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ブックマーク / blog.goo.ne.jp/514303 (17)

  • 乳バンドと乳カバーは違う - 礫川全次のコラムと名言

    礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。 ◎乳バンドと乳カバーは違う 昨日、何気なく見た番組によると、太平洋に浮かぶパラオ諸島では、今日でも、日語に由来する言葉が使われているようだ。「おいしい」は「アジダイジョブ」、「ビール」は「ツカレナオス」、「ブラジャー」は「チチバンド」など。 「チチバンド」で思い出したが、一九三〇年(昭和五)発行の『薬草薬木家庭療病宝鑑』(婦女界社)に、大阪・秋岡金虎堂の「赤線印 乳バンド 特許品」の広告が載っている。当時はブラジャーという言葉がなく、「乳バンド」と呼ばれていたらしい。 興味深いのは、その「赤線印 乳バンド 特許品」の左隣には、「赤線印 乳カバー」というものも紹介されている。このふたつは、形状こそ似通っているが、用途が異なるのである。 まず「赤線印 乳バンド 特許品」の

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  • 「日本われぼめ症候群」について - 礫川全次のコラムと名言

    礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。 ◎「日われぼめ症候群」について 今月一四日の日経済新聞「大機小機」欄に載った「日われぼめ症候群」という記事を読み、久しぶりに同紙の知性を感じることができた。 最初の方を引用してみよう。 雪の日、中宮の定子が「香炉峰(こうろほう)の雪は?」と問うた。即座に白居易の詩をなぞり御簾(みす)をあげさせたら、中宮は破顔、同僚の女房らは感嘆しきり。枕草子には作者である清少納言の「われぼめ」エピソードが多い。 「日のわれぼめ」と呼べそうなテレビ番組が増えた。いずれも外国人の手を借りるのがミソで「世界が驚いたニッポン! スゴ~イデスネ!!視察団」「YOUは何しに日へ?」などなど。 番組のホームページの能書きに「外国人の視点だからこそ、さらに浮き彫りになる日のスゴさ」(視察団

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  • 和田秀樹氏、郡山で官僚批判を展開 - 礫川全次のコラムと名言

    礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。 ◎和田秀樹氏、郡山で官僚批判を展開 昨日の続きである。昨日のコラムでは、菅原文太さんと和田秀樹さんが、福島県知事選に出馬した熊坂義裕候補のために、決起大会の応援弁士を務めたという話を紹介した。 日は、「et5652さん」のブログにあった「福島県知事選が終盤戦に突入~菅原文太を応援弁士に招いた熊坂陣営」という記事(一〇月二四日)から、和田秀樹さんの演説内容をまとめている部分を紹介させていただきたい。 10月26日投開票の福島県知事選に立候補している熊坂義裕(元宮古市長)が10月23日、郡山市文化センターで決起大会を開いた。応援弁士は和田秀樹(精神科医)、菅原文太(元俳優)、荒井広幸(参院議員)、白岩康夫(寿泉堂クリニック名誉院長)の4人。和田と熊坂の関係はよく分からない

    和田秀樹氏、郡山で官僚批判を展開 - 礫川全次のコラムと名言
    yajifun
    yajifun 2014/12/24
    “長州の安倍晋三首相が” こういう言葉で福島県人がアツくなると思ってる所がどうにもこうにも…
  • 『トラ・トラ・トラ!』撮影にまつわるウラ話 - 礫川全次のコラムと名言

    礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。 ◎『トラ・トラ・トラ!』撮影にまつわるウラ話 柏木隆法氏の個人通信「隆法窟日乗」は、あいかわらず快調である。それにしても、氏の記憶力と筆力に驚く。それ以上に、その反骨精神・批判精神に敬服せざるをえない。 日は、一九七〇年公開の20世紀フォックス映画『トラ・トラ・トラ!』の撮影にまつわるウラ話を紹介させていただこう。引用は、「隆法窟日乗(10月1日)」、通しナンバー174~175より。 ちなみに、この映画は、基的にアメリカ映画であるが、監督・脚には日人スタッフも参加した。日側のシークエンスは、一九六八年の一二月から、太秦〈ウズマサ〉の東映京都撮影所で撮影された。その年のうちに、日側の監督・黒澤明が降板し、大きな話題となった。 【前略】また拙〔柏木隆法氏の一人称

    『トラ・トラ・トラ!』撮影にまつわるウラ話 - 礫川全次のコラムと名言
  • 乃木将軍と盆踊り - 礫川全次のコラムと名言

    礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。 ◎乃木将軍と盆踊り 先日、某古書店の百円均一の平台で、清水文弥〈ブンヤ〉著の『郷土史話』(邦光堂、一九二七)というを見つけた。この「郷土」というのは、野州那須郷のことである。読んでみると、なかなかおもしろい日は、そこから、乃木稀典〈マレスケ〉と盆踊りの関わりについて触れている文章を引いてみたい。 三、盆 踊 明治二十七八年の頃、時の政府は盆踊を野卑のものであるとの理由の下に、全国一斉に禁止した。ところが、此の盆踊なるものは其の元来の主旨なるものが、先祖の供養にあるので、単に野卑であるといふ一理由で之を禁止するといふことは、甚だ当を得ぬといふやうな議論が、さかんに巷間に伝へられ他面その禁止令の如き極めて徹底せぬ風が見へたが、果然その後十年を出でずして、又元の通り禁

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  • 内村鑑三「末松男爵と人糞事件」(英文) - 礫川全次のコラムと名言

    礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。 ◎内村鑑三「末松男爵と人糞事件」(英文) 昨日の続きである。内村鑑三は、一八九九年(明治三二)二月一三日、今度は『万朝報』で、この「人糞事件」を採り上げている。よほど、この事件に関心を払っていたものと思われる。タイトルは、BARON SUYEMATSU AND NIGHT-SOIL AFFAIA(末松男爵と人糞事件)である。この英文は、『内村鑑三全集』第六巻(岩波書店、一九八〇)に載っているが、翻訳はついていない。一方、道家弘一郎〈ドウケ・ヒロイチロウ〉訳『内村鑑三英文論説 翻訳篇 下』(岩波書店、一九八五)には、その翻訳が載っている。 日は、道家弘一郎氏による、その翻訳を紹介してみよう。これによると、事件が起きたのが「去る十二月下旬」であるかのようにも読めるが、事件

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  • 人糞事件を和歌に詠んだ内村鑑三 - 礫川全次のコラムと名言

    礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。 ◎人糞事件を和歌に詠んだ内村鑑三 昨年の一〇月三日、このブログに、「内村鑑三、和歌を引いて黒岩涙香の要請に応ず」というコラムを書いたことがある。一八九七年(明治三〇)初頭、内村鑑三は、『万朝報』〈ヨロズチョウホウ〉の社主・黒岩涙香〈ルイコウ〉から、入社の要請を受けた。最初は固辞していた内村だったが、黒岩のたっての頼みに対し、黙考久しく、ついに頼みを受け入れた。 受諾に際し、内村は、一首の和歌を引用した。 「思ひきや我が敷島の道ならで浮世の事を問はる可しとは」 さすがは明治の教養人である。もちろん私も知らなかったのだが、この歌は、『太平記』にあるもので、二条中将為明〈タメアキラ〉が詠んだものだという。後醍醐天皇の倒幕計画が洩れたとき、その側近であった為明は、「思ひきや我が

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  • 高堂国典、老人役で無言の名演技 - 礫川全次のコラムと名言

    礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。 ◎高堂国典、老人役で無言の名演技 昨日の続きである。中村登監督の映画『我が家は楽し』(松竹、一九五一)で、植村家に「三番目」に起きる事件は、家主からの立ち退き要求である。 一家が住んでいる家は借家で、家主は隣家の金沢老人。これを演じるのが、名優の高堂国典〈コウドウ・クニノリ〉である。家主の親戚を、ここに住まわせるということで、急に立ち退かざるを得なくなったのである。 引っ越し荷物をまとめ、いよいよ明日は家を明け渡すというその日になって、意外な展開となり、そのまま、ラストに向かう。まだ、この映画を見ていない人のために、具体的な話は避ける。だだ、最後の「意外な展開」には、様々な伏線が張られていて、この展開は、それほど意外ではない。なお、その伏線のひとつは、「犬」である。今後

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  • ツンベルグが驚愕した近世日本の人糞尿肥料 - 礫川全次のコラムと名言

    礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。 ◎ツンベルグが驚愕した近世日の人糞尿肥料 話を、津下剛〈ツゲ・タケシ〉の『近代日農史研究』(光書房、一九四三)に戻す。同書の末尾に収録されている論文「外国人の観たる近世の日農業」(初出、一九三〇)は、実に興味深い労作で、津下剛の学風を推測するに足る。 日は、その一部を紹介してみたい。 肥料 日農業に於ける肥料の基的なものは人糞尿である。このことは少からず彼等を驚かした。それは真に〈マサニ〉“Smell so strong,that foreigners,chiefly Europeans,cannnot bear them”であり、彼等が視覚によつて十二分に楽しんだ日の風光は、嗅覚のために高い税を支払はされてしまつた訳でもあつた。このやうな肥料についてケン

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  • 『ことわざの話』抜刷本(1930)と柳田國男の神経 - 礫川全次のコラムと名言

    礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。 ◎『ことわざの話』抜刷(1930)と柳田國男の神経 柳田國男の「ことわざの話」の初出は、折口信夫・高浜虚子・柳田國男『歌・俳句・諺』(一九三〇年一月)である。これは、アルスの「日児童文庫」の64にあたる。 この『歌・俳句・諺』のうち、柳田國男の「ことわざの話」のみを製した『ことわざの話』というがある。「定柳田國男」の書誌に、「児童文庫の著者贈呈用別刷」とあるのがそれである。 先日、国会図書館で、この「別刷」を閲覧したところ、次のような事実がわかった。 〇表紙の上部には、横組右書き二段で、「ことわざの話」、「柳田國男著」とある。 〇表紙の下部には、「ARS」とある。 〇巻頭に、「まえがき」風の文章および正誤表が印刷された一枚の紙が貼り付けられている。 〇

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  • 「無実の罪で苦しむのも因縁」と諭された免田栄さん - 礫川全次のコラムと名言

    礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。 ◎「無実の罪で苦しむのも因縁」と諭された免田栄さん 一九九〇年代後半のことだったと思うが、文京区民センターで開かれた何かの集会で、元死刑囚の免田栄〈メンダ・サカエ〉さんの講演をお聞きしたことがあった。 今でも印象に残っているが、このとき免田さんは、概略、次のようなことを言っておられた。――刑務所にやってくる教誨師(僧侶)に、自分は無実だということを訴えたが、いくら訴えても聞いてもらえない。かえって、「あなたは無実の罪で死刑になる宿命にある」と諭され、絶望的になった。さいわい、キリスト教の教誨師もいて、その人が、自分の話を聞いてくれたうえ、再審を手助けしてくれた。 無実の罪で処刑されようとしている死刑囚に対して、「あなたは無実の罪で死刑になる宿命にある」という教誨師がいた

    「無実の罪で苦しむのも因縁」と諭された免田栄さん - 礫川全次のコラムと名言
    yajifun
    yajifun 2013/08/25
    “因縁を甘んじて受け入れることが、仏の意図に添うことになる”
  • 年間、二体ぐらい、起き上がってゆくのがある - 礫川全次のコラムと名言

    礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。 ◎年間、二体ぐらい、起き上がってゆくのがある 日も、インタビュー記録「ホトケを送って35年 及川一男」の一部を紹介する。『歴史民俗学』第一九号(第一刷、二〇〇一年三月二五日:第二刷、二〇一三年六月三〇日)に載っているもので、引用箇所は、昨日、引用した箇所のすぐあとである。 小林 その焼き方のコツですが、やはり、火を絞るタイミングですか。最初、火を強くして……。 及川 そう、そう、その通り。最初は、ワッと火を強くして、釜を早くあっためねばならないから。 小林 どのくらいたったら、火を絞るんですか。 及川 三〇分ぐらいで絞ります。そうすると、お棺も、着せていた着物も、形見に入れた物も、全部なくなって、ホトケさんが当に裸で出はる。そういうふうにならないと、絞られないわけだ

    年間、二体ぐらい、起き上がってゆくのがある - 礫川全次のコラムと名言
    yajifun
    yajifun 2013/07/07
    “マッチ棒だって、燃やせばシュルシュルって曲がるでしょ。”
  • 森有礼の国語全廃論と馬場辰猪の国語擁護論 - 礫川全次のコラムと名言

    礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。 ◎森有礼の国語全廃論と馬場辰猪の国語擁護論 明治期に、森有礼〈アリノリ〉が、国語全廃・英語採用を唱えたことは知っていたが、それに対して、馬場辰猪〈タツイ〉が、国語擁護の立場からを出版していたことは知らなかった。 以下は、山田孝雄〈ヨシオ〉『国語史要』(岩波全書、一九三五初版)からの引用。 かやうに、前二者〔佐藤誠実『語学指南』、里見義『雅俗文法要覧』〕は口語にも法則があるといふことを示したけれども、それらは一局部の事であつた。真に口語全般にわたつて法則を述べたものは馬場辰猪の日文典初歩である。この日文典初歩はたゞ日文法の為のみに著したものでは無くして、わが国語の死活問題と深い関係にあるものである。明治の初め、森有礼が弁理公使として亜米利加〈アメリカ〉合衆国に居つ

    森有礼の国語全廃論と馬場辰猪の国語擁護論 - 礫川全次のコラムと名言
    yajifun
    yajifun 2013/06/17
    “国語を全廃して英語を以て国語としようと考へて意見を発表して、欧米の学者の意見を求めた”
  • 富山の薬売りが教えた道の歩きかた - 礫川全次のコラムと名言

    礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。 ◎富山の薬売りが教えた道の歩きかた 最高裁判所の判事として知られた斎藤悠輔〈ユウスケ〉は、生前、朝日新聞の野村正男記者のインタビューに答え、中学生時代、富山の薬売りから、「道の歩きかた」を教わった話を披露している。 野村正男『法曹風雲録』下巻(朝日新聞社、一九六六)から引用してみる。 「その歩くのにはいろいろな方法というものがあるのですね。ぼくが中学二年ぐらいのときに、郷里〔山形県西田川郡温海町〕から鶴岡という中学〔庄内中学校〕のあるところまで約十里の間を時々歩いておったのです。ある日、その途中で越中富山の薬売りに会ったのですよ。その薬売りが私を呼止めて〟おい若いの、わしのうしろについていっしょに歩いてごらん、そうすると明るいうちに鶴岡へ着く〟というのです。そして歩きな

    富山の薬売りが教えた道の歩きかた - 礫川全次のコラムと名言
    yajifun
    yajifun 2013/06/13
    “なお、斎藤は、思想的には、一貫して右側を歩いた人だった。”
  • 羽仁吉一が二重橋にお詫びに向かった理由 - 礫川全次のコラムと名言

    礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。 ◎羽仁吉一が二重橋にお詫びに向かった理由 終戦の玉音放送のあと、宮城前でひれふす人々があらわれたことについて、法学者の星野安三郎先生(故人)は、「アレは動員だよ」と言われた。詳しく聞いておかなかったので、その根拠はハッキリしない。傍証となる資料「特検機第二〇三号」はいただいたが、星野先生が、この資料をもとに、そのような断定をおこなったのか、あるいは、他に何らかの根拠や知見があって、そう断定したのか、このあたりのことはわからない。 さて、昨日紹介した資料「特検機第二〇三号」は、よくわからないところが多いが、一応、次のように捉えてみた。 冒頭に、「日ノ廟議ニ基キ、現下ノ情勢ニ即応シ閣議ニ於テ大要左記ノ通リ輿論指導方針決定セルニ付、右ニ依リ措置シ遺憾ナキヲ期セラレ度」とある

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  • スター軍籍簿(『ゴシップ10年史』より) - 礫川全次のコラムと名言

    礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。 ◎スター軍籍簿(『ゴシップ10年史』より) 九日のコラムで、内外タイムス文化部編『ゴシップ10年史』(三一新書、一九六四)というを紹介した。このは、巻末の「付録」が非常に充実している。その付録のひとつに、「軍籍簿」というのがあった。芸能関係者の戦中における「兵隊の位」の一覧である。日はこれを紹介してみよう。 軍籍簿 名 前    兵隊の位  参考表 三輪礼二   海軍少佐  現プロデューサー。指揮掌握力ややにぶる。 松林宗恵   海軍大尉  「人間魚雷回天」が最高傑作。戦後は遠くなりにけり。 鶴田浩二   海軍中尉  兵隊より市井遊侠のニイサンの方がうまい。 西村 晃   海軍中尉  学徒出陣組だが、陸軍伍長や、刑事役の方が多い。 池部 良   陸軍中尉  終戦直

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  • 殷王朝の崩壊と大日本帝国の崩壊(白川静の初期論文を読む) - 礫川全次のコラムと名言

    礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。 ◎殷王朝の崩壊と大日帝国の崩壊(白川静の初期論文を読む) 今、机上に『立命館文学』の第六二号(一九四八年一月)がある。文六四ページ、紙質が悪かったらしく、すでに黄色く変色してしまっている。 そんな粗末な雑誌であるが、白川静〈シラカワ・シズカ〉の初期の論文「卜辞の質」が載っていることで、私にとっては、万金の価値がある。 当時の白川静の肩書は、立命館専門学校教授である。ちなみに、歴史家の奈良辰也〈ナラモト・タツヤ〉は、同誌同号に「石庭雑感」というエッセイを寄せているが、彼の当時の肩書は、「立命館大学教授・立命館専門学校教授」である。肩書においては、年少の奈良辰也(一九一三~二〇〇一)のほうが、年輩である白川静(一九一〇~二〇〇六)をリードしていたようである。 白川

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