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ブックマーク / mdenka.blog85.fc2.com (2)

  • 「適応ゲーム」としての「いじめ」 - 殿下執務室2.0 β1

    やや今更観があるが、このネタに関してのエントリをメモ書き程度に。 ・痛いニュース(ノ∀`):【福岡・中2自殺】 「あいつ死んで、せいせいした」 いじめ集団、自殺生徒の葬儀で笑いながら何度も棺をのぞきこむ ・関連(かな?):「壁の中」から-過剰適応の症状としての暴力――「〈野宿者襲撃〉論」生田武志・1 ・関連もいっちょ:404 Blog Not Found:社会あるところにイジメあり 恐らく、「いじめ」というのは、「適応ゲーム」と言い換えることが可能なのかな、と思う。 要するに、「適応者」が自らの適応度を主張するエネルギーの過剰が、それに相対するものを「非適応」と看做して排除する行動が、一定の娯楽性をもって「適応者」に認識されることが「いじめ」という現象になる、ということだろう(勿論「非適応」とレッテルを貼られた生徒がどの程度非適応的かは主観であり、要するに能力値のレーダーが正多角形から遠い

    Masao_hate
    Masao_hate 2008/09/22
    そう。加害者側が、被害者側に「(俺達のコミュニティに)適応せよ」と要求しているのがこの問題の困難さ。学校はまさに適応させるための機関だから、「被害者にも問題がある」という言い分が効力を持ってしまう。
  • 世間はいずれは選ぶもの。 - 殿下執務室2.0 β1

    が臨月だ@増田 んー、叩きたくなる気持ちは分からなくはないけれども、叩く人の気がよく知れん。 というか、実は学齢をあがるに連れて、そして自分の責任で人間関係を構築できるようになるに連れて、基的に現代社会にて移動や職業選択その他もろもろについてある程度の自由を保障されている人間ってのは「類友」に近づくようになる。つまり「誰とでも仲良く」という幼稚園的な桎梏から解放される。勿論、それ自体にはある程度のスキルが必要で、高校くらいになってもある種のミスマッチの罠に嵌ると滝川ルネッサンスとか時津風部屋の類に堕ちる悲劇もあるのだけれど、要するに「お付き合いしない人たち」みたいなのを作る、ってのは普通にほとんどの人たちが最終的に辿り着く場所であるはず。そもそもこんな文章にぶくまするのなんて大概はいい大人だろうに、何てピュアな批判をしてるんだろう、みたいな第一印象があった。 一方で、当に子どもが小

    Masao_hate
    Masao_hate 2007/10/10
    大人になるにつれ人は類友で固まる。色んなコミュの人と分け隔てなく付き合う努力と成功の関連はあまりない。超同意。併せて読みたいhttp://tinyurl.com/2njsl4/元記事は親が子にコミュニティを押し付けてる部分は問題かも
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