NYCのJapan Societyが恒例のショーケースと関連させるような形で日本と東アジアのコンテンポラリーダンスに関するビデオ映像集をリリースしています。モダン出身のアーティストも入っていればと思いますが、面白いクリップです。 (公式サイトより引用) (公式サイトより引用) 関連記事: 東野祥子インタビュー http://www.cinra.net/interview/2008/06/19/210345.php
この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2022年3月) セル・オートマトンの一種ライフゲームで、ゴスパー(英語版)のグライダー銃がグライダーを放っているところ[1] セル・オートマトン(英: cellular automaton、略称:CA)とは、格子状のセルと単純な規則による、離散的計算モデルである。計算可能性理論、数学、物理学、複雑適応系、数理生物学、微小構造モデリングなどの研究で利用される。非常に単純化されたモデルであるが、生命現象、結晶の成長、乱流といった複雑な自然現象を模した、驚くほどに豊かな結果を与えてくれる。 正確な発音に近いセルラ・オートマトンとも呼ばれることがある。セルは「細胞」「小部屋」、セルラは「細胞状の」、オートマトンは「から
日本人は集団主義的である。 この言明は、だいたい事実だと思われていて、その一方でアメリカ人は個人主義的であり、西欧の多くの国の人たちも、やはり個人主義的であると言われる。 ぼくはこのことについて、ある程度のリアリティを感じつつも、程度の違いや分布の違いであり、そんな決定的な差として語るのは適切ではないと思ってきた。 また、実際、911直後のアメリカでの愛国の嵐は報道を通じてではあるけれど目の当たりにしたし、マッカーシズムの吹き荒れた頃には、反全体主義の名のもとに、集団主義的な行動が社会をしたのではないかとも感じてきた。 アメリカ人は個人主義ってういうけれど、ちょっとボタンを押してあげれば簡単に集団行動になっちゃうじゃないって。 けれど、本書では、ぼくが感じてきたことをはるかに越えて、「日本人は集団主義、アメリカ人は個人主義」というのが錯覚だという。 痛快だ。 まず、過去の日本人論を論じ、日
asahi.Com http://www.asahi.com/obituaries/update/0527/TKY200905270111.html 訃報を知り、驚いている。 第9回本格ミステリ大賞の受賞者記者会見で、私は話した。江戸川乱歩のような過去の作品は子どもの頃から読んでいたが、同時代に生み出されたミステリを読んだのは栗本薫『ぼくらの時代』が初めてだった、と。同じく、同時代の文芸評論で読んだ最初の一冊は、中島梓『文学の輪郭』だった、と。今思えば、文芸・音楽評論家と称する円堂都司昭のジャンル横断体質は、初期の中島梓/栗本薫から受けた影響が大きい。 しかし、結局、本人にお会いすることのないままだった。 ご冥福をお祈りします。 『「謎」の解像度』のコンセプトからはズレていたため収録しなかったが、自分は過去に約60枚の中島梓/栗本薫論を書いたことがある。 http://noririn414
→紀伊國屋書店で購入 「翻訳を切り口に国語の成立をたどる」 東京育ちで、両親も、その親も東京の人で田舎というものを持ったことのない私には、方言で育った人が標準語をしゃべるときの違和感は実感としてわからない。でも英語を話しているときは、それに似たものを思いっきり味わう。 英語は何事もはっきり言い切ることを求める言語で、曖昧さをゆるさない。そう思わない部分が少しあったとしても、「そう思います」と答えることで相手とのコミュニケーションがころがっていく。言い切った直後は日本語で思い惑っていた自分を裏切ったような後ろめたさを感じるが、何度かそういう場面を繰り返すうちに、英語で話している人格が調子づいてきて、しれっと言い切れるようになる。ある言語を使うことは、その言葉がもっている論理や感情や感覚に入っていくことなのだ。 ビジネスが目的なら、割り切れる言葉で言うほうが商談がスムーズになるだろう。学問の世
以下は、ちょっと前に『かざぐるま』(2009年4月号)という神奈川県の障害者福祉関係のニュースレターに掲載された書評です(字数の関係で削った部分を復元してあります)。 高岡健『やさしい発達障害論』書評 題名に反して、本書は「啓発」の本ではない。事実氏は言う。「本書は、多くの発達指南書とは、一線を画しています」。もちろん高岡氏は、精神医学の科学的知見や蓄積を放棄しない。しかし、氏が目指すのは逆に「分断線を消し去る」ことである。発達障害と知的障害、発達障害のある人とない人の間の分断を、また軽度発達障害などの新しい細分化を、氏は繰り返し批判する。本書の一見平易な言葉の底にあるのは、「発達障害」という言葉の周囲で加速度的に生じる強迫的な分断への違和であり、それに加担して稼ぐ専門家や支援者への違和である。 大切なのは、高岡氏が一貫して、障害をめぐる分断を、工業化/高度産業主義化/複雑化という社会−経
「戦争体験」の戦後史―世代・教養・イデオロギー [著]福間良明[掲載]2009年5月31日[評者]保阪正康(ノンフィクション作家)■世代間の記憶 断絶と継承問う 一九四九年に刊行された『きけわだつみのこえ』をタテ軸にして、戦争体験継承の知的作業がどのような意味をもったかを分析した書である。 著者は一九六九年生まれというから、同時代史の観点ではなく、戦後に編まれた関係書のほとんどを読み、そしてまとめたことになる。私は、昭和の一連の戦争を継承するときに、記憶を父とし、記録を母として、教訓という子を産んでそれを伝えるべきだと考えているが、本書は新しい世代による教訓の重みをもつ書でもある。 『きけわだつみのこえ』を編んだ日本戦没学生記念会のメンバーたち、この組織とは別に戦争体験継承を語った論者たち、そこには旧制高校の内省的教養主義から現代青年の傍観者然とした姿まで幾様もの像がある。著者のキーワード
来年も作りたい!ふきのとう料理を満喫した 2024年春の記録 春は自炊が楽しい季節 1年の中で最も自炊が楽しい季節は春だと思う。スーパーの棚にやわらかな色合いの野菜が並ぶと自然とこころが弾む。 中でもときめくのは山菜だ。早いと2月下旬ごろから並び始めるそれは、タラの芽、ふきのとうと続き、桜の頃にはうるい、ウド、こ…
北朝鮮の核実験とミサイル発射に伴って「敵基地攻撃能力」が議論されています。 賛成反対の両意見が盛り上がっています。ですが、そこには日本国憲法が認める自衛権について色々と誤解があるようです。そこで、 いったい、憲法はどこまで自衛と認めているのか? 北朝鮮のミサイル基地を攻撃したら侵略戦争なのか? といった基本的な情報をこの記事でまとめてみます。 「敵基地攻撃論」と「憲法違反論」はどちらがが正しいか? 議論のきっかけは麻生総理が記者の質問に答えた以下の発言のようです。 麻生太郎首相は26日夕、北朝鮮のミサイル発射基地への先制攻撃を想定した敵基地攻撃能力について「一定の枠組みを決めた上で、法理上は攻撃できるということは昭和30年代からの話だ」と述べ、法的には可能との認識を示した。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090526-00000192-jij-po
⇒NHKスペシャル|象徴天皇 素顔の記録 見るつもりはなくて、録画の設定中、天気予報を見ていたら始まり、つい見てしまった。 見て、感動しましたよ。天皇、SUGEEEEですよ。いや、昭和のシーンに明仁さんが出てきて「天皇」と言われると、「ちがうだろ皇太子だ」と脳内コビトが突っ込むのがうざい。 ウヨサヨがお好きな「天皇」というのはさておき、普通に公務をされているリベラルな中産階級の爺さん婆さんの金婚式に至る日々という感じが最高によかったですよ。中産階級なわけはなかろうにというのもあるかもしれないが、その慎ましさはそれだった。 このお二人のお人柄は、もう、どうしようもなくすばらしいものだった。人として優れているのだから、どうしようもないじゃんという以上に、ご努力の姿がきちんと伝わる。 天皇であることには、まあ、公務だしなというくらいに割り切って私は見ていたのだが、いやこの公務はただ事ではない。明
世界的に始まった食糧争奪戦:記者は「菜食主義」宣言 2008年5月14日 経済・ビジネス コメント: トラックバック (0) Brandon Keim Photo: Kris 世界各地で食糧をめぐる暴動が勃発している昨今、菜食主義は動物愛護の1つの手段にとどまらないように思える。菜食主義は、家畜に与えていた穀物を、代わりに人間が食べることであり、できるだけ効率良く食べることを意味するからだ。 私がこんなことを書くに至った経緯を少し説明しておこう。私は肉が大好きだ。大昔から人間は、生物学的に肉が大好物だ。これは私にはどうしようもないことで、正直な話、肉を嫌いになろうと努力したこともなかった(おっと、そう言えば、私のいとこは極端な肉食主義で、黄疸になったのだった。もし人類がもともと肉食なのだとしたら、私の家系はまさしくその最たる例だ)。 年齢を重ねて味覚が発達するにつれ、私は野菜や穀物、果物の
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