日本の障害者運動史を研究しはじめて約20年になる。振り返ってみれば、この間、ずっと「国家や社会に抗うマイノリティ」を追いかけてきた。 ただし、私が追い続けてきたのは「巨大権力に立ち向かった果敢な英雄」というわけではない。正確に表現するのが難しいのだが、強いて言えば「自分自身の痛みと向き合い続けていたら、いつの間にか国家や社会に歯向かわざるを得なくなった人生を、結果として歩んでしまった人物」ということになるだろうか。 特にこの4~5年は、約半世紀前に起きた事件のことを考え続けていた。昨年は文字通り「寝ても覚めても」といった状態だった。その事件は、私に根源的な問いを突きつけてくる。個人は国家に抗うことができるのか。なぜ個人が国家と対峙せざるを得ない状況が生まれるのか。個人が国家に歯向かうことにどんな意味があるのか。こうした問いについて、取り憑かれたように考え続けていた。 『モナ・リザ展』初日に
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