ブックマーク / brighthelmer.hatenablog.com (24)

  • ネット上で社会学者の評判はなぜ悪いのか - 擬似環境の向こう側

    こんなタイトルのエントリを書くというのは、正直、悩ましい。 というのも、ぼくは社会学の正規教育は受けておらず、自分が社会学者だとはちょっと名乗れないからだ(制度的な理由で学位は「法学」だ)。 とはいえ、社会学部に勤務しているのは確かだし、社会学的なものに親しみもある。以下の文章は、あくまでそういう中途半端な立ち位置から書かれた「個人の感想」だということをまずは述べておきたい。 ネット上での社会学の評判はよくない。大変によくない。 実のところ、ネット上で積極的に発言をしている社会学者の数はさほど多くないと思うのだが、通常は社会学者だとはカテゴライズされない人も、「政治社会に関する発言をしており、かつ多くの人びとから反発を買っている人文社会系の学者」は「社会学者」とみなされてしまうことが結構ある。 それではなぜ、ネット上で社会学者はこんなにも嫌われるのだろうか。 社会学者が嫌いな人からは当然、

    ネット上で社会学者の評判はなぜ悪いのか - 擬似環境の向こう側
    IkaMaru
    IkaMaru 2020/02/26
    『反社会学講座』は古市憲寿みたいなのをとっちめるにはまだ有効な視座になり得ると思うけど、ただSNSをやってるだけで放言屋と一緒にされる学者にとってはとばっちり以外の何物でもないなあ
  • 表現の差別性を告発すること - 擬似環境の向こう側

    いまも昔も、ネットでのコミュニケーションでは諍いが絶えない。昨日はあちらで、今日はこちらで、といった感じで、いろいろなところで火の手が上がる。 それらの「論争」を眺めていると、対立している双方が強い被害者意識を持っていることが少なくない。とりわけそれが「差別批判 vs 表現の自由の擁護」という構図を取ると、その傾向はより一層強まる。 一方には、差別によって苦しんでいたり、その苦しみを引き受けることでメディア表現のあり方を問題視する人たちが存在する。他方には、そうした差別批判によって自分たちが享受してきた表現の自由が脅かされていると感じる人たちがいる。「相手によって自分たちの権利が脅かされている」と感じる人びと同士が対立する構図が生まれてしまっているように思える。 そのような構図のもとでは、「潰すか、潰されるか」という発想にしかならず、意見の違いを認め合ったり、歩み寄りが生じたりすることはま

    表現の差別性を告発すること - 擬似環境の向こう側
    IkaMaru
    IkaMaru 2018/10/08
    一言で表せば「雑」だと。もちろん丁寧に言っても彼らは聞くまいが、それでも議論の力を信じる者を自認するなら丁寧な議論を心掛けるのは最低限のモラル
  • 弱者男性問題について考える - 擬似環境の向こう側

    ここ数年来、ネットでよく目にするのが「キモくてカネのないおっさん」にまつわる問題である*1。 ぼくなりに解釈すれば、「女性であること」や「外国籍であること」にまつわる問題はマスメディアやネットでもさかんに論じられる一方、外見や所得、性的パートナーの面で困難を抱える男性の問題は無視されてきたという意識に起因しているのではないかと思う。 この問題についてはすでに様々な人が意見を述べていて、たとえば男性だという点ですでに社会的には強者なのだから、「男性であること」に起因する問題など存在しないという立場もありうる。 ただ、ぼくはそういう立場はとらない。以下のエントリでは、性的パートナーの問題は措いて*2、とりあえず「社会問題」の提起という観点から、弱者男性の問題について考えてみたい。 「社会問題」の提起における弱者男性問題 このブログで何度も指摘してきた通り、社会問題や事件などにおいて、世間の同情

    弱者男性問題について考える - 擬似環境の向こう側
    IkaMaru
    IkaMaru 2017/07/29
    そりゃ「庇護欲を喚起される対象だけが救われる」のは改められるべきだけど、彼らは「どうせ俺を救う気などあるまい」とばかりに自らのルッキズムやミソジニーを剥き出しにして、より「キモく」なろうとするからなあ
  • 偽物の愛国心? - 擬似環境の向こう側

    ジョンソンによる警句の背景 先日のエントリについて、サミュエル・ジョンソンに関する説明が足りないのではないか、という指摘を受けた。そこで補足を…と思ったのだが、残念ながらぼくは18世紀の英国について専門的に研究しているわけではない。 そこで手抜きではあるが、ローハン・マックウィリアム『19世紀イギリスの民衆と政治文化』(昭和堂、2004年)という著作から、ジョンソンに関する記述を引用してみたい。 18世紀および19世紀の大半を通じて、愛国主義は急進主義の基礎となるイデオロギーと、エリートたちを攻撃することができる反対派の言葉を構成していた。エリートが利己的で国を愛する気持ちを持たないものとみなされる一方、急進主義者は国の繁栄を気づかう高貴な精神の持ち主であると主張することができた。(中略) トーリ党の支持者であったジョンソン博士が「愛国主義は不埒なやつらの最後の隠れ家だ」と不満を述べたとき

    偽物の愛国心? - 擬似環境の向こう側
    IkaMaru
    IkaMaru 2017/03/04
    そもそもその成員たる民を通さずして国家が幸福や満足を覚えることはない。なれば人を愛さず国家を愛することはストーカーの偏愛以上のものにはなり得ない
  • 「ポスト事実」の時代をいかに越えるか - 擬似環境の向こう側

    「ポスト真実」は使いづらい 今年も残りわずか…と書こうと思っていたら、年が明けていた。 ということで、2017年最初のエントリは流行語ともなった「ポスト真実(post-truth)」について考えたい。 正直に言えば、「ポスト真実」というのは使いづらい言葉だと思う。この言葉が使われるようになった発端は、事実に基づかない発言が大々的に行われたり、ネット上のデマサイトが多くのアクセスを集め、虚偽情報が流布するようになったことにあるのだろう。 だが、それ以前には真実の情報が流通していたかと言われると、ちょっと首をかしげてしまう。そもそも、真実とはやっかいな言葉なのだ。 「真実はいつも一つ!」ではない ここでまず注意したいのは、事実と真実とは異なるということだ。事実とは、一般には誰の目から見ても明らかな事柄や出来事を指すように思う。物騒な例えを用いるなら、AがBを刺したとする。この場合、何をどう解釈

    「ポスト事実」の時代をいかに越えるか - 擬似環境の向こう側
    IkaMaru
    IkaMaru 2017/01/04
    偽ニュース需要には「1.心地良いから」「2.真実だと思っているから」以外にも「3.嘘だとしても『善』を持ち上げ『悪』を陥れるなら正しい事だから」もある。手段を選ばぬ実行力を誠実さより評価する人にありがち
  • (書評)「プロパガンダ」史観の限界 - 擬似環境の向こう側

    素人が挑む「南京事件」 この八月、いわゆる「南京事件」を論じた二冊の書籍が出版された。 一冊は有馬哲夫『歴史問題の正解』(新潮新書)、もう一冊は清水潔『「南京事件」を調査せよ』(文藝春秋)だ。有馬は冷戦期プロパガンダ研究などで有名なメディア研究者、清水は桶川ストーカー事件や足利事件などの報道で知られる日テレビの記者である。 ここで注目したいのは、どちらも「南京事件」の専門家ではないという点だ。実際、清水の著作を見ると「南京事件」は「相当に面倒そうなテーマである」といった後ろ向きな記述や、事件に関する書籍の多さに愕然となるシーンなど、清水自身がこの事件について詳しい知識を持たなかったことが正直に吐露されている。 他方、有馬の著作は「書は日アメリカ、イギリスの公文書館や大学図書館で公開されている第一次資料に基づいて歴史的事実を書いたものである」という書き出しに象徴されるように、あくまで

    (書評)「プロパガンダ」史観の限界 - 擬似環境の向こう側
    IkaMaru
    IkaMaru 2016/09/16
    米ソの宇宙開発競争なんてプロパガンダ合戦みたいなものだったが、だからって「アポロは月に行っていない!」と主張する人が正しくなる訳もない
  • 保育園不足問題は「超政治化」できるか? - 擬似環境の向こう側

    anond.hatelabo.jp このエントリが話題である。 はてなの「アノニマス・ダイアリー」(通称、増田)のエントリがここまで話題になるというのは、長年のはてなユーザーからすればある種の感動を禁じ得ない。だって、あの増田ですよ?通勤途中にう○こ漏らしたとかいう話題で盛り上がっているあの増田が国会デビューする日が来るとは、さすがにちょっと予想できなかった。ちなみに、増田には稀に文学的な文章が投稿されることがあり(「増田文学」と呼ばれる)、ぼくのお勧めは次のエントリだ。 anond.hatelabo.jp 「超政治化」と「脱政治化」の狭間 …という前置きは措くとして、保育園エントリが話題になって以降、いくつかの動きが出てきた。このエントリで取り上げたいのは、保育園不足の問題を政治的党派間の争いに利用しないで欲しいという主張、そしてもう一つはこの問題の重要性を否定、もしくは切り下げようとす

    保育園不足問題は「超政治化」できるか? - 擬似環境の向こう側
    IkaMaru
    IkaMaru 2016/03/16
    保守派の中には自民党が行うものだけが「政治」だと勘違いしてる人がバカにできない数で存在する。そういう人は野党が何を行おうと「クレーム」にすぎないと思ってるのだ
  • 「ダブルシンク」としてのミサイル報道 - 擬似環境の向こう側

    イギリス人作家、ジョージ・オーウェルの『1984年』は、全体主義国家による徹底した管理を描いたディストピア小説としてよく知られている。 この小説に登場する全体主義国家では、「ダブルシンク(二重思考)」と呼ばれる思想統制方法が用いられている。それによって国民は、来は矛盾するはずの二つの信条を矛盾のないものとして受け入れることが可能になる。 たとえば主人公が勤める真理省は、国家の方針に沿って歴史を都合よく書き換えるための国家機関を指す。真理省で働く者は歴史の捏造に手を染める一方で、そこで生み出される「歴史」が真実であると信じねばならないのだ。 このダブルシンクを彷彿とさせるのが、昨日、北朝鮮が発射した「事実上の長距離弾道ミサイル」に関する報道だ。北朝鮮政府は人工衛星の打ち上げと主張しており、実際に「地球観測衛星」を軌道に乗せた可能性もあるという。 言うまでもないことだが、日が人工衛星を発射

    「ダブルシンク」としてのミサイル報道 - 擬似環境の向こう側
    IkaMaru
    IkaMaru 2016/02/09
    ポジショントークをポジショントークと認識してない人たちの危険性
  • ぼくの良識 - 擬似環境の向こう側

    自分で言うのも何なのだが、ネット上でのぼくはわりと良識的なのではないかと思う。 ツイッターやブログでも攻撃的だったり差別的だったりすることはなるべく書かないようにしているし、ぼくが書いたものを読んで傷つく人がいなければいいなとも思っている。もちろん、書いているものが下らない、内容がない、間違っている等々の批判はあるとは思っているが、それとこれとは別の話だ。 そんな良識的なぼくのことだ、ツイッターでフォローしている人たちも良識的な人たちばかりだ。政治的な書き込みは多いけれど、人を差別したり中傷したりする人はいない。ただ最近は、ぼくがフォローしている人のあいだでいざこざが多いのが気になると言えば気になる。 そんなぼくのタイムラインをさいきん賑わせているのが、「反差別や平和を掲げているのに差別的だったり、攻撃的だったりする人」に関する話題だ。ぼくも以前のエントリで、そういう人たちを批判したことが

    ぼくの良識 - 擬似環境の向こう側
    IkaMaru
    IkaMaru 2015/11/25
    彼らからヘサヨ呼ばわりされる方に寄ってる左翼としちゃ到底彼らのようなヤンキーを好きにはなれないが、差別自体はどうでもいいと思ってるいじめの傍観者よりはマシだ
  • 「命の軽さ」が与えてくれるもの - 擬似環境の向こう側

    ずっと以前、「人口の多い中国では、命の重さが日とは違う」という趣旨の文章を読んだことがある。いまでもネットで検索すれば、そういう文章をすぐに見つけることができる。 しかし、当にそうなのだろうか、とも思う。子どもを喪った中国人の父母は「じゃあ、また新しく子どもを作ろうかね」とドライにさっさと切り替えられるものなのだろうか。 メディア上での命の重み 命の重さ、という点で言えばメディアの扱いもずいぶんと違う。 13日の夜にフランスのパリで発生したテロ事件。日ではメディアの対応が遅い、小さいという批判もあるが、それでも『朝日新聞』の14日夕刊と15日朝刊の一面はパリのテロが飾った。Facebookを眺めていても、フランス国旗をモチーフに自分のプロフィールをトリコロールにしている知人が何人もいる。フランス国民との連帯の意思を表明しているのだろう。 その一方で、パリでテロが起きる前日、レバノンの

    「命の軽さ」が与えてくれるもの - 擬似環境の向こう側
    IkaMaru
    IkaMaru 2015/11/16
    「命が軽い」というのは事実ではなく願望だという話。その国の体制自らが「うちの国では命が軽い」と見なしたい場合、それと結託することでもある
  • 「ナショナリズム批判」というナショナリズム - 擬似環境の向こう側

    むかしから、愛国心(patriotism)とナショナリズム(nationalism)はまったく違うものだとよく言われる。たとえば、ジャーナリストにして小説『1984年』や『動物農場』を書いたジョージ・オーウェルは、愛国心について次のように述べている。 「自分では世界中でいちばんよいものだと信じるが他の人びとにまで押しつけようとは思わない、特定の場所と特定の生活様式に対する献身」 (出典)ジョージ・オーウェル、小野協一訳(1968=1995)「ナショナリズム覚え書き」(川端康雄編『水晶の精神 オーウェル評論集2』平凡社、p.36。 他方、オーウェルはナショナリズムについては次のように述べる。 「人間が昆虫と同じように分類できるものであり、何百万、何千万という人間の集団全体に自信をもって『善』とか『悪』とかのレッテルを貼れるものと思い込んでいる精神的習慣」、「自己をひとつのネーションその他の単

    「ナショナリズム批判」というナショナリズム - 擬似環境の向こう側
    IkaMaru
    IkaMaru 2015/06/01
    日本の土地を買う中国人を恐れるような反応はまさにこれだよなあ
  • メディア・リテラシーなるもの - 擬似環境の向こう側

    ぼくは大学でメディアについて教えている。 メディアに関して学生の書いたものを読むと、かなりの割合で「メディア・リテラシーを身につけることが必要である」とか「マスメディアを鵜呑みにしてはいけない」という結論に至っている。まるで誰かがフォーマットを作っているのではないかと思うほどだ。 しかし、教員としてこういうことを書くのはいかがなものかとも思うのだが、そもそもメディア・リテラシーなるものは実践可能なのだろうか。ここで安易にウィキペディアから引用してみると、次のように書いてある。 メディア・リテラシー(英: media literacy)とは、情報メディアを主体的に読み解いて必要な情報を引き出し、その真偽を見抜き、活用する能力のこと。 (出典)メディア・リテラシー - Wikipedia 言わんとすることは分かる。分かるのだが、実際問題としてこれを実践することは不可能なのではないだろうか。 毎

    メディア・リテラシーなるもの - 擬似環境の向こう側
    IkaMaru
    IkaMaru 2015/04/26
    日本経済破綻を本当に信じてる人は、円で貯金するのをやめて全財産を外貨預金に切り替えてるだろう。そうしない程度にはみんなリテラシーを持ってるんじゃないかな
  • 言葉のブーメランが返ってくるとき - 擬似環境の向こう側

    ネット上ではやたらと攻撃的なひとが少なくない。 とにかく他者や他集団に対して攻撃的な書き込みをする。それも一つの芸風だと言ってしまえばそこまでだが、そういうひとは防御力が弱くなることも多い。 というのも、誰かを攻撃するためには何らかの理由が必要だからだ。「こんなに酷いことをする(言う)なんて」という理由によってひとは他者や他集団を攻撃する。だが、攻撃をする回数が増えるほどにその理由づけも増えていく。結果、自分自身の行動がそれに当てはまってしまう可能性がどんどん上がっていくのだ。そうなれば、自分自身の言葉がブーメランになって返ってくることもそれだけ多くなってしまう。言論戦において「攻撃は最大の防御なり」は必ずしも妥当しない。 もっとも、言動の一貫性など最初から気にせず、他人からそれを指摘されたとしても無視すればよいだけなのかもしれない。しかし、そういう人は他人からも「そういう人」だと見なされ

    言葉のブーメランが返ってくるとき - 擬似環境の向こう側
    IkaMaru
    IkaMaru 2015/03/16
    多くの人に支持されたい、認められたいならそうあるのが正解だけど、少数でも熱烈な信徒を囲い込んでしまう戦略の人もいるので
  • 移民の受け入れと異文化の共生 - 擬似環境の向こう側

    アパルトヘイトとエスニック・コミュニティ 『産経新聞』に曽野綾子氏が掲載したコラムをめぐって、大きな騒ぎが起きている。曽野氏がアパルトヘイト肯定とも解釈できる主張を行なったからだ。 人は誤解だとしているようだが、このコラムは高齢者介護のために移民受け入れの必要性を論じる一方、かつての南アフリカの事例を取り上げたうえで「住居だけは別にしたほうがいい」と語っている。アパルトヘイト肯定として解釈されても仕方がないように思う。 ともあれ、ネットで急速にシェアされ、ネット系のメディアが取り上げ、海外メディアが「安倍首相の元アドバイザー」の発言として報道するようになった。アフリカ協議会や在日南アフリカ大使から『産経』への抗議が行われて事件となったことで、やや遅れて日のマスメディアも取り上げ始めている。 曽野氏の主張に関してはすでに数多くの批判が行われており、その多くは的確なものだ。アパルトヘイ

    移民の受け入れと異文化の共生 - 擬似環境の向こう側
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    IkaMaru 2015/02/15
    奴隷紛いの低賃金労働者として移民が入れられた場合、当然ながら日本への愛着や帰属心は弱くなるだろう。ならば排外主義者がそれを問題視してくるのもまた当然の成り行きとなる
  • 紛争地域の報道とメディアの責任 - 擬似環境の向こう側

    人質事件に端を発し、紛争地域での取材活動が大きな問題となっている。 1月26日には『朝日新聞』のイスタンブール支局長がシリアのアレッポに入り、2月1日には現地からの記事が同紙に掲載された。『毎日新聞』は1月31日にその事実を報じ、『読売新聞』や『産経新聞』がそれに続いた。 『毎日』の記事は、外務省が『朝日』に記者の出国を要請したという事実を報じるだけの短いものだ。しかし、『読売』や『産経』の記事は、『朝日』の記者が外務省の退避要請を無視してシリアに入国したことを伝えており、批判的なニュアンスが強い。 『読売』や『産経』のこうした姿勢に対して、ぼくは強い不快感を覚えるのだが、このエントリではその理由について述べてみたい。 そもそも、危険な地域での取材活動というのは誰かがやらねばならない仕事だ。情報の欠落はその地域で何が起きているのかを外部から見えなくしてしまう。もし第三者の観点から事態を報じ

    紛争地域の報道とメディアの責任 - 擬似環境の向こう側
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    IkaMaru 2015/02/09
    政府への白紙委任を積極的に奨励してゆく太鼓持ちとなる所存だと表明したと、そう受け取っていいんじゃないですかね。産経と読売に関しては
  • 『リベラル・ナショナリズムと多文化主義』紹介 - 擬似環境の向こう側

    以前、このブログで「リベラル・ナショナリズム」について取り上げたことがある(参照)。矛盾する思想と見なされることの多いリベラリズムとナショナリズムとを組み合わせ、それを肯定しようとする立場の議論だ。 このリベラル・ナショナリズムの思想をより深いところまで突き詰めた著作が、安達智史さんの『リベラル・ナショナリズムと多文化主義―イギリスの社会統合とムスリム』(勁草書房、2013年)だ。イギリスの移民政策をケース・スタディとしつつ、リベラル・ナショナリズムと多文化主義について書かれた大作である。 書はまず、移民の急激な増加によって「超」多様化するイギリス社会を取り巻く現状について概観する。そこでは移民に対する反発が強まる一方で、移民なしではもはや社会が立ち行かなくなっているイギリス社会の実情が明らかにされる。 次に、書の理論的な背景として、政治哲学の領域に踏み込み、ロールズやサンデルなどによ

    『リベラル・ナショナリズムと多文化主義』紹介 - 擬似環境の向こう側
    IkaMaru
    IkaMaru 2015/01/13
    イギリスに限った話ではなく、日本でだって実情は変わりない。いつでもオープンなのに、「特異性」をあげつらいたい人ほど探りに行こうとしないのだが
  • 「リベラル」って誰のこと? - 擬似環境の向こう側

    ネットではよく「戦後リベラルは…」といった物言いを目にする。そこで言及される「戦後リベラル」というのは大抵頭の悪そうな主張をしていて、柔軟性に欠ける一方、平気でダブルスタンダードを行使する卑劣な輩であったりする。 こういう物言いが気になるのは、ぼくが自分のことを(一応は)リベラルだと考えているからなのだろう。自分では全く支持しないような意見であっても「リベラル」だというだけで、それを支持していることにされてしまう。これはあまり愉快な経験ではない。 おそらくそれは「リベラル」に限った話ではないはずだ。「フェミニズム」、「サヨク」、「ウヨク」、「ネトウヨ」等々のカテゴリーにしても同様のはずだ。自分では口にしたこともないような意見についてまでそれを支持していることにされてしまう。実際、この手の粗雑なカテゴライズは緻密な議論を展開するうえではそれほど役に立たない。むしろ邪魔になることのほうが多いだ

    「リベラル」って誰のこと? - 擬似環境の向こう側
    IkaMaru
    IkaMaru 2015/01/03
    「リベラル」に限らないのだが、それにしても「リベラル」という言葉のどうとでも捉えられるフワフワ感は頭一つ抜けてる。「左翼」だったらそこまで粗雑には言えないはず
  • ネットでのヘイトスピーチに関する取材手法について - 擬似環境の向こう側

    在日コリアンの方々に罵詈雑言を投げつけていた男性に関する記事が話題になっている。これだ(記事タイトルを一部改変)。 ネットでヘイトスピーチを垂れ流し続ける中年ネトウヨの正体【前編】 ネットでヘイトスピーチを垂れ流し続ける中年ネトウヨの正体【後編】 力作である。著者の安田浩一さんのルポライターとしての力量を見せつける迫真のレポートと言っていい。 この記事で取り上げられている男性については、そのツイートがたまにリツイートされてくることもあり、ぼくも以前から知っていた。その内容は当に酷く、まさにヘイトスピーチと呼ぶよりほかにないものだった。それゆえ、この男性が安田さんの取材によって追い詰められていく様子に、ある種のカタルシスを感じたことは否定しがたい。 その一方で、この記事を読んで微妙な居心地の悪さも感じた。それは安田さんが男性の正体を探り当てる手法に起因している。男性のネットへの書き込みから

    ネットでのヘイトスピーチに関する取材手法について - 擬似環境の向こう側
    IkaMaru
    IkaMaru 2014/11/20
    ベテラン記者の安田さんが間に入ったからいいものの、もし彼女たちが単独でヨーゲンに対抗せざるを得ないと考えたらネットにバラ撒かれている可能性もあった。危うい所ではある
  • 「階級小説」としてのハリー・ポッター - 擬似環境の向こう側

    小説映画もずっと前に完結したハリー・ポッターについて、なんで今さら書くのか。はっきり言って特に理由はない。あえて言えば、今日読んでた論文に“scrounger”という単語が出てきて、「ああ、これハリポタでも出てきたなあ」と思いだしたというのが最大の理由だ。 さて、エントリのタイトルの通り、ハリポタは階級小説である。階級小説というのは、要するに社会階級の存在を中心的なテーマとして描く作品で、イギリスに数多く存在すると言われる。日のマンガでも、金持ちのボンボンとメイドとの恋を描いた『エマ』は階級マンガと言えるのではあるまいか。そして、ご多分に漏れず、イギリスで生まれたハリポタという作品も階級小説として読むことができる(たぶん)。 というわけで、以下はネタバレ満載なので、これからハリポタを読もう(見よう)と思っている人は止めておいたほうが無難だし、そもそもハリポタに興味がないという人にとって

    「階級小説」としてのハリー・ポッター - 擬似環境の向こう側
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    IkaMaru 2014/11/17
    他にもしもべ妖精や巨人のような亜人種族が人種的マイノリティを指してる事は前から言われていたけど、そう考えるとユダヤ人モチーフと思われるゴブリンだけが妙に愛情のない描かれ方をしてたのが気になる
  • 吉田証言はどこまで国際世論を形成したか - 擬似環境の向こう側

    (ツイートのまとめに加筆) 吉田証言の影響力を検証するには 慰安婦の「強制連行」に関する吉田清治氏の証言とそれに関する報道はどこまで国際世論を形成したのか。いきなりで恐縮だが、ぼくには分からない。分からないのだが、これに関して思うところを少し書いておきたい。 吉田清治氏の証言やその報道が日韓関係にどれぐらい影響を及ぼしたのかについては木村幹さんが積極的に論じているが、ここでのテーマは広い意味での国際世論に与えた影響についてだ。 マスメディアの影響を考えるさい、もっとも一般的なのは、それが受け手(聴取者や読者)にどのような影響を与えたのかを検証するというものだ。ただ、今回の件に関して、この調査は非常に難しいだろう。 また、慰安婦問題の場合、吉田証言がクマラスワミ報告や米国下院の対日非難決議で採用されているということもあるが、内容の決定にあたってどの影響を及ぼしたのかについては意見が分かれてい

    吉田証言はどこまで国際世論を形成したか - 擬似環境の向こう側
    IkaMaru
    IkaMaru 2014/09/16
    "日本語という言語的障壁は決して越えられないものではなく、さまざまなチャンネルを通して彼ら自身で情報を収集している" にも関わらず彼らの情報を飲んでくれるのはテキサス親父ぐらいしかいない現実