の町 参考文献 古市氏と古市城 古市城の場所はこちらで、東大寺前の交差点から真っ直ぐ3キロほど南下したところにあります。 古市は、元々福島市(ふくしまのいち)という興福寺の市場が置かれた場所でした。 鎌倉時代末期の乾元(1302~03年)頃

    古市城~風流を愛した国人・古市氏の夢の跡を歩く - 大和徒然草子
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    xnorico 2023/06/30
    茶道のみならず、サウナまで嗜んだ古市氏。今は、地名にその名残を残すのみだと思っていましたが、遺構はちらほらと残っているのですね✨
  • 高原にそびえた大和第三の近世城郭・宇陀松山城~破却された幻の城郭を歩く - 大和徒然草子

    奈良県内の近世城郭といえば、桜の名所として名高い大和郡山市の郡山城、山麓の巨大石垣群が壮観な高取町の高取城が、城跡としては有名ですが、実はもう一つ大規模な近世城郭が存在しました。 奈良県東部、大和高原地域に位置する宇陀市大宇陀の古城山(しろやま・標高473m)に築かれた宇陀松山城です。 江戸時代の初めに廃城・破却されたこともあり、郡山城、高取城と比べると知名度は低いものの、近年発掘調査と城跡整備も進み、見ごたえ十分の城跡になってきました。 今回は宇陀松山城の概略史と現在の城跡の様子をご紹介します。 宇陀松山城とは まちかどラボ 基情報 秋山下城 城内 横堀~南西虎口 丸 天守郭 帯郭(南側)・南虎口周辺 南東虎口~大御殿郭 西口関門~春日門 参考文献 宇陀松山城とは 宇陀松山城の場所はこちら。 宇陀松山城は、有名な桜の名木・又兵衛桜のある宇陀市の大宇陀地区にあり、高取城、郡山城とともに

    高原にそびえた大和第三の近世城郭・宇陀松山城~破却された幻の城郭を歩く - 大和徒然草子
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    xnorico 2023/06/11
    歴史の荒波に飲み込まれてしまったお城ですが、とても壮大な城郭だったのですね❣それにしても、破却する時に石垣をはがしたとは、すごい労力が必要だったでしょうね💦
  • 応仁の乱への道~大和武士の興亡(3) - 大和徒然草子

    南北朝の争乱以来、大和の武士たちは相次ぐ戦いの中でその力を扶植し、興福寺の影響下から徐々に離脱し始めます。 南北朝合一後も相次ぐ衆徒・国民の私合戦に手を焼いた興福寺は、ついに室町幕府へ合戦の調停を要請し、大和武士たちは将軍の下で私合戦の停止を誓約しました。 この誓約により大和武士たちへの指揮命令権は興福寺から室町幕府へ移り、興福寺の「大和守護」としての地位は有名無実化。 興福寺傘下の衆徒を統率する官符衆徒棟梁が、事実上他国における守護代と変わらぬ役割となり、仏教王国大和において、寺門に対する武士たちの下剋上がさらに促されることになります。 しかし平和は長続きせず、大御所・足利義持が後継を定めずに急死して幕政が混乱する中、1429(正長2)年に新将軍・足利義教が誕生。 それから間もなく小さな国人間の争いを火種として、大和国中を巻き込んだ大乱・大和永享の乱が勃発しました。 戦いは10年にわたっ

    応仁の乱への道~大和武士の興亡(3) - 大和徒然草子
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    xnorico 2023/06/04
    この時代は、いろいろな出来事が起きますが、興福寺が力を失っていくところが、やはりターニングポイントだったのだと感じました(*'▽')✨
  • 古社と古道が交差する町・櫟本。上街道散歩(1) - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 奈良県内には初見ではまず読めない、いわゆる難読地名がたくさんあります。 西名阪自動車道の天理IC付近の地名、櫟(いちのもと)もそのひとつです。 ついつい自動車で通り過ぎてしまいがちな場所なんですが、自動車から降りて散歩を楽しめるスポットも実はたくさんある場所なんです。 櫟とは 上街道沿い JR駅 楢神社 北の横大路 大阪府奈良警察署櫟分署跡 馬出の町並み 在原神社 和爾下神社(上治道宮) 歌塚(和爾下街区公園) 周辺情報 参考文献 櫟とは 櫟の場所はこちらで、JR駅から国道169号線付近を中心として、西は大和郡山市と境を接し、東は東山中の山麓までの広範にわたります。 櫟は古代の官道の上ツ道と北の横大路が交差する要衝で、古代から和珥氏、柿氏といった古代氏族が割拠した場所でした。 応神天皇の歌に「櫟井の和爾坂の土を」と見えるように、古代は櫟井(いちい)

    古社と古道が交差する町・櫟本。上街道散歩(1) - 大和徒然草子
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    xnorico 2023/04/22
    櫟本の辺りは以前、ガイドさんにウォーキングに連れて行ってもらって、神社などがたくさんあってすごく楽しかったのを覚えています。江戸時代に、高瀬街道が主要道路になっていたことは初めて知りました✨
  • 奈良県の怪異・妖怪の伝承(9)「幽霊」 - 大和徒然草子

    皆さんこんにちは。 古来伝わる怪異譚の定番に「幽霊」のお話がありますね。 奈良県内にも幽霊が登場する昔話がいくつもあり、歴史事件にまつわるものから、一風変わった独特なものまでありますので、今回紹介していきます。 幽霊松と鴻ノ池 こんにゃく橋の幽霊 遠忠の血の足形 姫谷池 静が井戸 大鹿の怨霊 参考文献 幽霊松と鴻ノ池 ■奈良市法蓮町 奈良市のスポーツのメッカといえば鴻ノ池運動公園(現:ロート奈良鴻ノ池パーク)ですね。 その名が示す通り、鴻ノ池という池端に公園があるのですが、かつての鴻ノ池ではしばしば溺死する人が出たといいます。 その理由というのが、鴻ノ池の南東に聖武天皇陵の陪塚である淡海公と呼ばれる古墳の山上にある、幽霊松という松の大木にまつわる怪異譚。 昔猟師が幽霊松にとまった鳩を撃ったところ、実はその鳩はとある幽霊の化身で、羽を撃たれて元に戻れなくなり、近付く者を祟るようになったとい

    奈良県の怪異・妖怪の伝承(9)「幽霊」 - 大和徒然草子
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    xnorico 2023/04/08
    奈良県にも、いろんな怪異・妖怪の伝承があるのですね(*'▽')知らないお話ばかりで勉強になりましたが、やはりこんにゃくのお話が気になります(笑)
  • 奈良の城郭~知られざる城跡ホットスポット・奈良県 - 大和徒然草子

    古都奈良には、多くの魅力ある文化財が残されています。 奈良の文化財といえば、歴史ある古社寺を真っ先に思い浮かべる方も多いでしょうが、実は奈良には、様々な時代の特徴的な様式をもつお城が数多く残されているんです。 下図は、環濠集落も含め県内に約560か所あるとされる城跡のうち、当記事に掲載した城郭を中心に奈良盆地周辺のごく一部をピックアップしたもの。 奈良の城郭分布(国土地理院HPより作成) 奈良盆地周辺だけでも、中世初頭から武士の伝統的居館だった館城、丘陵、山岳地域に詰めの城として築かれた中世城郭、中世城郭から発展して領主や家臣の屋敷が並び支配の拠点となった戦国期拠点城郭、そして複雑な曲輪の構成と枡形などの強固な防衛設備を備えて地域支配の拠点となった近世城郭から近世陣屋まで、様々な時代に特徴的な様式をもつ城郭が、数多くあることがお分かりいただけるでしょう。 海なし県で大きな湖もないため、海城

    奈良の城郭~知られざる城跡ホットスポット・奈良県 - 大和徒然草子
    xnorico
    xnorico 2023/03/13
    奈良県は寺社仏閣のイメージが強いと思いますが、こうして城郭跡を見てみると、大和国人たちの足跡が見えてきます。少しずつ城跡整備していってほしいですね✨