yukinontanのブックマーク (156)

  • 子規の庭

    柿喰へば鐘が鳴るなり法隆寺正岡子規の代表句。などと言う必要がないぐらい有名な俳句ですよね。 明治28(1895)年夏、日清戦争に従軍記者として参加し、帰国の戦中で大喀血して病気を悪化させた子規は療養のため故郷の松山に戻ります。当時松山中学の英語教師をしていた夏目漱石の下宿愚陀仏庵で50日余りを過ごし東京へ向かいます。 漱石に借りたお金で旅立った子規は奈良に立ち寄り、この句を詠みました。このあたりの話は、いずれまた書こうと思います。で、何を書くつもりなのかと言いますとですね。 奈良へ!私、奈良に行ってきたんです。ちょっと関西に行く機会がありましたので。時間的には厳しかったのですが、行けるとこまで行ってやろうとまずは法隆寺へ。 分かってはいましたが、修学旅行生がいっぱい。久しぶりでしたのでゆっくり見たかったのですが、時間がないから駆け足駆け足でまわりました。百済観音は何度見てもいいですね。 子

    子規の庭
  • 生きる価値がない

    何も覚えていない前回、財布が空っぽになった話をしました。 彼女の手元には1万7千円しか残っていませんでした。 だけど何も覚えていない。その夜、彼女は仕事でした。 私が気づいたのは彼女が仕事を終えてから。 日中の行動についての記憶も「家にいたような気がする」とあいまいでした。 とりあえず話をしようと伝えて会いに行きました。 「もしかしたら自分が…」 自分のしでかしたかもしれないことの意味に気づいた彼女は意気消沈。 もちろん私も沈んでいましたが… どうでもいいの!「覚えていないのに何を話すの?」 彼女はいらだちを顕わに言い出しました。 「何を?とにかく困るんだ。ちゃんと話を聞きたい」 思わず私も詰問調になってしまいました。 その瞬間、彼女のスイッチが入ったのが分かりました。 しまった!と思ったときには手遅れ。切れ出すとどうにもなりません。 「もう放っておいてよ。どうでもいいの」 自分をコントロ

    生きる価値がない
  • 消えた7万円!

    財布が空っぽ!彼女の懸案を解決し、疲れ切った私はひたすら睡眠を取りました。夜になってやっと目を覚ました私は、コンビニに弁当を買いに行きました。 支払いをしようとしたときの私の衝撃をどう理解してもらえればいいでしょう。 財布が空っぽになっていました! レジでは顔色を変えませんでしたが、当は愕然としていました。いや愕然なんて言葉では足りません。なんと表現すればいいか分からないぐらいの衝撃でした。 記憶がないはっきり覚えていませんが財布には7万円ほど入っていました。朝方、彼女と別れてから家に帰ってからはどこにも行っていません。財布を空っぽにできるのは彼女しかありません。僕のショックが想像できますか? 夕べも、酒を飲んだあとに睡眠導入剤を飲んだと言っていた彼女。不安定な状態にあるのは分かっていました。 「私がお金を持って帰ってても記憶がない状態でやったことなのは分かって。服を洗濯したからもうなく

    消えた7万円!
  • 子規の生涯⑦幼年時代豆知識(2)

    正岡子規幼少期の豆知識(1)の続きです。 好物はカボチャ大いで知られる子規ですが、母八重の談話によると、小さい頃の好物はカボチャでした。 柳原極堂の「友人子規」には父の実家佐伯の伯母の次のような談話が紹介されています。 升さんが幼少の頃遊びに来られて御飯時に膳を出すと「オバタン」「カボタ」があるかな、などと片言いつて一同を笑はせたものださうです 八重の談話をまとめた「子規居士幼時」にも出てきます。 其処(※佐伯家)へ月に二三度行くのを楽しみにして居たが佐伯で何が一番好きかといふと南瓜が一番好きだといふ事でした。菓子物は小児の時から矢張好きでありました。 ただカボチャ好きの理由について、妹律は経済的理由からそうなったとしています。 それから稚い時分、南瓜が好きだったとか言いますが、何分貧乏士族のことで、ロクに魚類などよう買わなかったせいもありましょう(家庭より観たる子規) 朝寝坊子規は小学

    子規の生涯⑦幼年時代豆知識(2)
  • 子規の俳句⑤薫風や大文字を吹く神の杜

    明治30(1897)年の句。先日紹介した柳原極堂の句碑が建てられた松山の井手神社に前からある子規の句碑に刻まれています。「大文字を吹く」。これ読んで分かる人はどれぐらいいるでしょう?私は分からなかったです。 大きな文字を書いて奉納この神社には天満宮を祭ってあり、毎年祭礼の時に字が上手になるように、と子供たちが競って大きな文字の墨書を奉納する風習があったそうです。妹の律と河東碧梧桐が子規を回顧した「家庭より観たる子規」で2人は次のように語り合っています。 (碧)立花神社の大文字-私どもでは、オモジと言っていました。お祭の日に大きな字を書いてあげると、手が上手になるという、昔の話らしい習慣、あれも無論お書きになったのでしたね。 (律)おもじ、私ども女は、オモウジ、と長く引張つたように思います。兄も、きょうはオモウジの日だと、というと、其の日に限って、判紙をついだりしないで、唐紙と言ひましたがか

    子規の俳句⑤薫風や大文字を吹く神の杜
  • 子規の俳句④寝ころんで書読む頃や五六月

    明治29(1896)年の句。「寒山落木 巻五」に入っています。読書の秋などと言いますが、さわやかな初夏にのんびり読書にふけるのもいいもんです。私も枕元に積み上げた子規関係のを適当に取ってはページをめくって楽しんでいます。 子規はこの句を詠む1年前、日清戦争の従軍記者となって現地に赴き、病気を一気に悪化させました。松山での療養を経て秋に東京に戻り、俳句革新などの文学活動を活発化させていきました。 こんなに大望を抱いて死にゆく者がいようかただ明治29年2月には左の腰が腫れて寝たきりになります。3月17日には医師にカリエスと初めて診断されショックを受けます。この日、虚子に宛てた手紙では「貴兄驚き給ふな僕ハ自ら驚きたり」と書き始めます。 覚悟は決めていた。今更驚くこともないともないと思っていたけれども、驚いた。しばらく言葉が出なかった、と打ち明ける子規。その間、頭に浮かんだのは「自分ほど大きな望

    子規の俳句④寝ころんで書読む頃や五六月
  • 子規と漱石③論争!アイデアとレトリック

    「七草集」と「木屑録」。互いの作品批評を通じて認め合った子規と漱石。この時期に2人の間で交わされた有名な論争があります。始終何かを書いている子規に対して漱石が苦言を呈したのがきっかけでした。 漱石「大兄の文はなよなよとして…」明治22(1889)年の大晦日、漱石は松山に帰省中の子規に手紙を書きました。「七草集」で様々な文体を駆使してみせた子規に、漱石は「兼て御趣向の小説は已に筆を下ろし給ひてや。今度は如何なる文体を用ひ給ふ御意見なりや」と尋ねます。 「大兄の文はなよなよとして婦人流の臭気を脱せず、近頃は篁村(饗庭篁村)流に変化せられ旧来の面目を一変せられたる様なりといへども未だ真率の元気に乏しく従ふて人をして案を拍て快と呼ばしむる箇処少なきやと存候」 読書してideaを養うべしこのように切り出した漱石は、文壇に立ちたいならオリジナルなアイデア(思想)を養うことこそが大切。文章のレトリックな

    子規と漱石③論争!アイデアとレトリック
  • 慶応三年生まれ

    今年生誕150年となる子規、漱石と同じ慶応三年生まれには、司馬遼太郎「坂の上の雲」でおなじみの秋山真之のほか幸田露伴や尾崎紅葉ら多士済々。実は子規没後100年の年に坪内祐三「慶応三年生まれ七人の旋毛曲がり」を知り、気づかされたという次第ですが…。その坪内氏がチョイスした七人は子規、漱石、露伴、紅葉、宮武外骨、南方熊楠、佐藤緑雨です。 子規の小説家志望に引導を渡した露伴明治25(1892)年、子規は渾身の小説「月の都」を書き上げ、「五重塔」の連載を始めるなど、すでに文壇で活躍中だった露伴に出版のあっせんと批評を乞います。評価は今ひとつで子規は意気消沈。小説家を断念し俳句に懸ける決意をしたことはよく知られているかと思います。 「日派」に対抗した俳人紅葉「金色夜叉」の尾崎紅葉は俳句も作りました。表現を凝縮させる手法や句を作るときの観察力が小説にも生かせると考えたらしいです。子規の「日派」に対

    慶応三年生まれ
  • 子規山脈③虚子·碧梧桐

    高浜虚子(1874-1959)松山出身の俳人。名清。河東碧梧桐とともに子規門下の双璧をなした人。柳原極堂が創刊した「ほとゝぎす(のち「ホトトギス)」を東京で引き継ぎました。子規の生前、「後継者に」と望まれた際には断って思いっきり落胆させていますが…。自立した一人の文学者たらんとの思いがあったのでしょう。でも、真意を内に秘めて安心させてやるとかできなかったのかなあ。正直すぎです。 漱石をプロデュース子規没後は夏目漱石の「吾輩はである」などを掲載し、漱石が文豪への道を歩むきっかけを作りました。 花鳥諷詠、客観写生一時俳壇を離れますが、かつての親友碧梧桐の新傾向俳句と対峙せんと復帰。「花鳥諷詠」「客観写生」の理念を提唱し、「ホトトギス」を大きく発展させ、俳壇の最高権威となりました。 子規逝くや十七日の月明に子規が亡くなった時に詠んだ句です。命日の9月19日は新暦。旧暦では8月18日です。子規

    子規山脈③虚子·碧梧桐
  • 柳原極堂の句碑

    子規の俳句革新支える松山市の井手神社というところに柳原極堂の句碑ができました。極堂は子規と同年生まれの友人。子規存命中は「ほとゝぎす」を創刊するなど、その活動を支え、子規没後は顕彰活動に尽力した人です。「友人子規」を書いたことでも知られていますね。 中学時代からの「文友」極堂と子規は中学時代からの友人で、子規は極堂を「文友」と称しました。子規と同時期に上京しますが、学業半ばで帰郷。松山の「海南新聞」の記者になり、明治28年、子規が病気療養のため帰省し、夏目漱石の下宿愚陀仏庵で過ごした時には日参組の一人となり俳句指導を受けました。海南新聞に子規選の俳句欄を設けて子規の俳句革新に協力。明治30年に創刊した「ほとゝぎす」は新聞社で印刷していたそうです。のちに新聞社を経営したり、政治家になったりもしました。今も活動中の松山子規会の発足にも貢献したそうです。 吾生はへちまのつるの行き処句碑は生誕15

    柳原極堂の句碑
  • 子規山脈②大原観山・加藤拓川

    大原観山(1818-1875)子規の母八重の父、外祖父。名は有恒。儒学者。幕府直轄の昌平黌(しょうへいこう)の舎長、松山藩の藩校明教館の教授を務めました。明治維新後は私塾を開き、子規も漢文の素読を観山に学びました。 子規を愛した祖父観山は子規をかわいがり、訓育に力を注いだようで。母八重は「升はなんぼたんと教えてやつても覚えるけれ、教えてやるのがたのしみじゃと言うておりました」(母堂の談話)と語り残しています。 祖父のような学者になる!観山は子規が数えて九歳の時になくなりますが、子規の人格形成や志向に大きな影響を与えたようです。子規は観山について「筆まか勢」第一編「当惜分陰」でこのように書いています。 余幼より懶惰、学を修めず。八、九歳の頃、観山翁余を誡めて「余の幼なる時も汝程は遊ばざりし」といはれし時には多少の感触を起こしたり。翁は一藩の儒宗にして人の尊敬する所たり。余常に之を見聞する故

    子規山脈②大原観山・加藤拓川
  • 子規と漱石②七草集と木屑録

    寄席通の二人ともに慶応3(1867)年生まれの子規と漱石。明治41年、「ホトトギス」の子規七回忌号に寄せた漱石の談話によると、二人が親しくなったのは寄席好き同士だったからでした。 「わすれてゐたが彼と僕と交際し始めたも一つの原因は二人で寄せの話をした時先生(子規)も大に寄席通を以て任じて居る。ところが僕も寄席の事を知つてゐたので、話すに足るとでも思つたのであらう。それから大に近寄て来た」(「子規全集別巻二」より) 当時は第一高等中学科(文科)一部の1年生。おそらく予備門時代から面識はあったでしょうが、交際が始まったのは明治22(1889)年の1月ごろ、とされています。はて?出典がなんだったかが思い出せず、なかなか分かりませんでした。いろいろ見返してようやく発見。 「木屑録(ぼくせつろく)」の評でした。漱石はこの年の夏休みに房総を旅行。その紀行文を漢文で書き、子規に評を求めました。子規も漢

    子規と漱石②七草集と木屑録
  • 子規と漱石①最後の手紙

    僕ハモーダメニナツテシマツタ僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日訳モナク号泣シテ居ルヤウナ次第ダ 明治34(1901)年11月6日、正岡子規が英国留学中の夏目漱石に宛てた手紙はこのような告白から始まっています。 同い年の二人の出会いは学生時代、22歳の時。互いを認め合い励まし合いながら時を重ね、病いに倒れた子規は立身出世を諦め文学者の道を、漱石は子規の影響で始めた俳句で名を上げつつも英文学者・教育者としての道を進んでいました。 子規を喜ばせた倫敦消息漱石が渡英したのは前年9月。官費留学でした。子規の病いは重く、互いに生きては会えないと思っていました。渡英後の漱石は日から送られてくる「ホトトギス」で子規の消息を確認していたようで、明治34年1月22日付の日記に「ほとゝぎす届く子規尚生きてあり」と書いています。 そして漱石は4月に子規、高浜虚子宛てにロンドンでの暮らしぶりを日記風につづった長文

    子規と漱石①最後の手紙
  • 子規山脈①母八重と妹律

    こちらのカテゴリーでは正岡子規を支えた人々や門下の面々を簡単に紹介していきます。 正岡八重(1845-1927)子規の母。明治5年、夫常尚が死去してからは実家大原家の庇護を受けながら裁縫を教えるなどして子規と彼の妹律を育てました。 毎年よ彼岸の入りに寒いのは明治25(1892)年、子規の看護のため律と上京し、子規の病床生活を支えました。「毎年よ彼岸の入りに寒いのは」。子規との会話で発した言葉がそのまま俳句になったという話はよく知られていますよね。律によれば、何事にも驚かない泰然自若とした人だったそうです。 もういっぺん痛いと言うておみ子規が亡くなった際、体を起こし「さあ、もういっぺん痛いと言うておみ」と言ったそうです。昔、東京・田端の大龍寺にある子規の墓を尋ねたら隣に八重さんのお墓がありました。 正岡律(1870-1941)子規の3歳下の妹。小さい頃は活発で子規がいじめられると彼女が仕返し

    子規山脈①母八重と妹律
  • 子規の俳句③落したか落ち足るか路の椿かな

    落したか落ちたか路の椿かな自選句集「寒山落木」巻一に収録。明治23(1890)年です。前回に続いてこれまた初期作品です。 椿が見ごろを迎えた春の道。歩いているとふと落花の気配が。あれ?俺が落としちゃったの?いや落ちたんだよね?もしかして美しい椿を落としてしまったんだろうかと申し訳なさを感じているような。そういう読みでいいのかな。 漱石の落椿椿は「散る」より「落ちる」がしっくりきますね。夏目漱石にもこんな句があります。 落椿重ね合ひたる涅槃かな 大正3(1914)年ごろ使っていた手帳に記されていた句だそうです。さすがに晩年の漱石の句の方が格調高い感じがします。落ちる椿と言えば「草枕」にもこういう一節があります。 「見てゐると、ぽたり赤い奴が水の上に落ちた。静かな春に動いたものは只此一輪である。しばらくすると又ぽたりと落ちた。あの花は決して散らない。崩れるよりも、かたまつたまま枝を離れる。枝を

    子規の俳句③落したか落ち足るか路の椿かな
  • 子規の生涯①生誕150年!

    はじめましてみなさんは正岡子規をご存じですよね?明治時代を代表する文学者の一人。坊主頭の横顔写真のあの人です。「病床六尺、それが我が世界である」。子規は結核と脊椎カリエスを患い、晩年は寝たきり生活を送ることになりました。布団1枚の広さで最後まで書き続け、35歳の若さで亡くなりました。その短い人生の中で俳句や短歌の革新など、後世に残る仕事をたくさんやった人です。 私は子規が大好きなのですが、ご存じのとおり、彼は今年の10月で生誕150年を迎えます。親友だった夏目漱石ともども150年です。節目の年にちなんで子規のあれこれを書いてみたいと思います。どうかよろしくお願いします。 子規は慶応3(1867)年9月17日(新暦10月14日)、松山市に生まれました。父親は松山藩の下級藩士。名は常規。幼名は升(のぼる)。近しい人からは「のぼさん」と呼ばれていました。亡くなったのは明治35(1902)年9月

    子規の生涯①生誕150年!