「あれは漫才なのか」論争 2020年の『M‐1グランプリ』には史上最多となる5081組がエントリーし、決勝の模様は12月20日に全国で生放送され、平均視聴率19・8%という高視聴率を記録した。歴代で見ても、3番目に当たる記録である。すっかり年末の風物詩、一大イベントとして定着したことを改めて感じさせる。 優勝したのはマヂカルラブリーだった。ボケ役の野田クリスタルに、ツッコミ役の村上のコンビである。2017年にも決勝進出を果たしているが、このときは10組中最下位で、その際の審査員・上沼恵美子の「よう決勝残ったな」といった手厳しい講評が話題にもなった。マヂカルラブリーにとっては、そのときの借りを返したかたちである。優勝と最下位の両方を経験したコンビは、大会史上、彼らだけというおまけもついた。 ところが、この決勝で彼らが披露したネタをめぐって論争が起こった。まだ記憶に新しいところだが、マヂカルラ
お笑いコンビ・阿佐ヶ谷姉妹の著書『阿佐ヶ谷姉妹ののほほんふたり暮らし』(幻冬舎)が、NHKでドラマ化されることになった。木村多江が姉の渡辺江里子を、安藤玉恵が妹の木村美穂を演じる。総合テレビで11月1日から放送される。 『阿佐ヶ谷姉妹ののほほんふたり暮らし』は、発売当初から話題になっていた。阿佐ヶ谷姉妹は、ピンクのドレスに身を包んだ疑似姉妹コンビだ。血のつながりはないものの、顔や雰囲気が似ていることもあって「姉妹」を名乗って活動をしている。この本では、そんな独身中年女性の2人が、六畳一間のアパートで共同生活を送る等身大の日常がつづられている。 当時からすでにテレビにも出始めていた売れっ子の2人だが、エッセイで描かれる私生活はつつましい。六畳間にこたつを挟んで布団を2つ並べて寝ている。 あるときには、美穂が自分の布団だけをシングルからセミダブルに買い替えたために、江里子は自分の布団を敷くスペ
すでに日本テレビは、「シーズン2」を決定しているのではないか。「ハコヅメ~たたかう!交番女子~」(水曜午後10時)は、主演の永野芽郁が新型コロナウイルスに感染して2週休止(特別編)という“想定外”はあったが、再開後もコア層(13~49歳)の視聴率トップと好調。動画配信サービスのランキングも上位だ。 「世の中が重苦しいので、いまはシリアスなドラマをリアルにやったら絶対だめですね。その点、ハコヅメは楽しい。コメディーだけど、ウソの世界じゃないというのがいいんです。ああ、自分もあんなふうに仕事や人間関係を軽やかにやれたらいいのになあと、気分が明るくなるんですね」(放送作家) ドラマは、埼玉県警のある交番(ハコ)勤務の元エース刑事・藤聖子(戸田恵梨香)と駆け出しの川合麻依(永野)の2人の女性警察官を主人公に、悪戦苦闘の日々、男社会のパワハラ・セクハラ、身勝手な地域住民、言いたい放題の警官女子会、許
『かげきしょうじょ!!』と『ライジング!』は“娘役”をどう描いた? 娘役像からの逸脱と男役優位に対する批評性 女性のみで構成され、男役・娘役やトップスター制度という独自のシステムに基づく、華やかな舞台が人気の宝塚歌劇団。宝塚をモデルにした歌劇団というテーマは、漫画の題材としても人気が高く、これまでにもさまざまな作品が発表されてきた。 なかでも2012年から現在まで「MELODY(メロディ)」(白泉社)連載中の斉木久美子『かげきしょうじょ!!』と、1981年から84年まで連載された氷室冴子原作・藤田和子作画の『ライジング!』(小学館)は、歌劇団漫画の新旧の傑作として名高い。 この2作は、「歌劇団の音楽学校に入学した少女がトップスターを目指す」という共通点を持ちつつも、大きく異なる方向性で物語を展開している。『かげきしょうじょ!!』は、群像劇をベースに多数のキャラクターに光を当てながら、歌劇団
自民党総裁選の決起集会で、集まった人たちに手を振る菅義偉官房長官=14日午後、東京都港区(松本健吾撮影) 平成30年9月から令和元年8月までの約1年間、政治部の官房長官番記者として菅義偉氏を取材した。 「新しい元号は『令和』であります」 平成31年4月1日、首相官邸の記者会見室。菅氏が緊張した面持ちで「令和」と記された額を掲げると、室内にシャッター音が鳴り響いた。記者はこの会見に番記者として出席し、元号選定で重視した点などを尋ねた。 この直後からの「令和おじさん」フィーバーはすさまじかった。若者からお年寄りまで菅氏を知らない人はなく、行く先々でもみくちゃになった。菅氏もそれを最大限活用し、みずから政権の「広告塔」を演じた。令和元年8月の埼玉県知事選では与党推薦候補の応援のために埼玉入りし、多くの人を集めた。 元号発表のころから菅氏は「ポスト安倍」の有力候補へと急浮上する。「平成」を発表した
戦国時代において「最強の大名」と言えば、誰を思い浮かべるだろうか? 朝鮮出兵時の泗川の戦いや関ヶ原の戦いでの奮戦ぶりから、おそらく九州の島津家を挙げる人は少なくないだろう。そんな島津家だが、歴史学では「意外な一面」も明らかになってきている。新刊『「不屈の両殿」島津義久・義弘』から、一部編集のうえで紹介しよう。 戦国島津家に対するイメージ 薩摩・大隅・日向三か国統一を成し遂げた島津家は、天正7年(1579)11月、隈本城(熊本市中央区古城町)の城親賢の要請により、同城に援軍を派遣して以来、肥後国情勢に介入していき、天正9年9月には肥後南部の有力国衆相良義陽を下している。 これ以降、天正14年末まで、島津家は肥後以北の北部九州に進出していき、龍造寺隆信を敗死させ、筑前・豊前・豊後の一部をのぞき、九州の大半を勢力圏に収めていく。天正年間初頭まで北部九州六か国を勢力下においていた大友宗麟に代わって
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