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応仁の乱への道~大和武士の興亡(3) - 大和徒然草子
南北朝の争乱以来、大和の武士たちは相次ぐ戦いの中でその力を扶植し、興福寺の影響下から徐々に離脱し... 南北朝の争乱以来、大和の武士たちは相次ぐ戦いの中でその力を扶植し、興福寺の影響下から徐々に離脱し始めます。 南北朝合一後も相次ぐ衆徒・国民の私合戦に手を焼いた興福寺は、ついに室町幕府へ合戦の調停を要請し、大和武士たちは将軍の下で私合戦の停止を誓約しました。 この誓約により大和武士たちへの指揮命令権は興福寺から室町幕府へ移り、興福寺の「大和守護」としての地位は有名無実化。 興福寺傘下の衆徒を統率する官符衆徒棟梁が、事実上他国における守護代と変わらぬ役割となり、仏教王国大和において、寺門に対する武士たちの下剋上がさらに促されることになります。 しかし平和は長続きせず、大御所・足利義持が後継を定めずに急死して幕政が混乱する中、1429(正長2)年に新将軍・足利義教が誕生。 それから間もなく小さな国人間の争いを火種として、大和国中を巻き込んだ大乱・大和永享の乱が勃発しました。 戦いは10年にわたっ
2023/06/02 リンク