タグ

ブックマーク / nextsociety.blog102.fc2.com (19)

  • アニメ監督の制作現場の作り方-富野由悠季・宮崎駿・押井守

    はじめに アニメの監督の仕事とは何か。 まず視聴者なりに、アニメ監督の仕事内容をざっと挙げてみるとしてみると 読み(脚の打ち合わせ)、各話のコンテチェック、各話演出担当との打ち合わせ アフレコ立会、編集などなど、仕事の内容は多岐にわたるのはなんとなくイメージできる。 こうした具体的な業務以外にも、監督の仕事はあるのではないか。 それは「制作現場の環境作り」である。 この事を気づかせてくれたのは、「栄光の80年代ロボットアニメ」にある 河原よしえさんが書かれた「80年代ロボットアニメ監督たちの素顔」という記事だった。 ※栄光の80年代ロボットアニメ (タツミムック) 河原よしえさんは1975年にサンライズに入社し、製作現場の各作業補佐及び広報素材整理、 その後は設定や広報、脚などを手がけたキャリアを持ち、 1980年代のサンライズの現場を間近で見てきた方だ。 この記事で河原さんは、富野

    アニメ監督の制作現場の作り方-富野由悠季・宮崎駿・押井守
  • 「物語シリーズ セカンドシーズン」23話の80年代風OPの意図-過去と現在を繋ぐ新房昭之

    はじめに 〈物語〉シリーズ セカンドシーズンの第23話のOPを見てビックリした。 いきなり80年代のテイストのOP映像と曲だったからである。 今回はこの事について触れてみたい。 80年代のTVアニメの象徴「上條修」というクレジット まずこのOP映像で驚いたのは、 キャラクターデザインに上條修さんがクレジットされていたことだ。 上條修さんといえば 「宇宙戦士バルディオス」「特装機兵ドルバック」のキャラクターデザインであり 「戦国魔神ゴーショーグン」「ミンキーモモ」「超獣機神ダンクーガ」の作画監督といった 80年代の葦プロダクション(現:プロダクション・リード)制作の アニメ作品を支えてきた、ミスター葦プロともいえるベテランアニメーター。 その人がなぜ、このOPに。 ただOP映像を見ていると、その意図もわかる。 それは、上條修さんという80年代のアニメ(特に葦プロ作品)に クレジットされた名前

    「物語シリーズ セカンドシーズン」23話の80年代風OPの意図-過去と現在を繋ぐ新房昭之
  • 「かぐや姫の物語」は人間の業の肯定の物語である

    高畑勲監督作品「かぐや姫の物語」を鑑賞。 この作品は、かぐや姫が地球で生まれ、育ち、人と出会い、そして月へ帰る。 かぐや姫が生きる中で起こった出来事の喜怒哀楽を見事に切り取った、 タイトル通り、「かぐや姫の物語」といえる作品だ。 そんな「かぐや姫の物語」は人間の業を描いた作品であるともいえる。 「かぐや姫の物語」におけるかぐや姫の人物像。そして感情。 作を見て一番強く思ったのは、 この作品のかぐや姫はなんてワガママで感情の強い女の子だということだ。 見るまで気づきもしなかったが、私は原作の「竹取物語」という作品の名前は知っていたが かぐや姫という人物が物語で抱く感情を全く知らなかったことに気づかされた。 原作の古典「竹取物語」は教科書の授業で触れた程度でしか知らなかった。 そして授業で教わったことを、今思い返してみても、 かぐや姫がどういう感情を持つ人物なのかわからないことを思い出した。

    「かぐや姫の物語」は人間の業の肯定の物語である
  • 「劇場版 魔法少女まどかマギカ 新編 叛逆の物語」は「コゼットの肖像」の別の可能性なのか

    はじめに 「劇場版 魔法少女まどかマギカ 新編 反逆の物語」の まどかとほむらの関係について考えてみたいと思い、 新房監督の「コゼットの肖像」と「The Soul Taker 〜魂狩〜」と 比較しながら考察したいと思った。 ※ネタバレが多いので、劇場版を未見の人は注意してください。 まどかとほむらの関係 まどかを独占的に愛したい悪魔ほむら。 魔法少女全ての苦しみの解放を願い、世界を作りかえた神まどか。 ほむらはまどかだけを望み、まどかはほむらも含めた人の救いを望む。 ほむらは何があってもまどかなのだ。 後述するが、新房監督作品では、愛を独占したいキャラがよく描かれる。 魔法少女まどかマギカの原点としてのコゼットの肖像 ここでまどかマギカとコゼットの肖像と比較したい理由を挙げてみる。 それは、劇場版まどかマギカを見ながら感じていたのは、 幻想的なビジュアルイメージ、そして物語展開の突き放し方

    「劇場版 魔法少女まどかマギカ 新編 叛逆の物語」は「コゼットの肖像」の別の可能性なのか
  • 満たされない物語と円環の理-「劇場版魔法少女まどかマギカ」考察

    「劇場版魔法少女まどかマギカ-新編 反逆の物語」を鑑賞。 TVシリーズのまどかマギカに続く新しい物語として面白かった。 TVシリーズではいきつくところまで物語を描いたように感じたが、 映画ではTVシリーズのその先の物語が描けたという点に感動した。 ※ネタバレ要素が多いので、編を未見の方はご注意ください。 暁美ほむらは何に反逆したのか 副題に「反逆の物語」とあるが、反逆したのは暁美ほむら。 反逆する対象は、まず自分自身で作り出した妄想的な閉鎖世界であり、 その次に円環の理と言われる鹿目まどか、 そして鹿目まどかが書き換えたあとの世界だ。 これは暁美ほむらが自分にとっての鹿目まどかを取り戻す戦いでもある。 他のキャラクターが、世界がどうなろうとも、おかまいなし。 そんな暁美ほむらを描くために、 作では円環の理を象徴すると思われる円/円状のモチーフが多用される。 繰り返される円環の理を象徴す

    満たされない物語と円環の理-「劇場版魔法少女まどかマギカ」考察
  • 「少女革命ウテナ」における七実回の重要性。あるいは緊張と緩和。

    「少女革命ウテナ」の七実回、もしくはギャグ回の重要性について語ってみたい。 私が「少女革命ウテナ」の面白さにのめり込んだのは 16話の「七実のカウベル」から。 16話は七実が良いファッションだと思い、自分の首にカウベルを付ける展開。 そしてカウベルに引っ張られるように七実は牛化し、結局はウテナに倒される。 比喩ではなく七実が牛になってしまうのだから恐れ入る話だ。 「身なりは人を変える」という風刺的な意味合いを突きつけた話。 それ以上に「少女革命ウテナ」は時と場合によっては キャラクターが牛にもなれる揺るがぬ事実を突きつけた。 ウテナの発想の自由さと飛躍性に強く心を惹かれた。 緊張と緩和、あるいはシリアスとギャグ ウテナは、キャラクターの感情・内面を鋭く描く。 一方で七実が活躍する「カレーなるハイトリップ」「七実のカウベル」「七実の卵」は 発想の飛躍がすさまじいギャグものだ。 ウテナはシリア

    「少女革命ウテナ」における七実回の重要性。あるいは緊張と緩和。
  • WHTE ALBUM2 2話の演出解説―顔を映さない描写の意図とは

    はじめに ホワイトアルバム2 2話を視聴。演出の見事さに舌を巻いた。 それはキャラクターの顔を見せない演出のこと。 今回はこの事について触れてみたい。 序盤・中盤で顔を見せない演出を積み上げる雪菜、春樹 まず序盤、中盤の春希と雪菜、もしくは雪菜を顔の映し方について見てみたい。 ずっと見ていて気になっていたのが、雪菜の顔を映さないように カメラの位置を低くして描写したものが多かったこと(顔を映すシーンももちろんある) 最初は、雪菜の下半身を見せたいサービスかと思っていたが、 雪菜の服の着替え以外は映し方が淡白な印象だ。つまり他の意図があると思った。 そんな顔を映さない描写を続けながら、 物語は雪菜が徐々に春希の説得や態度に心動かされながら、 雪菜の揺れ動く心を描いていたのも魅力的だった。 例えば、春希が雪菜が八百屋で働いている事を知りながら その事を知られていないと思っていた雪菜に突きつけた

    WHTE ALBUM2 2話の演出解説―顔を映さない描写の意図とは
  • URA演出とシャフトという器-<物語>シリーズ セカンドシーズン 5話

    物語シリーズ セカンドシーズン 5話を視聴。 羽川は失恋したかったのだと思う。 好きも嫌いもなく、嫉妬や妬みといった感情を切り離してきた彼女が はじめて負の想いを、自分の心に抱き受け止める瞬間。 その失恋の痛み、心の痛みを描き、 そこからの羽川の始まりを描くのが、今期の<物語>シリーズだった。 私が<物語>シリーズを見続けているのは、様々な要素はあるにせよ 最終的にはとてもシンプルな恋物語で最後は収斂する所が好きだからだ。 その意味では「何」を伝えるより、「どう」伝えるかに心を砕いた作品なのだと思う。 そして羽川の手紙部分の演出は作のOPも手がけているURAさん。 ゲーム「いただきじゃんがりあんR」のOPっぽいカットの繋ぎ方や画作りをしていて (特にマンガの吹き出しや羽川のプロフィールが描かれているのはURAさんっぽい) 今回のコンテ・演出はURAさんかなぁ、OPもやってるし編をやるの

    URA演出とシャフトという器-<物語>シリーズ セカンドシーズン 5話
  • 庵野秀明の「メカと美少女」理論から見る宮崎駿の「風立ちぬ」の構造

    宮崎駿監督の最新作「風立ちぬ」を鑑賞。 大まかにいえば、前半は零戦の設計者である堀越二郎の半生をベースに、 後半は堀辰雄の風立ちぬをベースにして 結核に犯された里見菜穂子とのラブロマンスを描いた作品だった。 また宮崎監督の前作の長編「崖の上のポニョ」では水と海を描いた作品であり 作では、風と空を描いた作品になっていたのが面白かった。 さらにいえば「風立ちぬ」の水が「ポニョ」を踏まえた表現だったのが技術的に面白かった。 また堀越次郎の顔の骨格が「天空の城ラピュタ」のムスカ大佐と似ていたので、 二郎をムスカの若かりし頃の時代の存在、もしくは生まれ変わりだと思えたので面白かった。 さて全体的に気になったのは、前半の堀越二郎の夢と仕事の物語が 後半では一転したかのようにラブロマンスに変わっていったのが気になった。 そもそもなぜ堀越二郎と堀辰雄という 全く別の二人をモデルにして一人のキャラにまとめ

    庵野秀明の「メカと美少女」理論から見る宮崎駿の「風立ちぬ」の構造
  • 日本のアニメ制作会社の従業員数を調べてみる

    はじめに アニメの制作会社の従業員数が気になったので、 まずは元請・グロス請け実績有りの制作会社の従業員数を調べてみた。 アニメ業界大手の従業員数 最初に比較的規模が大きいと推測されるであろう会社を ソースは帝国データバンクの下記サイトより選んでみた。 アニメ制作会社の経営実態調査 (帝国データバンク) 以下、各会社の従業員数である。各会社の公式HP内の数字を中心に掲載した。 東映アニメーション 株式会社 [連結]521名[単体]304名(2012年3月末現在) 株式会社 スタジオジブリ 300名 株式会社 サンライズ 224名 株式会社 トムス・エンタテイメント 166名(平成24年6月末現在/単体) 株式会社 オー・エル・エム 137名 (2013年3月現在) 株式会社 プロダクション・アイジー 120名 株式会社 ガイナックス 83名 株式会社 マッドハウス 約70名(契約社員含む)

    日本のアニメ制作会社の従業員数を調べてみる
  • 逆襲のシャアとF91に存在する四人の富野由悠季

    はじめに 「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」と「機動戦士ガンダム F91」には共通点がある。 それは作中に富野由悠季監督自身を投影する存在が 二人(計四人)いて、大きく物語に関わる点である。 逆襲のシャアではシャアとアムロの二人。 F91ではカロッゾ・ロナ(鉄仮面)とシオ・フェアチャイルドの二人が該当する。 この各二組の関係と富野監督の関係について考えてみたい。 逆襲のシャアの二人の富野由悠季-シャアとアムロ まず逆襲のシャアの二人について。 アクシズを落とし人類を粛清しようとする、性急的なシャア。 一方で人類にシャアほど絶望はしていない、漸進的なアムロ。 富野監督にとってシャアは自身の理想の投影であり、アムロは現実の投影である。 そしてアクシズを巡り、理想のシャアと現実のアムロの二人が せめぎ合うのが、逆襲のシャアの根的な構造だ。 まず富野監督の理想はシャアを見る限り、組織のトップにな

    逆襲のシャアとF91に存在する四人の富野由悠季
  • 革命機ヴァルヴレイヴ11話とOVERMANキングゲイナー11話が完全に一致―親子のモニター越しの会話劇について

    革命機ヴァルヴレイヴ11話を視聴。今回も面白い。 物語のクライマックスは、ショーコが父親のリュージとモニター越しで再開する場面。 父親が殺されることをいきなり突けつけられるショーコ。 そして状況が刻々と変化する中、父は娘に話しかける。 この親子の再開/やり取りは、 元ジオール総理大臣「指南リュージ」。 新生ジオールの総理大臣「指南ショーコ」。 という新旧ジオールの総理大臣二人の対面でもあった。 政治家として、いや大人として、それ以上に親として、 父は娘に前を向くスタンスを伝え、娘は状況に狼狽する。 みんなが生きるために戦い続けるか、もしくはショーコが手を引くか そんな選択肢を選ぶ時間も殆ど無い中、 結局、ヴァルヴレイヴの「ハラキリブレイド」の断裁により父は死ぬことになった。 父親の死とみんなが勝利を喜ぶシーンのかぶせ方。ショーコが選択を選ぶ時間の無さ。 状況が変化するスピードのめまぐるしさ

    革命機ヴァルヴレイヴ11話とOVERMANキングゲイナー11話が完全に一致―親子のモニター越しの会話劇について
  • 富野由悠季監督と安彦良和さん、湖川友謙さんの関係性について

    はじめに 「機動戦士ガンダム」の中心アニメーターにして、 今は漫画家として活躍されている安彦良和さんの 「機動戦士ガンダム」の原画集が庵野秀明監督編集の元、 5/31に発売されているようだ。 日の代表的なアニメ作品の一つである「機動戦士ガンダム」。 安彦さんが描くキャラクター、メカニックに惹かれて 「機動戦士ガンダム」を支持しているファンも多いと思われるし、 安彦さん抜きに「機動戦士ガンダム」は語れない。 さて今回は安彦さんと「機動戦士ガンダム」の総監督である 富野由悠季監督の関係について私見を述べてみたい。 さらに富野監督と湖川友謙さんの関係を比較することで、 富野監督と安彦さん、富野監督と湖川さんの それぞれの関係性を見ながら考えてみたい。 梶原原作におけるちばてつやさんと川崎のぼるさんの関係と比較して考える 私が富野監督と安彦さん、そして湖川さんの関係を考える時に 梶原一騎原作にお

    富野由悠季監督と安彦良和さん、湖川友謙さんの関係性について
  • 「革命機ヴァルヴレイヴ」4話に見る「手」の描写の演出意図

    はじめに 「革命機ヴァルヴレイヴ」4話は「手」の演出が印象的だった。 今回は手の描写の演出意図について書いてみたい。 手の描写の演出意図 指南ショーコがヴァルヴレイヴの手に立ちながら 学生たちをアジテートするシーンにおいて 学生たちを独立の機運に導き、ハルトに向かってピースをした時に 「この回は手がキーワードの一つなんだろうなぁ」と感じた。 強さの象徴であるメカの手の上に乗り、手でピースを行うカリスマ的なヒロイン。 メカとキャラをこの対比で描くのかと、とても感心してしまったシーンである。 そして手の演出描写の意図は、何か掴み取ることをあらわす為である。 今回でいえば独立を掴み取る意志の表現であり、 作のタイトルの一部にもなっている「革命」にも繋がり、 最終的には革命を掴み取る意志を「手」で表現したかったともいえる。 さらにいえば、ピースの形はVの字、ヴァルヴレイヴのVでもある。 以上のよ

    「革命機ヴァルヴレイヴ」4話に見る「手」の描写の演出意図
  • コミュニティの崩壊と結成から見る「俺の妹がこんなに可愛いわけがない。」3話

    俺妹3話は、沙織・バジーナの話。 むしろ槇島沙織の話といった方がよいのかもしれない。 そしてオタクサークル的コミュニティの描写と崩壊の描かれ方が秀逸だった。 12歳頃の沙織は体が弱く、そんな沙織を姉の香織は連れ回していたようだ。 ただ今回、香織が沙織を連れまわす場所は今までと違っていた。 香織は親の資産であるマンションの一室を オタクサークルの集まりの場として使い、沙織をそこに紹介する。 マンション先で出会ったのは、香織のサークル仲間達。 そこで沙織は人と話すにも顔を隠しながら自己紹介する。 この顔を隠す描写でもわかるように、沙織は顔を隠す性質があるようだ。 グルグルメガネを付けるのもその一環。 そんな香織達の仲間の中でも、沙織の今後の方向性を決定づけたのが彼方だ。 それはこのメガネを見れば一発でわかる形。 彼方は沙織と親しくしてくれたようで、他の香織の仲間達が、 沙織を香織の妹という形で

    コミュニティの崩壊と結成から見る「俺の妹がこんなに可愛いわけがない。」3話
  • 革命機ヴァルヴレイヴ1話に見る富野由悠季的カットイン

    革命機ヴァルヴレイヴ1話を視聴。面白かった。 主人公がヒロインの好きな女の子と結ばれそうになった瞬間に、 そのうちもう一人の主人公にとってのヒロインになるであろうの男の子に寝取られる、 逆レイプされるような展開であり、分断と結合が一緒に訪れる感じが面白かった。 あとニンゲンヤメマスカは、 ローゼンメイデンの「まきますか、まきませんか?」が元ネタではないかと思った。 メカ戦闘や学園シーンのビジュアルも充実しており、千住明さんの音楽と そして手練手管な松尾衝さんの演出が見事に合致していたと思う。 さて、松尾監督はヴァルヴレイヴで富野由悠季的なカットインを2回使っていた。 ちなみに富野由悠季的カットインはこんな感じ。 (ブレンパワード) 松尾さんが以前手がけたOVA「ガンプラビルダーズ」でも同様のカットインが使われていた。 ただあれはガンダムっぽい演出を要請された側面もあったようにも見えたが、

    革命機ヴァルヴレイヴ1話に見る富野由悠季的カットイン
  • 声に出して読みたい 機動警察パトレイバー 2 the Movie

    という台詞は使われるタイミングも含め名台詞中の名台詞だと思うが、 こうしたカッコイイ台詞は、実際に使ってみたいものが多いと思う。 他にも下記のように 「戦線から遠退くと楽観主義が現実に取って代る。そして最高意志決定の場では、現実なるものはしばしば存在しない。戦争に負けている時は特にそうだ」 「舞台はミスキャストで一杯。誰もその役を望んじゃいないのにな。素敵な話じゃないか。これが俺達のシビリアンコントロールってやつさ」 「スタンドアローンで制御不能な兵器などナンセンスだからな」 「戦争はいつだって非現実的なもんさ。戦争が現実的であったことなど、ただの一度もありゃしないよ」 「一つ教えてくれんか。これだけの事件を起こしながら、何故自決しなかった?」 こうした台詞はネット上でも書き込みたくなるし、人と話す時に使いたくもなる。 またパト2好き同士で話す時は特にそうだ。 たとえば、私は友人が何か物事

    声に出して読みたい 機動警察パトレイバー 2 the Movie
  • たまこまーけっとは日常が非日常を取り込む物語~京都アニメーションが目指すもの~

    はじめに みどりさんが可愛かった、たまこまーけっと最終回。 結論からいうと、最終回を見て思ったのは たまこまーけっとは、日常が非日常を取り込んだ話である。 この日常とは、たまことたまこの関係者全て、うさぎ山商店街であり 非日常とは、つまりデラという存在そのものであるとする。 つまりたまこまーけっとは、たまこ達うさぎ山商店街が、デラを取り込む話だということだ。 この事の意味を、京都アニメーションの他作品も含めて考えてみたい。 うさぎ山商店街から出られないデラ 私が日常が非日常を取り込む話だと感じたのは、 デラがうさぎ山商店街を去ろうと人知れず立ち去っていくのに 結局、たまこ達の元へ戻ってしまい、物語が終わる展開だからだ。 (花の匂いを嗅ぎそのまま眠り、ダンボール箱に包まれ、たまこの元へ戻るデラ。) デラは外へ出ようと自ら望んだのにも関わらず、運命はたまことデラを引き離さない。 さらにダメ押し

    たまこまーけっとは日常が非日常を取り込む物語~京都アニメーションが目指すもの~
  • 逆襲のシャアにおける、ミライの重要性についての考察。

    機動戦士ガンダム逆襲のシャアにおける、ミライさんについての考察をしたい。 まずミライ・ノア(旧:ミライ・ヤシマ)は、逆襲のシャアの中において、 主役のアムロ、シャアは別として、脇役のクエスやナナイと比べても 登場数やセリフ数がキャラに比べて少ない。 しかしミライは作品内において、極めて重要な役割を握ったキャラクターといえる。 その理由を解き明かしていきたい。 ・母親を求めたシャアと母親になったミライ シャアは最後の最後でアムロに 「ララァ・スンは私の母になってくれるかもしれなかった女性だ。 そのララァを殺したお前に言えたことか」 という告白をする。今まで道化を演じ音を隠してきた シャアの当の意味での最初で最後の音だといえるだろう。 ではこのシャアが言った「母親」について考えるとき、 誰が宇宙世紀ガンダムで母親なのか/なったのかと考えた場合 母親に該当する女性がミライだけだからである。

    逆襲のシャアにおける、ミライの重要性についての考察。
  • 1