賃貸暮らしのわが家の地震対策【揺れから命を守る編】 以前のブログでも記載した、防災の優先順位に基づいて対策を進めています。まだ手をつけられていない部分もありますが、ある程度まとまってきたのでざっくりとご紹介していきます。 優先順位別に改善していっているため、今回は主に地震の揺れ対策がメインになります。…
賃貸暮らしのわが家の地震対策【揺れから命を守る編】 以前のブログでも記載した、防災の優先順位に基づいて対策を進めています。まだ手をつけられていない部分もありますが、ある程度まとまってきたのでざっくりとご紹介していきます。 優先順位別に改善していっているため、今回は主に地震の揺れ対策がメインになります。…
ブログを書くということはさ、その時点で、こう何か一言も二言も言いたい、ってことがあるわけ。 で、大抵言いたいことは、嬉しいことや悲しいことじゃなくて、何かに不満だったり怒っていたりすることだったりするわけ。嬉しいときは「嬉しいーーーっ!」と一言で済んじゃうし、悲しいときはその悲しさを説明することすら辛かったりする。 不満とか怒りとかは、もうなんかぐだぐだとしゃべり倒したいんだよね。「あのね、あたしもうすんごい怒った! これこれこういうことがあってね、それからこうこうこうなったもんだから、それはこうでしょと言ったら、なんとこう言われたのよ。ひどいでしょっ!」と、一から十まで説明したくなる。くどいけど。 まあ、なんで説明したくなるかというと、説明して「そうか、怒るのも当然だよね、うんうん分かるよ」と言ってほしいから。 嬉しいことは大抵説明しなくても簡潔に状況だけ伝えれば「そうかあ、よかったねぇ
ココで積極的にミクシィへの愛を綴っているせいか、 ときおりミクシィでファンレター的なメールをいただくことがあります。 いつも読まずに食べてしまうのでまた送ってくださいね。*1 で。 いただいたメールでよく見かけるのが、 「ブログをやる勇気もない小心者ですが」「ブログは怖くて開設できないけど」 という一文。 あぁ、この気持ち分かる。そう、ブログは怖い。 ブログをはじめたばかりの頃って、イヤホンをしたまま好きな歌を歌っている状態に近いかなぁって思います。 自分の声がどこまで届くか全然わからないので、最初は恐る恐る声を出す。 お、なかなかイイ感じ?アタシけっこうイケてるじゃん! おーれーはジャイアーン!がーきだーいしょー♪ のびたは笑顔、スネオもベタボメ。ドラちゃんもニコニコ。 自分の目の届く範囲にいる人間の反応は優しい。自分の歌を聞いてるのは彼らだけだろう。 けれどある日気づいてしまうのです。
http://blog.drecom.jp/akky0909/archive/865 ↑で書かれている「文学の定義」に関しては、僕には僕なりの考えがあるし、AkkyさんにはAkkyさんなりの考え方があることなので、とくに異論も反論もありません。いろんな意味で「文学に熱い人」だなあ、とは思いますし、そういう人がいてくれるというのは、むしろ心強いことでもありますので。 このなかで、 「文学」というものに本当に権威を認めないというならば、「文学」を否定されることに何らの痛痒も感じないはずです。もし感じるとするならば、それはどこかで「文学」というものに対する権威付け(ないしは価値付け)が行なわれているからではないかという気がします。そして僕の見るところ、fujiponさんの本音としては、匿名における「文学」の存在を否定されるのが嫌なのだと読みました。 と書かれているところに関しては、「本当に『文学
うまくいかない日に仕込むラペ 「あぁ、今日のわたしダメダメだ…」 そういう日は何かで取り返したくなる。長々と夜更かしして本を読んだり、刺繍をしたり…日中の自分のミスを取り戻すが如く、意味のあることをしたくなるのです。 うまくいかなかった日のわたしの最近のリベンジ方法。美味しいラペを…
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2007年01月05日 文章から人格を読む人・読まない人 ネットを徘徊しているとたまに見かけるのだが、興味深い価値観がある。それは 「文章(ブログ)を書いている人物の人格を想像、又は知ること・観察することが楽しい」という価値観である。 何が興味深いかというと、俺にはほとんど皆無である価値観だからに他ならない。 そのような文章で見られた特徴を挙げてみると ・ 初めて見て興味を持ったブログなどでは、プロフィールが欲しい ・ どのような背景を持つ人物なのか興味がある ・ その著者の持つ感情などを想像する などなど。まぁ、タイトルどおり文章から人格と背景を読むわけであり、同時にそれが面白いと感じるようである。そして、そのような人達は、自分自身もまたプロフィール欄をきちんと用意し、どのような背景を持ち、どのような感情を抱いて生活しているかということを徒然と記述していることが多い。 その事に気づいてか
「自己満足の向こうがわへ……。 - こんな世界のはしっこで・・・ - 楽天ブログ(Blog)」を読んで。 この納骨堂のアクセスがどれ位なのかは分からない。だが、アクセス解析の付いている他のブログで書いていた頃よりは確実に納骨堂は今まで私が書いてきたブログの中で一番多くの人々に読まれているという実感がある。この様に自己満足に勝手気侭に他人の書いたものに対して書いているのに有難い事だ。此処をアンテナやRSSリーダーに登録して読んで下さっている方々には心から感謝している。 Ad.Y&W氏は御自分の事を「無愛想」だと言っているが、私のような偉そうな物言いよりはまだましなのではないかな。 結局、私は「自分が楽しむためにがどうするか、どうしたいか」がまず第一ということ考えているようで、そのためか、全てが自己満足の範疇で収まってしまっているように思える。 私もそうだ。兎に角、己が一番楽しいと思えるように
関連:ブログは思考の外部装置(304 Not Modified様より) ”思考の外部装置”はかっこいい言い回しですね。攻殻機動隊に登場していた外部記憶装置を思い出しました。 運営してみて思ったのですが、ニュースサイトって自分用のメモみたいなものなんですよね。気になった記事を自分で記憶しておくために運営しているのように思います。確かに外部の記憶装置の意味合いは強いと思います。 ニュースサイトだけでなく、掲示板まとめサイトや考察サイトや、日記サイトも同じでしょうね。サイトは自分用の日記やメモを公開してるにすぎないのです。 でも、アクセス数の違いとかが出てくるのは、やっぱり違う要因なんでしょうね。 そこは”他人に見せる意識の違い”だと思いますよ。見易さやレイアウトはもちろん、記事の書き方まで、一つ意識を変えるだけで全然変わります。自分だけで楽しむか、他の人にも楽しんでもらおうとするかで、アクセス
よく私は自分は「弱小」サイトだから…という理由を言う時がある。 最初っから自分否定だけど、この理由は「弱小」という名を使って謙ってるだけに過ぎないと思う。 そして相手に同情を買って結果的に自分を上げる要素にする虚栄心が現れてるのだと感じる。 例えば「何でうちの記事を取り上げてくれないんですか?こんなにいい記事になのにどうしてですか?」とコメントか何か来たとする。 この文を見たとき「これはスルーしないとな。」と思うことは結構あると思うがあえて何でかを考えてみると、 サイトの方向性にあわないから。 タイトルに興味を惹かれなかったから。*1 内容が長すぎる。 内容が難解すぎる。 一応自分がもしもスルーするならこれくらいのことが挙げられる。 そして、これを言ってきた側のことを考えると「紹介されないということは、うちなんて目を向ける価値もない弱小なんだな…。」と思う人も少なからずいると思う。*2 *
好きなものは空と緑とS2000とガンダムとラジコン・ミニ四駆、Perfume(かしゆか)。ときどき子育てとキャンプ。 やっぱりMenaって凄いなあと思う。なんていうか、鋭いというか感性で射抜かれている感があって漠然と感じていることを分かりやすい言葉にして伝えることができる希有な人です。訳もいいんでしょうね。 スペシャルインタビュー 「人生の記録」が社会を変えた ブログは私たちの「人生の記録」なんです。 もちろん,ブログに自分の主義主張を書くときもありますけど,ほとんどの場合,「自分が今日何をやったか」でしょう? 例えば,私はいま東京にいて,夫はいま家(米国)にいます。彼は,自分が日々何をしたか,ブログに書いています。彼は料理が好きですから,記事の多くは料理のことです。 ほかの人からすれば,彼が何を作って何を食べていようが関心がないと思いますが,妻の私はそれを読むのが大好きなんです。そういっ
特に漫画感想記事の長文化が。過去の自分のジャンプ感想は1000文字だったのに今では2000文字を超えている。所要時間の変化も似たようなもの。もっと著しいのは単行本の感想で、自分で長さのノルマを課してしまっていないか。 つまらなさを長さで誤魔化そうとしているというよりは、その作品についての記事を何度も書けそうにないからできるだけ書き逃しがないようにしたいとの思いから長文化が進んでいるようだ。 分からんでもないが、それによって内容がグダグダになり記事の質が上がりもしないのに時間ばかりが掛かるようになるのが心配なのだ。 錘としてあえて手抜きがちな記事も書く読書は呼吸の存在が有効であってくれればよいのだが。
■そんなまわりくどいことすんなよそれより ( はてな匿名ダイアリー ) ■俺がコメ欄を開かない理由 ( はてな匿名ダイアリー ) コメント欄の話。 このへんを読んで、どうも紅は皆々様とコメ欄に対する考え方が違うのかも?と思いました。 紅はあまり積極的にコメントをするタイプではないので、そのせいもあるのかもしれませんが・・・コメント欄を閉じてるブロガーに対して「開けコメ!」とか「なんで閉じてんの?」と思ったことはありません。 相当惚れこんでるブロガーさんだったら”開いてほしいなイジイジ”くらい思うかもしれないけど、恋する乙女ってのは太古の昔からどうでもいいことをウジウジ悩むものと相場が決まってるのでこれは例外デス。 前回の舞台の例えで言えば、紅にとってコメント欄が開かれてるか否かというのは、舞台を見てる最中に隣の観客の笑い声や泣き声などの歓声、いわば喜怒哀楽が感じられるかどうかという程度の問
ブログが出て来てから、アフェリエイトもずいぶんと変わってきて、ブログシステムのボタン1つでリンクや自動広告がつけられるようになりました。 それはそれで、リンクの張り方を知らないブロガーでもアフェリエイトに参加でき、売る方も広告が多く出るほどに収入につながるのでいいのでしょう。 でも、あちこちで同じ内容の商品紹介を見かけるのは正直うんざりしますし、それが本や映画紹介のサイトでだと「自分の言葉でだけ書けないの?」と思ってしまいます。 実際問題として、書いてみたら本やドラマの裏説明とほぼ同じになってしまった・・・ということは多々あるのですけれど、ね。 たとえ手抜きだとしても、自動的に貼付けたり最初から丸写しをするのと、自分で考えて書くのとでは、気持ちの根本の部分が全く違うように思えます。 と常々、思っていた私としては、他人の記事を勝手に転載できる機能がヤフーブログについたことを知って驚いてしまい
[15] 形あるものいつか壊れる。命あるものいつかは滅びる。ブログも生き物なので、いつかは死んでしまうのです。という与太話です。 ウサギは寂しいと死んでしまうそうな。嘘か本当か知らないけど(嘘だけど)、むかし酒井法子がそう歌ってました。 では人はどうなると死んでしまうんでしょうか。僕は、やることがなくなったときだと思っています。やることがないと、人は生きていけない。福本まんが『銀と金』でも、地下の牢獄に閉じ込められて10年経った大学教授が発狂する様子が描かれています。僕も学生時代にインターネットと出会って救われました。 ではでは、サイトが死ぬときはどんなときでしょうか。これは簡単、更新を止めたときです。サイトは歩みを止めたとき、老いていくのだと思います。例えば情報サイトなどの種類によっては、1年も前に更新が止まっていると半分くらいの人は戻るボタンを押すと思います。 じゃあ、ブログが死ぬとき
はてなに触れるまでは「スパム=迷惑メール」くらいにか思っていなかったのですが、はてなダイアリーやはてなブックマークを使い込んでいると、スパムにもいろいろな種類があることがわかってきました。 はてなでスパムに出遭ったとき、それぞれの種類のスパムでどんな対策をとればいいのか。 はてブを使い出して1年経ったついでに、*1思いつく限りで書き留めてみたいと思います。 1.コメントスパム(はてなダイアリー) 特徴 コメントが登録された旨記したメールを開くや膨大なリンクの羅列を見せられたとき、スパムに遭ったことに気づきます。 書き込みが成功すると敵も学習するのか、同じ記事にしつこく定期的にコメントを発射する癖があるようです。 対処の方法 まず、コメントを禁止するIPアドレスを設定しました。ただ、いくら穴を塞ごうとしても手を変え品を変え網をくぐり抜けてくるので、この手段はあまり有効には感じられませんでした
最近W-ZERO3関連のエントリを上げるようになって、アクセス数がほぼ倍増するようになりました。 人は何故、ブログを書く(あるいはウェブで日記公開をする)のでしょうか。書く理由というのは人によって全く違うように見えて、その理由は三つの「ア」に集約されます。 三つの「ア」の最初の一つは「アイデンティティ」として。うるさく言うと「コトバの意味ちがーう!」というツッコミはあるでしょうが、まぁ察してください。自分の存在主張、存在理由とかそういうものを求めて表現へ向かうという意味です。私のようないいオッサンともなると、さすがにこの辺の動機は薄くなりますが。 二つ目は「アフェリエイト」。アソシエイトでもアサマシでもよいですが、広く利益誘導型という意味です。趣味でやってるぶんにはこの辺も薄い動機になりますかね。ウチの場合、一応アフェリエイトバナーとかつけてますが、本気で利益が欲しくてやってるわけではない
ただひたすらキーボードに向かって思いのたけを叩き続けていられたらと思うことがある。自己すら邪魔に感じる。 そんな一面を持つことはブロガーとして末期症状を覚えてきたという事か。 書いて伝えるということは難しいことではないと同時に不確実極まりないことだ。言葉のもつ意味はその人だけの意味であって、辞書などに記載されている共通認識に留まりはしない。日本海出身者の「冬」と沖縄出身者の「冬」のニュアンスが同一だといえないように、厳密には全てがそうなのだ。 感情や思考という取りとめのないものを強引に定義しても、どこかで漏れが出る。球面である地球を平面の地図に写し描くときに何らかの誤差がどうしても生じてしまうように、想いを言葉にするときにどうしても紛れが生じる。 正確な意味を言葉で伝えられる相手は自分だけ――とすら言い切れない。昔の自分が書いた文章からその時の想いが正確に再現できるかといえば否である。そも
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